雑談: 「沼」が複数あること、ないこと

友人が、こう言われたそうだ。

「あなたは好きなものがたくさんあっていいわね。私には、一つしかなかったの」

私も、好きなものが死ぬほどたくさんあるタイプだ。
ヴィジュアル系、ペルソナ4、アイドルマスターSideM、クイズの人たち、エトセトラ。もっと範囲を広めてよければ、ラム肉だって定期的に吸わなければ発作が出るくらいには好きだし、コーヒーなんかは毎日摂らないと死んでしまうかもしれない。それでも飽き足らず、瞬発的に各ジャンルに足を突っ込み推しを見つけては怪文書を脳内に垂れ流しながら唸ることを繰り返している。

さて、最初の会話である。正直少し嫌味に聞こえてしまったのだけれど、そうではないらしい。これを告げてきた人は、その好きなもの界隈で色々あって、少しその場から離れざるを得なくなってしまったのだそうだ。一つしかなかったから、わたしには「何もない」、と。熱中しているものが沢山あるならば、たとえ一つ壊れても、つらくはないのでしょう? と、いうことらしい。

は????????
普通につらいが………………?????????

やっぱり嫌味なのか。そうではなく、純粋に理解できないのであろう。その人は一つしか今まで見てこなかったのだろうから、沼が複数あるというイメージが「足し合わせれば自分と同じ容量になるような、小さい沼が平均的にぽこぽこ開いている」となったのだ。実際、それが一番人生に負荷のかからない沼のエンジョイメソッドだと思う。だが、一つの沼だけの人があの人たくさん沼抱えてるな……と認めるような人の沼は、「いくつかの沼を抱えており、その沼の容量は日替わり」だ。今日はヴィジュアル系、明日はクイズ、明後日はFGO。その日その日によって大きな沼は入れ代わり立ち代わりやってきて、その中で私はばしゃりばしゃりと溺れている。これが2つ3つ同時開催されることもあるが、お互い0.5沼になってやってくるわけがない。沼だって、生きるために必死なのだ。
そして、沼の中で「悲しいことが起きた」場合、沼の大きさはしばらく大きいままをキープする。決して、決して楽ではない。きちんと悲しんだり、怒ったり、それこそ一つしか追わない人たちとその話を対等に交わすことができるくらいには、しっかり受け止めてウニャウニャ考えて、つらくなってnoteを書いてお酒を飲んで何もせず寝たりする。それなのに、たくさんあるのだから一つくらいは苦もなく捨てられる、と思われてしまっていたのなら心外だ。

ただし、「立ち直り」のきっかけがたくさんある、これは事実だ。なぜなら、他の沼も生きるのに必死だからだ。他の沼と連携することもなく、クイズの人たちは動画を公開するし、ヴィジュアル系はCDを出すし、料理番組はおいしいごはんをそっと優しく教えてくれる。しゅわしゅわと他の沼の入り口が広がっていくほどに、傷口となっていた沼は相対的に小さく見えてくる。だから、私は今SideMと向き合えるようになった。運営は絶対に許さんが、アイドルに罪はないとまでは思えるようになった。8年愛して、同人誌もこさえたこのジャンルでここまで立ち直りが早かったのは、きっとたくさん沼を持っているからだ、とは思う。
このことを指して「いいわね」というならば、それは胸をはって「いいでしょう!?」と自慢できる。

ここまで書いたけれど、私にはよくわからないのだ。いいわね、と思ったなら、探しに行けばいいのに、としか思えなくて、わざわざ伝える理由がわからない。そもそも、自分の好きなものを1つ見つけた結果芋づる式に沼が増えていって今に至っている私には、一つで立ち止まることができる、ということ自体が理解できない。
きっと、こんな話を真面目に雑談した私なんかとは、おたがいに理解できることはないのだろう。きっと、ただ「そうだね」って言ってほしくて、沼を離れなくてはならないのがとてもとてもつらくて、話を聞いてほしかったのだろう。友人、そうだねって言ってやっただろうか。性格上、割とマジレスしそうで心配だ。

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