多摩動物公園

動物園の門の前は開園前から人集りができていた。ボランティアでお世話になっている児童館の桃組の子達を動物園に連れて行く”企画”を任されることになったのだ。毎年恒例となっている”企画”で、場所は多摩動物公園と予め決まっている。”僕”は今年からボランティアを始めたばかりで、今回が初参加だ。昨日の晩から机の上でパソコンを開いて、企画書と睨めっこしていたが、全くアイデアが浮かばずまあ書けないこと。結局、筆はまったく感情と繋がってくれず、白紙の状態で下見の日を迎えてしまったのだ。ボランティア団体から使わされたのは、”僕”の他に3人いる。1人は男で、後の2人は女だった。男の名前は”K”だ。彼はボランティア団体の代表を務めている頼りになる存在だ。彼に任せておけば団体の運営は安心だと誰からも慕われている。もう2人の女子の名は”T”と”V”だ。2人とも今日はオシャレしてきている。大学で見かける時よりも気合いの入ったメイクと服装だ。Tが着ているのは真っ白なワンピース。綺麗な刺繍が施されていてお姫様のような格好だ。Vは対照的で真っ赤なシャツにショートパンツといったアクティブな服装で、髪は束ねてその上にリボンを付けていた。開園の時間になると、列が前へと動き始める。ふと入り口すぐそばにある水槽が”僕”の目に止まった。水槽の透明な外枠が夏の日差しを浴びて、ダイヤモンドのような綺麗な光を放っていた。列が入口付近にきた時に、青天井になっていた水槽の中を覗きこむ。中にいたのは数匹のミドリガメだった。亀達は水槽にできた水中を泳いだり、陸になっているところで休んだりしていて、見るからに誰からも干渉されない自由を謳歌している様子だった。それを見て無性に羨ましくなった私は、1匹の亀の頭を突いてみた。すると亀はシュンとした様子で、首を甲羅の中に引っ込めるのだ。その姿を見て私はまた悲しくなったのだ。よく見るとその亀の甲羅はひび割れてしまっていた。なんだか済まない事をしたなと私は少し後悔した。亀は誰かと喧嘩でもしたのか、甲羅のひびを隠すように、包帯が亀の胴体を2,3周巻かれていた。他にも似たように、手足や首に白い包帯が巻かれた亀がいるのに気付いた。そんな亀達にさよならをして、動物園の中へと入る。

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やっと中に入れた!長い列だったなー!

Tはグーンと伸びをしながら、Vに話しかけていた。入り口で渡された整理券は各々のポケットに仕舞い込まれた。動物公園に入ってすぐの左手にはウォッチングセンター動物ホールが見え、右手にはベビーカー貸出所と御手洗いがある。Kがいつものように気を利かせて、みんなへ先に御手洗いを済ませるように促した。僕らはまだ我慢できそうだったのでパスしようとした。けれども、Kが言うには、昆虫園まではもう済ますチャンスがないし、ツキノワグマ、ニホンザル、マレーバクなど、子供たちが好きそうな動物が道中に目白押しだもんでできるだけ時間をかけて見学したいと言う。Kにそう言われたのだから、仕方なしにメンバーはここで用を出すことにした。「3時までにはアジア園、き着かなきゃなんないからね。」そんなKの声は馬耳東風。耳に届かない。僕はツキノワグウマの事で頭がいっぱいだった。

十字路の分かれ道を越えて、まっすぐに進むと、ソデグロヅルの檻が最初に見えてきた。ソデグロヅルが5匹、檻の前に屯していた。羽毛は真っ白で、赤色の二本足がスラリと伸びている。顔も真っ赤で長い嘴があるので、まるで天狗のような見た目だ。奥の方に目をやると2匹いるのに気づいた。何やら頭を上下に振りながら、鳴き声を交わしている。まるでサイレンのような感高くけたたましい鳴き声が耳を貫いてくる。これはソデグロヅルが行う、所謂恋のコールアンドレスポンスのようだ。行為の最中は羽を半開きにしているので、全体が真っ白い翼である中で、初列風切のみ黒く染まっているのが良く判別できた。この黒色が彼等の和文名の由来であるそうだ。

そして次にガンがいる檻の前にくる。愛くるしい表情をしたガン類達が、檻の中を闊歩していた。ガンはおもにユーラシア大陸および北米大陸に生息している。今は檻に閉じ込められておとなしくしているが、野生では隊列を組んで移動する時に、竿の形を作って飛ぶらしい。大陸を南に渡るその勇ましい形態を想像しようとしたが、目の前の可愛らしくあどけないガンからは妄想が中々膨らまなかった。説明が書かれた看板を見ると、いくつかの種類は絶滅危惧種に指定されているようだ。その説明書きによると、石川県にある大聖寺(だいしょうじ)という道場の沼地が、ガン渡来地として保護されているとのこと。もう一度檻に目をやると、1匹だけ仲間とはぐれてしまったようなガンが、落ちている花びらをむしゃむしゃ食べている。それをTとVは物珍しげに見つめていた。Vはバッグからスマホを取り出して、花びらを頬張るガンを写真に収めた。Vは写真をグループラインに送った。写真に写るガンは取られているのに気づいた様子で、ちょうどシャッターを切った時に首を上に持ち上げたようだった。しかし。ガンの顔はカメラの方を向いていたが、微妙に目線だけが横に逸れていた。その目はどこか虚なようで、何を思っているのか感情が全く読めない表情をしている。動物園で飼育されている動物は、大概皆んなそうなのだが。しかしTだけは、なぜか写真に写るガンの生気のなさがどうしても気になってしまうようで、心配だなあとため息を吐きながらつぶやいていた。

次に一行はヤギがいるエリアに辿り着いた。目の前には手摺があり、その向こう側には白ヤギと黒ヤギが1匹ずついるのが見えた。2匹のヤギはおとなしく、草の上に寝転んで体を休めている。

なんだ〜。つまんないの。

Vは不機嫌になって、そう呟いた。僕たちはヤギが動くのを期待して、一心に手摺を掴んで身を乗り出して、ヤギを見守った。しかし、何も起こらなかった。

まあ、しょうがない。動物にだって都合があるんだからね。

Kが大人びた風に、皆んなを宥める。何も変わらないヤギの様子をしばらく見ていて、飽きてきたので、次のエリアに足を向けたその時に。

メー、メー、メー、

2匹のヤギが、まるで歌を歌い出したかのように、高らかな鳴き声を上げたのだ。

オー!!!

たかだかヤギの鳴き声を聞いただけなのに、僕とTとVは、なぜだか無性に感動してしまい、声を上げていた。しかし、Kの方を見やって僕らは唖然とした。Kは全くの放心状態だった。Kはただただ、ヤギが鳴くのを固唾を飲んで見守っていた。さっきまでの大人びた様子とは少し違う印象を受けた。それはヤギが鳴くという行為そのものを、ただ純粋な観察者としての目線で、しかと見届けなければとその態度が示しているようであった。そんなKを僕は見ていた。初めて見せるその珍しいKの横顔を、僕の脳裏にも焼き付けねばと思った。

今度はバクのいる区画の柵の前に来た。バクはのっそりと歩いている。長い鼻をぷらぷらさせながら。白と黒のツートーンカラーが特徴として際立っている。バクは昔からの言い伝えによると、夢枕に立って悪夢から守ってくれる神聖な動物のようだ。一匹のバクが足を滑らせて、転んでしまった。餌として置いてあった乾草をひっくり返して、草まみれになった。「あ、可愛そうに。」それを見てTは呟いた。転んでしまったバクの元へ、七匹のバクが寄り集まってきた。その小さいバクを囲っては、鼻で突いて皆んなで無事を確かめていた。その小柄なバクはノソノソと歩き出したが、暫くするとまたすってんころりんとコケてしまった。すると取り巻きのバクたちがまた寄ってきて、転んだバクを鼻で撫で回した。それを何回も繰り返していて、その様子が見ていて堪らなく可笑しかった。小柄なバクのくすぐったそうな姿に、転がす側のバク達のすごく得意げな様子。飼育員がやってきて、ホースで散水を始めた。東京は炎天下で地獄のような暑さが続いていた。ホースからは水が勢いよく流れて、辺りの地面を潤していた。きっと水道代は嵩むだろうな。つい、そんな余計な事を考えてしまう。さっきのバク達を見ると、飼育員が持ってきたバナナを仲良くむしゃむしゃと食べているところだった。

次はカワウソがいる所にやってきた。カワウソがいるコーナーは上から覗き込める場所にある。俯瞰所に僕らは来ていて、そこから眼下にいるカワウソたちを愛でることができるのだ。10mくらいはある。結構な高さだ。僕とTは首を伸ばして直下を見下ろしていた。Kがスマホを取り出して写真を撮っていた。Kのスマホのカメラは音が鳴らないように設定されていた。Vがカシャ、カシャっとからかって、スマホの代わりにシャッター音を口で真似ている。僕はまた眼下を見下ろす、そしたら、まるで人の腹のように、ぷっくりと膨れたお腹を出して寝ているカワウソが見れたのだ!その姿がなんとも愛らしくて、来て良かったなぁと思えた。しかし、空を見上げるとどうも雲行きの方が怪しかった。なので空の状況から早々に足を進めて立ち去って、次に向かった方がベストだったかなと思ったので、みんなにそう声をかけてみた。カワウソのコーナーを囲っている頑丈な外堀に寄りかかりながら、そう提案した私の意向を汲んでくれて、一行は次の場所へと歩を進めることにした。

続いて一行は”どんくり広場”に着いた。そこは子供達がいっぱい。広場の地面に敷き詰められた”どんくり”を皆んなで拾い集めて、”どんくりアート”を作って、それを見て楽しんだりしていた。広場には囲いが設置されていて、内側にはウサギとモルモットが走り回っていた。囲いの中はピンクの蓮花の花が咲き乱れていて、それを一心不乱にむしゃむしゃしていた。Tはお気に入りの子を見つけて抱っこした。フサフサの毛並みを撫でる。ウサギは腕の中で心地良さそうにしながら、まだ花を頬張り続けていた。Vはモルモットを捕まえて、同じように毛流れに従って愛撫する。Kと僕は広場にある桶で作られた、小さな”人工池”の前に来た。その中で数匹の鳩が、気持ちよさそうに体を洗っていた。鳩たちは身を寄せ合って銭湯で入浴しているように見えた。

ええよ(湯)だなぁ〜

“僕”がふざけて鳩のつもりで声を出した。

Kはそれを見てクックックっと、声を押し殺して隣で笑っているようだった。桶の深さは浅かったが、かなり広い桶だったので、20匹以上は入れそうだった。太陽が真上に照っていて、その光を受けながら、水面はキラキラと眩く輝いていた。

モルモットは花を食べ尽くしてしまったようで、それでもまだ食い意地が張っているようなので、Vの露出した肌に思いっきり噛み付いていた。Vはいきなり凶暴化したモルモットに驚いてしまい、短い悲鳴を上げた。それでも何とか落とさずにはいられた。けれども突然の出来事にVは軽いパニック状態になってしまい、モルモットをそのまま野に帰した。

Tもウサギを野に放した。そしたら、ウサギは囲いに設置された小屋に入って、スヤスヤと寝始めるのだった。

「こんにちは。僕はジョウです。一緒に遊びましょう。」

鳥籠の中のインコは観衆達に挨拶している。それを籠の外から見つめる我々は、こんにちは、と挨拶を返すのだ。インコは見ている人達に精一杯の奉仕をして、他の見られるだけの動物とは一線を画すのだぞ、と主張しているようだった。まさに自分達が時代の覇者であると認識するように。自ら覚えた専売特許を使って観衆に必死に訴えかけていた。インコの喉をよく見ると、喉仏が膨れ上がっていた。

「僕はジョウです。宜しければ、写真に写してもらっても大丈夫だよ。」

そう言っている。しかし、調教した誰かの音声をテープレコーダーで録音したような無機質な声音。その言葉を”僕”は信じる事ができなかった。インコは螺旋階段のようなデザインがあしらわれた木の上に、椅子のような台座が設けられてられていて、その上にちょこんと座っていた。

ツキノワグウマの月輪って字義だと満月って意味らしいけど、実際に毛を見ると半月の形よね。

普段から雑学を仕入れて人に話すのが大好きなTが、得意そうな顔で解説した。

僕らはツキノワグウマの檻にやってきた。首下には半月模様の白い毛が、チャームポイントとして際立っている。三日月型の白斑のクマもいる。体長は大人は110-130cmだ。子供のクマもいて、家族単位でまとまっているようだった。二匹の兄弟グマが、一つの器に注がれたミルクの取り合いをしていた。

僕のミルクだーい!
嫌よ!私のよー!

セリフを当てるとそんな言葉がピッタリだと思えるような、取っ組み合いを繰り広げていた。やがて、一回り大きいお兄さんクマが勝者となり、ペロペロとミルクを飲んだ。負けた方は不満そうにノソノソとその場を離れて、日陰に行き不貞腐れていた。

Kと”僕”は、ちょうどその光景をVが買ってきてくれた、黄粉がかかった白玉団子を食べながら、ゲラゲラと笑って鑑賞していた。TとVはというと、餃子を食べながら、同じく見つめていた。皮の中の餡に閉じ込められた肉汁を取りこぼす事の無いように、こっちはこっちで必死に戦っているのだなと思った。

Kはガサガサとパーカーのお臍のあたりについたポッケに手を入れて、何かを取り出した。それは、ストラップのようだった。黒い丸い玉だ。光に反射して美しい閃光を放っている。丸い黒真珠には黒い紐がついていた。それをKは僕の目の前で自分のスマホに取り付けた。なぜ今そんな動作を?
一行はムササビの展示場にやってきた。ムササビが木の上から、思いっきり空中に身を投げ出す所だった。木から木へと橋渡していく、その素早い身のこなしを目で必死に追いかけて彼等を認めていた。ムササビは風を目一杯体に受け、木が途切れたら、地面に着地していった。かなり強い風に煽られていたので見ている方もドキドキしたが、何のこともないように優雅な形で地上に舞い降りていた。舞い降りた先には、赤くて丸い木のみが大量に落ちていた。6匹のムササビがいて、その木のみを大事そうに





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