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希望の鐘

車での移動を常とする仕事である。車生活で一番気を配るのはトイレだ。長年の会社員生活でトイレのある場所を常に頭入れて行動する癖がついてしまった。公園や公共施設などはもちろん、パチンコ店やコンビニなども駆け込み寺として重宝する。
その日はどういうわけか数々の商談が上手く行きすぎて夢中になり、気がついたときにはタンクが満タンであった。兆候は時とともに重症化してゆき、次第に脂汗が滲みでる。




ようやくコンビニを見つけ駐車場に車を急いでつっこむ。トイレは空いているだろうか。競歩のごとく速足する勢いで少しこぼれてしまったような気がしなくもない。既にダッシュを出来る状況ではなく、括約筋を締めタンクを刺激しないように上下動を最大限押さえつつトイレに駆け込んだ。ベルトをゆるめる手がまどろっこしい。早く!早く!ズボンをおろすのが早いか解放が早いかギリギリのところで、なんとか事なきを得た。




深いため息とともに緊張が溶けてゆく。なんとも云えない至福の刻である。苦境を耐え抜いてきた勇者だけが味わうことのできる至高の時間だ。幸せの意味がようやくわかったような気がする。きっとそうだ。それくらいの愉悦である。




そのときであった。よだれが出そうな愉楽の刻を壊す不穏な音がする。
「早くはやく!」「あああっ、はいってる~」「大丈夫?がまんできる?」
どうやら小さな子どもとその親である。彼らもまた、都会の砂漠を旅してきたのであろう。そしてようやくオアシスにたどり着いたのだ。しかし、絶望の赤い「閉」マークが彼らの希望を打ち砕いてしまった。心がズキリと痛む。しかし、開いてしまった菊の花はなかなか閉じることができなかった。その間にも小さな勇者の苦悶が大きくなってゆく。




「まだかな、ねえお母さん、まだかなあ。もう出ちゃうよう。」
「もうちょっと、きっともうちょっとよ。きっとすぐ空くわ。我慢よ、がまん。」
「うううううん。」
「大丈夫?がまんできる?」
「うううううううん。」
「もうすぐだからね。大丈夫!」
「お母さん、でも、もうちょっとダメかも。。。」
「大丈夫!きっと大丈夫!!」




会話はどんどん緊張感を帯びる。しかし菊の門はまだ閉まりそうにない。ええい、ままよ!意を決し志半ばで切り上げた。未来への希望をつなぐ小さな勇者をこれ以上待たせてはならない。励ましを与えようと大きな音でトイレットペーパーをカラカラ鳴らす。明日への希望の鐘である。鐘は鳴ったのだ。きっと彼はサインを受け取るはずだ。待っていろ、きっと君は報われる。




鍵を解除し引き戸をひき挨拶をしようとすると、勇者は開いた空間にすれ違いに飛び込んでいった。消えそうだった希望という名の灯はいま、明日という大海原へ解き放たれたのだ。
外にでるとやけに夕焼けが目に沁みるじゃあないか。風が頬をなでる。ぼくは再び車に乗り、次なる旅路へと進みだした。次のオアシスはいずこであろうか。




あれ? いけない。やっぱりやばいかも。額にまた脂汗が滲んできた。

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