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人口流出を止めないで

余白学者という肩書きを名乗り始めて5ヶ月が経った。

表立って大した活動はできていないけど、僕本人は人知れず“余白”というものに日々フォーカスし、日常のあらゆるものに余白が潜んでいることを発見しては悦に浸っています。

中でも「コミュニケーションの余白」は日々大事にしたい考えのひとつで、相手の行動や発言に対して、表面からは見えないその人なりのコンテクストがあることを意識することや、論破したり言い切ることなく、話し合いのための相手にとっての足場(余白)を築くことも大事にしたいと考えています。

そんな心構えで暮らしているものの、先日Facebookで自分の投稿に対して寄せられたコメントが僕としてはどうしても看過できないものであったため、自分のコメントと合わせてタイムラインにあげさせてもらったところ、実に多くの方々から様々な意見を頂戴しました。

相手方のコメントを槍玉に上げることでご本人に不快な思いをさせてしまうことは僕の本意とするところではないけれど、郷土愛の強要マインドを持っておられる方は地元宮崎において意外にも多いと感じているので、これを機にその危険性について多くの人にしっかり考えてもらいたかった、というのが正直なところです。

他人の意見や考えに執着したくはないけど、それをなおざりにすることで息苦しい世の中になって欲しくはないから。


◆なぜ郷土愛の強要が危険なのか


現代においては、あらゆる場所のあらゆる情報がテレビやスマホの画面などに映し出され、興味を惹かれるということは日常的に幾度となくあると思います。

ましてや、それらの場所や生の情報へのアクセスは、様々な交通インフラの強化によって年々容易になってきています。そしてコストも安い。

最近ではAddressOYOといった、他所の土地で暮らすことのハードルを一気に下げてくれるサービスも出現してきたりしていて、今後は好きな時に好きな場所に遊びに行ったり、または住んでみたりすることが当たり前となり、家や住所という概念が希薄になっていくと予想されます。

そんな時代の流れの中にあって

“あなたはこの土地の出身者なのだから、この土地を出て行ってはいけない。”
“仮に出て行ったとしても、故郷のためにできることをやっていかなければならない。”
“決して故郷のことを忘れてはいけない。”

なんて風なことを言われたら、とても息苦しくないだろうか。

好きに生きさせろよ、と思わないだろうか。

自分が選択したわけでもなく、その土地に生まれ育ったという理由だけで、郷土に人を縛り付けるという考えは、本当に時代錯誤だと僕は思う。

そして、行政や教育機関がこぞって人口流出防止を図って若い人たちに郷土愛を根付かせようとすることは本当に戦時中みたいでナンセンスだし、今すぐ辞めて欲しい。

明日は宮崎県議会議員選挙の投票日でもありますが、「人口流出防止」を政策のひとつに平然と掲げている候補者は、上記の理由でまず僕の中では論外、と思っています。
 

阪神・東日本・熊本大分の大震災の教訓としても言えることだけど、本人にとって繋がりのある土地があること、そこに友人がいることは、もしもの時のためのセーフティネットになり得ます。

更に、郷土ではない場所で仕事をしたり生活することで、郷土では決して得られなかった本人にとっての学びや発展が有り得るのだから、その可能性を若い人たちから奪わないであげて欲しいと思います。

そう言えば過去にこんな記事も書いていました↓

Facebookのコメントでも書いた通り、ある土地が存続の危機に立たされるというのなら、その土地を守りたい人が守ればいいし、その土地の出身者だからといってその荷を負わされるというのはとても窮屈な生き方を強いられることと同義だと僕は思います。

僕の周りには宮崎愛の強い他県出身者の知り合いが何人かいるけど、彼らはその辺の宮崎出身者以上にこの土地の未来をよく考えているし、実際に自分にできることを形にしていたりします。

だから、その土地の出身者じゃなくたって、その土地を好きな人がその土地を守っていけばそれでいいと思うのです。


少し話は逸れるけど、「限界集落を存続させること」に対しても、僕は懐疑的です。

「限界集落を再興させたい!存続させたい!」というととても聞こえはいいけど、その誰かのエゴによって続いてしまう「不幸せ」についても、しっかりと目を向けるべきだと僕は思います。

最後に、こないだ実家のある都城市山田町に帰省した際に思ったことを、Twitterから引用貼り付けして終わりたいと思います。


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