短編小説 ある晴れた日の海で

「今日は初めて隆太が言葉を話した記念日なのよ。」

助手席に座った母が嬉しそうに呟いた。隆太は家族4人で車に乗っている。これから長浜海水浴場に行くところだ。「そうなんだ。最初に話した言葉は?」「ママって呼んでくれたの。」ふーん。何でもかんでも記憶している母には脱帽してしまう。家を出発してから1時間くらいは走っている。そろそろ着く頃だった。車中はカーエアコンの独特の生々しい香りが充満していた。道路は空いていて、走っていると対向車が矢のように過ぎ去っていく。姉の律子はさっきからその光景をじっと見つめていた。

長浜海水浴場に着いた。見渡す限り人がいっぱいいる…。グーと伸びをする。ずっと同じ姿勢でいた体を解放させて胸一杯に潮風を含んだ空気を吸い込んだ。服の下に水着を仕込んでいたので、すぐに着替える事ができた。「さて、じゃあ早速パラソルを準備しよう。」父が腕時計を見ながらそう言った。オレンジと白の縞々模様のパラソルは一家で海に行くときは必ず持っていく必需品だ。律子と隆太も手伝って、ビニールシートを広げてその上に荷物を置いてパラソルを開き、準備を終わらせた。

「あ、雨だ…」律子の声に反応して、隆太も手を差し出して空を見上げる。ポツリポツリという雫の感触が手のひらに触れた。「なんでー。せっかく来たのにねー。」母は落胆したような声でそう言った。「パラソルがあるからしばらく雨宿りしよう。天気予報は快晴だから一時的な雨だと思うけどな。」父は冷静にそう言った。とにかく今は父の意見の通り待つしかない。来たばかりなのに出鼻を挫かれてしまい悲しい思いだった。家族4人でしりとりをしながらしばらくパラソルの下にいた。そうすると、いきなり自分たちの陣地の前に黒い中型犬が現れた。雑種のようで犬種は不明だった。首輪がついてないのでどうやら野良犬のようだ。「どこから来たんだろうね。感だりしないかな?」母は少し警戒しながらそう言った。「あれ?口に何か咥えてるよ!」律子はそう言った。みると犬は赤茶色い何かを口に含んでいた。それは海から漂着してきた昆布のようだった。「きっとお腹が空いているんだね。」隆太は犬が不憫に思えてきた。よしよしと言いながら、律子と隆太は犬の濡れた毛並みをさすってあげた。持ってきた弁当を少しだけ犬に分け与えることにした。犬は嬉しそうに尻尾を振りながらそれにがっついた。そうこうするうちに雨が止んだ。「あっ見て!虹が出たよ!」律子の興奮した声がした。指差している方を見ると、空に大きな虹が架けられていた。海の上に巨大なアーチが出現して、雨模様だった気分が吹き飛び、一気に心の中が夏晴れのように爽快になった。

準備体操をして、海水浴をする。それからビーチサンダルを履いて磯遊び。船虫やウニなどを見つけて姉弟2人ははしゃいだ。あっという間に時間は過ぎていった。「ちょっと遠くにいってみようか?」ふだんは大人しい律子が冒険心からそんな提案をした。「えー、怒られても知らないよ。」そう言いながら隆太もついていく。コンクリートでできた長い道を2人で歩いた。海からは4,5メートルくらい高くなっている。海岸線との間はたくさんのテトラポッドが所狭しと敷き詰められている。「降りていってみようか?」律子が好奇心で輝く目をしながら龍太に同意を求めた。隆太もうなずいて、2人は海岸線まで降りることにした。テトラポッドの上はゴツゴツして歩きづらかった。転んで怪我をしないように、慎重に慎重に一歩づつ前へ進んだ。さらさらすた海岸の砂の上や舗装されたコンクリート上を歩く時、普段はこんなに意識を研ぎ澄ますことはない。転んでしまったらさあ大変だ。そんな歩きにくい地面だからこそ、全神経を足の裏に集中させて前進する。幼心に突き動かされ、2人は無我夢中になり海を目指した。その2人だけの行進がたまらなく楽しく感じるのだった。海岸線まで辿り着いた。潮風と陽の光を全身に浴びる。波がそばまで迫っていた。ザブーンという音を立てながら繰り返し寄せては返している。隆太はしゃがんで海水に触れた。太陽の光の中で温められた表面に近いところなので、生ぬるい感触が手を通して伝わってくる。波がまた自分の方に向かってきた。くるぶしを波がさらい、またすぐに引いていくのだった。この波はどこからくるのだろう。海水の始まりはどこにあるのだろう。今のこの海水浴場のこの場所、この時間にくるまでの間に、この水と風と波はどんな道筋をたどってきたのだろう。隆太はもう一度海水に触れた。「もう時間だいぶ経ったね。そろそろ戻ろうか。お父さんとお母さん心配しちゃうし」律子の呼び声で隆太は現実に引き戻された。「ありがとう〜」律子は海に向かって叫んだ。「ありがとうー!」隆太もそれに続いて海の向こうに届くように声を張り上げた。そうして2人は両親が待つ海水浴場を目指して戻るのだった。

ビーチに戻ってきてから、再び海で泳ぐことにした。浜辺も人でごった返していたが、海もたくさんの人が海面でぷかぷか浮かびながら楽しんでいた。浮き輪やバナナボートに乗って潮流に身を任せたり、波に逆らいながら安全のための浮きがついたロープまで泳いだりと、各々が自由なやり方ではしゃいでいた。隆太はしばらく泳いでから疲れ切ってしまい、砂浜で休息することにした。パラソルを立てた所に帰ると、母が持ってきたスイカを準備して待っていた。隆太の顔よりも一回り大きいサイズの瑞々しいスイカだった。「もう少し早くに出せばよかったわね、もうすぐ日が暮れちゃう。お父さんと律子はどこにいるのかしら?」「まだ海で泳いでるんじゃないかな?」このまま持って帰るのは残念だし、2人だけでスイカ割りして先に食べてよう。そうしてシートの隣の空いたスペースを使ってスイカ割りを始めた。隆太は白い手拭いで目隠しをして、木の棒を握った。「真っ直ぐ!真っ直ぐ!違うちょっと右にずれたよ…!」母の元気な声が海岸に響き渡る。隆太は真っ暗な視界の中で声だけを頼りにどうにかスイカの前に辿り着いた。「よし!そこよ!いけ〜!!」パカーン。とても心地よく空気が揺れて、目隠しを取ると目の前でスイカが中心から見事に裂けていた。母が包丁を使って綺麗にスイカを捌き、お盆に乗せてくれた。「さあ、食べましょうか。」隆太は甘い水分をたっぷり含んだスイカに塩をふりかけて、上からひと齧りした。おいしい。太陽の光を浴びてできた自然の恵みそのものと言ったらいいのだろうか?そんなような飾り気のない純粋な甘みが口いっぱいに広がった。自分がカブトムシにでもなったかのように、無我夢中で口の中へとスイカの実を吸い込んだ。「おいしいね!この季節に食べるスイカは最高だね!」そういうと、母も笑って頷いてくれた。

父がパラソルまで戻ってきた。「もうどこに行ってたのよー。」ごめんごめん、浜辺を散歩してたら腕時計がないのに気づいて、海に入る時にここに置いたはずだけどないかな?父は頭を掻きながらそう言った。「見当たらないわね。でもここ以外には考えにくいわね…。」シートの上を隈無く探したが、やはり見つからなかった。日が西に傾き始める。律子はまだ戻らなかった。心配なので、母に荷物番を任せて、父と2人で探しに行った。海辺を歩きながら探したが、人が多すぎるせいで見つけられない。諦めかけたその時に。「おとうさーん!りゅうたー!」律子の声がした。海と反対側の木立から律子がひょこっと出てきて、2人の前に躍り出た。「2人ともちょっとこっちにきてくれる?」父と隆太の手を引っ張って、律子は木と草が生い茂る繁みの中へと2人を引き入れた。叢の中に一羽の大きなアホウドリが横たわっていた。羽を怪我してしまっているようで、飛べずに蹲っているようだ。「そのままにしておくと、かわいそうね。どうしたらいいのかしら?」律子は鳥の羽を撫でながらそう言った。鳥はおとなしくしていて律子に触られても微動だにせず、されるがままにしていた。ただ眼だけぱっちりと見開いていて、視界に何を捉えているのか外の者にはおよそ見当もつかないような、何か異次元のものでも見ているような面持ちだった。父が海岸の管理者に連絡してくれて、動物園に連れて行き、保護してもらえることになった。良かったねお前。そう言って律子と隆太はアホウドリの頭頂部と背中を撫で回した。そして2人で顔を見合ってニーッと笑顔を見せ合った。

パラソルを指した場所まで今度は3人で帰還した。母は律子を見てホッと安堵した様子だった。隆太がことの一部始終を説明した。叢の中でアホウドリが横たわっていたこと。父が管理者を呼びに行って引き渡したこと。その人にはほんの気持ちとして、紙幣を渡していた。その人は受け取りを拒んだが父にしつこく押されたので、大事そうに受け取ってから、持っていた本のページの間にその紙幣を挟み込んだ。母はその話を聞いて、良いことができてよかったじゃない!元気になると良いわね!と言って誉めてくれた。その後、4人で残ったスイカに塩を振って食べた。食べ方も種まで余すところまで食べる様子も一緒で、やっぱり家族なんだなと実感した。

終わり


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