見出し画像

裸は名詞とヌードは動詞

かないくんが昨晩の過不足のない酩酊状態の中であげた記事の中に「裸とヌードは同じ」とあった。確かに状態、見てくれの様は同じかもしれない。けど私は「ヌード」してる時には、見られてるんがすでに意識として働いているから、やからもう裸の時代には帰れんのではないかと思う。生後8ヶ月のこどもはまだヌードしてない。まぁなんでしてないって思うかと言うと、服着てる時と着てない時とオムツ脱いだ時の彼の行動が全く変わらないから。例えばタバコ吸いながら行動すると全部タバコ吸いながら飯くう、クソするとかになるでしょ。だからヌードしながらっていう付帯がないの彼には。わかる?わからんかったらアホやでぇ。まあそれに私が裸であったとしても彼はとても自然である。ただこちらの陰部の方向をしげしげと眺め、手を伸ばそうとする瞬間はあるけれども。だからこれは、こちらがヌードしていることをまだ彼は理解してへんからやと思う。見て欲しいって気持ちがつたわらんかってんな。
あ、だからあらためていうけどヌードは名詞じゃなくて、動詞なんやで。ヌーディストビーチは、ヌーディストたちのものなんだけど、ヌーディストは、ヌードすることが好きな人たちってことやから、裸でいるのが好きってこととはやっぱり違う番地。
私は裸の状態でいることはまぁ好きやけど、いや普通かな、家でずっと裸でいたい人たちのことはあんましわからん。けれど、私は時々強い日差しが部屋に差し込む時に、自らのお尻特に肛門の中心を太陽に向けて捧げるというか、光を直角にうけとめるというか、まぁそういう時には頭の中では太陽神ラーっていう存在をほんまに感じてるんやけど、そういう行動はとるしとりたくもなる。こどものお尻もそうやってラーにお見せするというか掲げた時はやっぱりすごく満たされた。話はそれるけど、これはもしかしたら、体のすみずみまでくまなく平等に、公平に太陽に触れてもらいたいっていう博愛主義的なモチベーションなんかもしれへん。

モデルという仕事は、カメラや画家を前にして自然に振る舞うことができる人たちのなかでもさらに一握りの綺麗な方々やるんだと思う。彼らはすばらしく不自然なくらい格好良く写る。

いつも不思議に思うんやけど、南米のジャングルやアフリカの部族をおとずれるテレビ番組で登場する半裸ローカルの人々は、自分のはだか具合にたいしてどう考えているのかということ。たとえばいい身なりの人が、市の中心でおんぼろまとった乞食と対面する時、彼らはお互いの外装の状態に対してすくなからずとも意識は向けるもんね。ほならヌーディストなんかな。あかんやん自然には帰れへんやん。