もの書きに花束を

小さい頃から文豪と言われる作家の本ばかり読んできた。
我が家において小学校の最後の方まで漫画は悪であった。
大江健三郎以降の作家は基本、俗本である。
こんなことを言えば重松清ファンには殴られるだろうし、
私自身、薬丸岳や村上春樹を好んで読む。一方で夏目漱石は大嫌いだ。この一文で、わかる人には趣味を見透かされそうであるし、今年の私の抱負のnoteが正に影響を受けてしまっていることがバレてしまう。大変恥ずかしい次第である。

それで私に文才が身についたかと言えば皆さんご察しの通りではあるが、
少なくとも価値観は染み付いている。

小学生の頃、二人称が「君」だった為大変周りに馴染めず苦労した。
漫画の影響を受け「お前」に変わった時は逆に担任に心配されたものである。
大学生と聞くと下品な響きを覚える。書生さんは大切にされるものであるし、少なくとも私より非常に風情ある存在であった。

恋人への未練のはらし方は「金色夜叉」に学び、時折本屋に爆弾を仕掛けてきたのだと思うのである。
金色夜叉通りに未練を晴らせば現代ではストーカーだと?難しい問題だ。

東京観光でどこに行くかと問われれば文京区で森鴎外記念館やら江戸川乱歩記念館やら(不本意ながら)夏目漱石記念館を歩き回ったものである。

時に、私は美しい生き方をしたいと思う。
美しい生き方とは自己表現の生き方でも信念を貫く生き方でもない。
その意味では、太宰治の生き方は大変醜い生き方であろう。
粋と風情の中程、何にも囚われず、かといって欲に生きる生き方でもなく。
水と風とそのように生きたいのである。

美しさは佇まいに、箸の持ち方に現れるのだと言う。
高級な帯を締めることでもギラついた腕時計でも表せぬ美しさがある。

笑い方だろうか。食べ方だろうか。

美しく思われるために、自分が美しくなるように自己研鑽をするようでは、
ファンデーションを塗りたくるのと何も変わらない。それでは美しくない。

ただ墓に入った時に、遺した者が良い生き様であったと思ってくれればそれで良いのだ。

故に私は今日も飯を食らい眠るのである。風が吹けば風のまま道を歩くのである。


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