短編小説 ユートピア

私の名前は義秀光。あるメーカーで貿易事務の業務をしている。入社してから3年目になり、仕事はだいぶ板についてきた。福利厚生や休暇の制度は整っていて、残業もなくほぼ毎日定時で帰宅できるとても恵まれた労働環境に身を置かせてもらっている。けれども残業が予算の関係であまり良しとされない見返りとして、就業時間までがそれなりに慌しい。今日もルーティンの仕事をしながら、舞い込んでくる雑務に追われていた。基本はデスクワークなので椅子に座ってパソコンを操作しているだけだ。同僚に頼まれて書類の束を空いているデスクの上に移して自席に戻る。そしたら、「バキッ」という大きな音が職場に鳴り響いた。皆んなの視線が一斉に私の方に向く。椅子の上を見てみると自分の定規が真っ二つに割れていた。机から滑り落ちたのに気付かずにいて、ついうっかり尻に敷いてしまったようだ。恥ずかしさで少し顔を蒸気させ、すみませんと謝って仕事を再開させる。そしてしばらくカタカタとキーボードを打ち込む作業に没頭した。私の仕事は手配業務で、海外にある現地法人が取ってきたオーダーを日本にある生産拠点に向けて発注処理を行う。オーダーは基幹システムを経由して、工場に手配がかかる仕組みになっており、その入力処理は自分の部署の担当者しか行えない事になっていて、その処理が終わらなければ営業受注した案件がクローズできないということだ。なので月末などは急ぎ案件が多い時があり、時期によっては忙しかったりもする。しかし、部内の雰囲気は和やかだ。まあ一社しか経験していないので他社と比較はできないが、コミュニケーションはしやすい風土である。たまに同僚と一緒にお昼を食べることもある。この日はお昼休みを少し跨いで仕事をしていたので、社内の売店でお弁当を買って自席で食べる事にした。買ったのはサラダパスタ。少食なので私には丁度良い。炭水化物と野菜が同時に摂れるのも良い。席についてから袋を開けてみると、思わず自分の目を疑ってしまった。ビニールの袋のなかには、どこから忍び込んできたのか、1匹の大きな蛾が死体として居座っていたのだった。袋の中は鱗粉で粉まみれになっていた。慌ててアルコールティッシュを取り出して、サラダパスタの容器から鱗粉を除去した。招かれざる客に対して嫌悪の念を抱きながら、ティッシュに包んでゴミ箱へと葬り去る。食欲など吹き飛んでしまうほどの殺人的で凄惨な袋の中の現場。なんだって自分は今日こんなについていないんだろう。食べる気は起きなくても体力がもたなくなるので、栄養補給のために胃に流し込んだ。

就業時間から30分くらいすぎた頃、ようやくその日一日のやるべき仕事を終えて、帰宅に着く準備をする。くたくたに疲れ切っていた。貿易オペレーション部という部署に配属されていて、主たる仕事というと貿易をオペレーションすることだ。関係部署間の情報の橋渡し役。誰でもできると言ってしまえるが、その分スピードが命。業務に無駄がないか、効率的にやれているかはいつも口すっぱく言われる。自部門だけでは当然業務を完結できないので、いろんな部署と関わりを持つ機会がある。自分はコミュニケーションに苦手意識があるので、それがとても疲れてしまうのだった。義秀くーん!とどこかで言われる度にいつもドキッとしてしまう。この日も例に漏れずクタクタになっていたので、すぐに帰ることができず壁際の窓に寄りかかって放心状態になっていた。すると自分の右肩の方にある空いていた窓から1匹の大きな蜂が飛び込んできた。蜂はそのままオフィス内をグルグルと旋回しながら蜜を吸える花がないか探っているようだった。一通り詮索し終わって満足したのか、その蜂は元来た窓から空へと飛び去って行った。こうして一日が過ぎていく。不思議なこともあったが、仕事自体は1人でやる分には単調で楽な作業が多い。厳しくあたられることもない。ただし、昔は結構厳しかったようだった。たしかにベテラン社員勢はかなり優秀な人が多く、超有名な大手企業から引き抜かれて来た人もいたり、逆に有名企業にヘッドハントされる人や自らがビジネスを立ち上げる人などもいた。今の和気藹々とした和やかな雰囲気からは、凌ぎ合いを行っていた時代がおよそ想像つかない。今はというと堅実に全員が同じ方向に一歩づつ前に進んでいこうという感じだった。

さて、家に着いた。食欲がいつもあまりなく、不摂生な食習慣が身に染み付いてしまっているので、夕食はトーストだけで済ませることにした。ジャムとバターを冷蔵庫から取り出して塗る。こんがりと焼いたトーストを口に入れて噛むとパリッという香ばしい音とジャムの甘さが口いっぱいに広がる。最近はジャムの値段も上がってきている。原材料の価格の高騰が響いているようだった。原料を作るための人件費や輸送コストなど価格を決めるための様々な要因。そう言ったものとは別次元の問題として直近の課題が私に降りかかる。明日食べるトーストに塗るジャムがない。そうしたら私はどうしたらいいのだろう。そうなった暁には途方に暮れながらダラダラとした余生を同じことの繰り返しの日々の中をただ無目的に疾走していくしか無くなってしまうのだろうか。私の生きる意味は何か?何のために自分は生まれてきたのだろうか?そんな自問自答を常に心の中に思い浮かべている。そんなこんなで今日という日が終わりとこについた。

その日に私は夢を見た。

夢の中で1人のおじいさんと私が相対していた。私の後ろには本棚があり、たくさんの本が積まれていた。おじいさんが私を指差しながら怒っていた。

「義秀!!お前にはもっと根本的な知識が欠けているんだ!!」

急に語気を強めで言われてしまったので、ついカッとなって言い返してしまった。

「根本的な知識ってじゃあ何なんだよ!?」

さっきまで勢いづいていた老人の顔から怒気が引いていく様子がわかった。

「それは分からない」

老人の答えだった。

「は?ふざけんなよ!!!分からないって何なんだよ!」

私の怒りは倍増してもう抑えておくことが出来なかった。

「そもそも何かも分からないのに、欠けているってどうして言えるんだよ?!」

私は勝ち誇って鼻をフンと鳴らした。老人に侮蔑の眼差しを向けた。私の顔は醜く小刻みに痙攣していた。

その時に目が覚めた。不思議な夢を見た。ついさっきまで現実だったかのように生々しく鮮明に覚えている。老人の怒鳴り声と私の罵声が今も耳に残っている。その時にカタンと音がした。見るとベッドの脇に立てかけてあった白いつっかえ棒が床に倒れていた。丁度そこには朝の木漏れ日が銀色を纏わせながら差し込んでいた。幻想的で甘美な風景が部屋の前に広がり、感慨深い想いに包まれていた。朝食を取ろうと思い、台所に行った。食器棚の中からジャムとマーガリンを入れるための小鉢を取り出した。それを抱えて冷蔵庫の方に向かおうとしたその時に、不覚にも食器棚を足で蹴飛ばしてしまった。そのまま食器棚が前方にゆっくりと倒れ、中の食器が飛び出て無残な悲鳴とともに粉々と化した。大皿、深めの器、ガラス製のコップ、陶器類たち。色とりどりの破片が台所一面に散らばった。

あの夢の出来事が頭の中で反芻する。根本的な知識とは何だろう。ふと旅に出たいなと思った。昔から旅行するのが好きだった。友達と行くのもいいが、気ままな一人旅も嫌いではない。私には小さい頃からの夢があって、それはヒマラヤ山脈の頂上に登ることだった。かと言ってそこまで体力に自信があるわけではない。けれどもヒマラヤ山脈の山頂に立つことが私にとっての憧れであった。出勤して上司に休暇を願い出た。近場であってもいい、ただ自分にとっての未開の地に足を踏み入れてみたい。そんな気概に押されて私の小旅行が始まった。

新幹線に乗り込んで目的地を目指す。平日ではあったが自由席には人がたくさん座っていた。しばらく通路を進行して、ようやく空いている席を見つけて腰を落ち着けた。スマートフォンにコードの付いたイヤホンを差し込み、お気に入りの音楽を再生させる。時間が過ぎるのを忘れ、イヤホンの同軸ケーブルを伝って流れる無機質なメロディー達に身を委ねた。外からは轟々と叩きつける音が窓を打つ。聞いているのはクラッシック、シューベルトが作曲した「未完成」、「野バラ」他にも名の知れた作曲家たちの作品を聴いていた。新幹線が目的地の駅に到着したので降りようとしたら、イヤホンのコードが座席の肘掛けにグルグルと巻き付いてしまった。右手首と座席の肘掛けがコードで繋がれてしまい身動きが取れない。そんな中、焦って解こうとしたら今度は背もたれを倒すためのレバーを思いっきり引いてしまい、座った状態で座席を最大まで倒してしまった。後ろにいた人の飲み物がこぼれてしまい、ズボンの裾を汚してしまった。「すみません。」と謝り座席を戻そうと奮闘したが、右手の自由を奪われてしまっていたので起こすことができなかった。

目的地の駅で降りることができず、已む無く次の停車駅で下車することに。引き返すのも億劫になり、駅でしばし休憩しながらスマホで良さげな場所がないか探索することにした。都会の空気を吸い過ぎて毎日気疲れして、どこか長閑な田舎で現実逃避したいなと、リラックスできる風景に包まれたい…。ふと、ある旅行好きの人が書いたブログ記事が目に止まった。写真を見ると私が求めていた雰囲気とぴったりマッチしていた。長閑な田園地帯が広がる景色。大きな湖と小さな貸ボート。田畑に連なる農家の家々。無為自然を体験できるように思えたが、その反面しっかりと寺社やお城など観光客を呼び込めるスポットも用意されている。「富士沢村」。それがその土地の名前だ。在来線に乗って40分ほど揺られて到着した。

最寄駅からタクシーを使ってさらに30分費やして、ようやく辿り着いた。とても小さな村なのでまずは観光案内所でどこから回ろうかプランを練ってみる。「ようこそ。富士沢村へ」案内所の看板にはそう書かれていた。案内所には誰もいない。スマホで見たブログの情報と掛け合わせて、プランを完成させた。まずは榮総寺というお寺に行き、その次に兆貫城という古い城を見に行くことにした。その後は時間が許す限り田舎の風景を散策しながら気ままにのんびりと過ごす。

案内所を出てから20分ほどテクテクと野道を歩いて榮総寺についた。榮総寺はこんな片田舎にある寺とは全く思えないほどに非常に美しく、そして麗しく存在していた。境内にはチリ一つない。そして立派な舎が威風堂々と配置されていて、訪れる者達を厳粛という幕で覆う様であった。舎の中も見学したが、そこに祀られていた仏像並びに装飾の様がなんと眩い。荘厳さという言葉がまさに相応しい様子だった。感動の余韻に浸りながら舎から出てみると目の前に看板がある。看板の下には麻でできた細長い縄がありそれが地面に突き刺さる根元にグルグル巻きにされていた。看板の文字を読んでみるとこう書かれていた。

「煩悩も愛憎も執着も目には見えないものである。常に心の眼をしかと開いて行いを正すべし」

それを読んだ瞬間に私の体の中で電流が走る様な異様な感覚を覚えた。体の内側から血管、肉、骨、そして皮膚へと刺激が逆行してくる。なんと不思議な文言なんだろう。私が日常生活を送る中で接する全ての人たち、皆んな何かしらの重荷を背負っている。自分が感じることしか掴めない中で、相手の重荷は自分が想像していくしかない。私に関係する全ての人々。またこの寺で修行をしている僧侶達。修行の目的とは十二因縁からの解脱なのだろうか。どれほどの厳しい修行を積もうとも、人である以上は愛情や憎しみ、また恨みや執着を持たずに生きることなどはできるのだろうか?看板を後にして出口に向かう途中、小さな寂れた土産物屋がひっそりと佇んでいた。そこは小さくともこざっぱりとしていて比較的に新しくできた土産物小屋のようだった。厳かな輝きを放つ伽藍も小さなこざっぱりとした小屋も、私としてはどちらでも良かったのだが、折角来たので土産物屋も見ていく事にした。中を見ると無人でやっている様だった。商品棚には壺が置かれている。青くて丸みを帯びて底にいくほど幅が狭くなる、ちょうど頭のてっぺんから肩までの高さくらいの壺だ。値札が貼っていて見ると「1996円」と書かれていた。商品棚の隅にはお釣りとしてお取りくださいと書かれた張り紙と共に小銭が入ったコインケースが置いてあった。無用心だが田舎の情緒が感じられた。勝手に盗るような不届者がいれば、必ずこの村で報いを受けるぞとも言わんばかりにも捉えられるが。ふと何かに心惹かれて10円玉を手に取ってみる。そこには当然、平等院鳳凰堂が描かれていた。日本国十円という文字の中央に置かれたお堂はとても満足そうに佇んでいた。けれども少し傾けて光を当てたら十円玉に生えたカビが目についた。こんな厳かな絵の横になぜ自分はいるんだろうと悲痛に叫ぶ声が聞こえてきそうだった。私はその壺を買う事に決めて2000円札を財布から取り出した。
榮総寺から外へ出た。寺の境内は日陰になる木がたくさん生えていたので涼しかったが、外へ出ると炎天下の道が続いていた。8月で猛暑日の昼間だった。空の上にはギラギラとした太陽が私の肌を照りつけていた。こんな灼熱の日は都会でもなかったというくらいに暑い。空の太陽を見上げてみた。お天道様は激しく怒っているようだった。まるで「許さないぞ」という剣幕を浮かべた表情のように脳裏に映る。肌がジリジリと焼かれるたびに自分自身がその光線を通して何者であるかが再構築されていく様に思えた。次は兆貫城に行かねば、このままでは釜茹でにされてしまう。慌ててバッグからパンフレットを取り出した。私は字を読む時に下線を引きながらでないと読めない困った習性がある。歩きながら読んでいたために手がブレて文字の上に線が被ってしまった。自分が読みやすくするために引いた線のはずが、パンフレットには無数の傷…そう傷だった。紙にポッカリと空いた細長い筋を見て、城に行く道だけでもとりあえず理解しておこうと前を向く。

兆貫城の外壁は立派な城の漆喰でコーティングされていた。深い堀にぐるりと囲まれていて、戦国時代を象徴するような姿をしていた。本丸に行くには細い通路を通らなければならない。武士は一列にならないと渡れないので、頭上から飛び道具で狙い撃ちできるという設計思想だ。本丸に入るためのチケットも購入した。城の外観を堪能してから城内へと進む。中は狭く入り組んでいた。ズンズンと進んだら、城主が愛でていたコレクションが展示されているエリアで、ある品に目をひかれた。それは金色に輝く屏風だった。屏風は金箔で塗り固められていた。そして中央には獰猛な虎が大きな口を開けて睨んでいる絵が描かれていた。虎と自分の目があった瞬間に屏風に吸い寄せられるような感覚に陥った。虎の猛々しい荒ぶる感情が自分へと流れ込む。獲物を見つけて飛びかかる瞬間の寂静。骨と皮を食い破る時に覚える覇気。身体中に野生の力が何箇所も同時に渦巻いている様だった。この屏風を作らせた城主はどんな人なんだろ。また、どんな職人達が何を思い描きながらこの屏風を作り上げたのだろう?私は心を掴まれて、屏風のことで思考が満たされていた。感動に浸ること数分の後に、再び場外に出て陽の光を浴びた。私はまだ屏風の事ばかりを考えていた。空想にふけながら歩いていると、偶然たまたま大きな倉庫があるのを発見した。倉庫には城の宝物が納められていると立札に書いてあったのだが、あいにく扉が閉ざされてしまっていた。三角の屋根に灰色の壁。外観は普通だが大きさは一般的なガレージの2倍はある巨体だった。なんというデカさだ。この中に本当にお宝が眠っているのだろうか?開けて真実を確かめたいが、倉庫の扉には錠前がかけられて鍵がないと開けられない。仕方無い、外側からだけ拝んでおき、城の敷地の出口へと向かった。城を後にしてから喉が渇いていたので、近くにあるスーパーに立ち寄る事にした。飲料水のコーナーには似たような商品が所狭しと陳列されていた。メーカー各社が様々なドリンクを出していて差別化のために他社と被らないようにと苦心している。ドリンクを買ってレジに並ぶ時に、レジ前に並んでいるさくらんぼ味とレモン味のグミが目に入ってきた。それら二つを買おうか迷ったが、結局買わずに飲み物だけ買って店を後にした。

農村地帯にやってきた。長時間歩き続けたせいで足が棒のようになっていた。黒いスニーカーは履き慣れた靴ではあったがだいぶすり減ってきた。足の裏にチクリとする痛みを感じた。棘が入ったみたいだ。チクチクと足の甲を違和感がジャブのように襲う。痛みを誤魔化すために何か別の事を考えようと試みた。何か真新しい新鮮なものは無いだろうか?ふと畑の中を見ると白い一匹のモンシロチョウが倒れているのが目についた。蝶は片方の羽が折れてしまっていた。それでも微かに息はあるようで、懸命に生きようとしていた。

田園をしばらく突き進んでみると梅園に行き着いた。梅の花は季節が8月なのでさすがに咲いてはいなかった。けれどものんびりと休む為に訪れている家族連れや友人らしき人達が目につく。花は咲いていなくても、そうした地元民の憩いの場としてここは成り立っているみたいだ。私ものんびりと羽を休めて、来訪者達を観察してみる事にした。梅園にいる人達の中で一際目立っている団体がいた。それは白衣とナース服を着た集団だった。一人だけ白衣を着ているその集団の上司的な人がいて、その人の後に看護士さんらしき人達がついてきている。皆女性だった。ナース達が季節外れの花見に来ているのだろうか。こちらがマジマジと見ていると向こう側とも目があってしまった。白衣を着た上司のような女性の視線がこちらを向く。その人は何故か心配そうな目をして私の方をじっと見ていた。その集団の中から1人の看護士が走って私の方に駆け寄ってきた。「すみません。ジロジロと見てしまって…。」私は非礼を詫びた。「いえ、ところであなたどこか具合でも悪いんですか?」その看護師の風貌は…カラフルなネイル、大きめの耳のピアス、ぱっちりとした目元とアイライン、そして赤毛のショートヘア…どこからどう見てもギャルだった。ギャルがナース服を着ていた。

「顔色がすごく悪いですよ。ちゃんと睡眠取れてますか?」「はい、ちゃんと寝れてます。」本当に病院で問診を受けているようだった。「毎日暑すぎて体も参っちゃいますよね。私なんか見た目で誤解されるけど、結構バテやすくて猛暑だとすぐ体調崩すんですよね。」「そうですか。今日は35度まで気温が上がるみたいですものね。」職業柄、人の健康に気を使い普段もこういう会話に慣れているのだろう。初対面とは思えないほど打ち解けて話してくれていた。「それじゃあ、さようなら。」赤毛の看護士さんが去ろうとした時に、もう少しだけ彼女と話したいという思いが湧き上がった。「あの…じつは左の太ももが痛いんです。」去りゆく彼女の背中に私の声がぶつかって、彼女が振り返った。「ちょっと見せてもらってもいいですか?」ギャルメイクの看護士が私の太ももを触診した。「肉離れかな…と思いましたが、ではないようですね?どうしたのかな…?」原因がわからず顔が曇った。「まあ、歩けない程ではないので、すみません呼び止めてしまい。」「あの、もう一ついいですか?」また引き留めてしまった。「あの白衣の方は?」私は尋ねた。「あの人はドクターです。医師免許を持っていて、すごいですよね。夢だったんですって。それを叶えるって。」「夢ですか。」どのくらい時間がたったか分からないが、彼女の仲間たちが呼んでいる声がした。「じゃあもう行きますね。お大事に。」「はい、さようなら」そう言って別れを告げた。外の気温の暑さが体の中にまで貫通したかのように皮膚の下も火照りを帯びていた。看護士としての仕事柄、香水はつけていなかったのだが、彼女がいた痕跡がまだその場所に漂い続けているようなフワフワとしたオーラが、私一人の感覚器の中を占有しているようだ。カバンを開けてドリンクを取り出そうとしたら、不思議な感覚が手に現れた。その手触りの正体は、職場で私が尻で破損させた定規の片割れだった。何故こんなものを持ってきてしまったのだろう。せっかくの余韻が台無しになってしまい、口惜しくまた後味の悪い思いが代わりに胸に残った。ふと梅園の梅の木の枝に蝿がたかっているのが視界をとらえた。ハエは数匹いて枝から樹液を吸っているようだったが、木の幹はしっかりしているようだったので、少し喰われても時間が経てば元に戻りそうだった。

梅園から出て、小川のせせらぎが心地よく流れている野原にやってきた。午後3時過ぎになっていて散歩をしながら気分をのびのびとできる。いい時間だ。心と体の洗濯には持ってこいの昼下がりの過ごし方。さて歩いていると20代後半くらいの若者3人が木陰で涼みながら話をしているのを見かける。どうやら3人で将来について語っているようだ。3人とも転職活動をしていて、どういう職種にこれから就きたいか相談しあっていた。面白そうだったので木の反対側から聞き耳を立ててみることにした。1人は店舗の運営に興味があるようだった。自分でお店を構えて従業員を雇って、自らの裁量で切り盛りしていきたい。そんな理想を2人の前で打ち明けていた。どんな店なのかまた規模にもよると思うが自ら経営するのは大変だろう。この若者は熱意があるなと聞きながら感心した。2人目はスマートフォン用のアプリ開発に携わりたいという希望を持っているようだった。これからはソフトの時代が来ると見越して、AIなどの最新技術についても学んだ上で、最高のユーザー体験を実現させてみたいと語っていた。彼の熱弁はどんどんと加速していき、他の2人と同様に私もその勢いと迫力には圧倒された。とにかく時代の波に乗り遅れないように最新情報をキャッチアップしていきたい。開発者会議があれば積極的に参加して人脈を増やしていきたい云々…。耳を傾けていると川上から誰が作ったのか分からないが、笹舟がいくつも流れてきていた。3人目のターンになった。彼は福祉の仕事に興味があるようだった。特に認知症患者など脳機能に障害がある人の役に立ちたいという夢を抱いていた。具体的にいきたい施設もあり、そこに行くための試験を受けて面接もパスしたらしい、ところが…。「そこがなんか怪しかったんだよね。」怪しいってどう怪しいのと1人が尋ねた。「面接で年収いくらにするかの交渉を行ったんだけど難航してさ、でも福祉の仕事はきついし簡単には譲りたくなくて粘ってたら、向こうが降参して折れてくれたんだ。」ただ彼が言うには入社時の説明で人事がスタンスを翻したらしい。当初の会社側の案でないとやはり雇えないと。内定後に一方的に言われてしまったという。じゃあもう辞めますとなったという経緯だった。会社とはそういうものか。いや世の中そのものがある一定程度の理不尽さを許容しなければならないのかと義秀は思った。その時ふと笹舟に目をやると黒い物体がゾロゾロと動いているのが目に入った。それは蟻だった。子供の悪戯なのか蟻を笹舟に乗せて上流から流していたらしい。そのまま眺めていると目を疑うような光景が繰り広げられた。それは喜劇なのか悲劇なのか分からないような現実離れした虚構のような出来事だ。笹舟の上の蟻が川に向かってピョンと水へと飛び込んでいくのだった。我が先に行くと言わんばかりに次々と蟻たちが川にダイブして水面で足をバタバタさせている。蟻が自ら飛び込むことなどあるのだろうか。流れは穏やかだったが、陸までは距離があって到底泳ぎ切れるものではあるまい。蟻に注意を奪われていると、いつの間にか若者達はどこかに行ってしまっていた。その後で子供連れの3人家族が、私がいる木のそばにやってきた。父母はともに三十代前半くらいでまだ若かった。男の子は小学校一年生くらいだった。父はバッグの中からプラスチック製のバッドを取り出した。そして新聞紙を丸めてボール状にした。子供にそのボールを渡す。ほら、ここまで届くか投げてごらんと、父が促した。子供がそのボールを投げて、父親がバットでボールを前に転がす。それをまた子供が手に取って投げる。その光景に目を奪われていると、新聞紙のボールがシュークリームに見える瞬間があった。一瞬気のせいかな?と思ったがやはり気のせいだったようだ。今度は川へと目を移すと、ギョッとして目を見開いてしまった。なんと水面で足をバタつかせていた蟻の首がもげているのだった。首が取れた蟻の胴体はしばらく動き続け、やがて水の抵抗を蹴って推進する力を失い、完全に静止していく。こんな無残な光景は初めて見た。一体蟻の生態系でこの現象をどのように意味付けするというのだろうか?蟻の頭と胴。この2つの結合が何もなく勝手に、緩んでいたズボンの腰の位置にあるゴム紐が、スルスルと抜けていくように、分離して離れていってしまう。不可思議な現象が起きてしばらくの間は茫然自失となりその場から動けなかった。

川沿いの道を下る。足が棒のようになり、感覚が遠のいていく。空腹のせいもあり頭がクラクラしてきた。胃が小刻みに震えているのを感じた。腰の辺りまで麻痺していて、これ以上歩くと細胞から血が出そうなくらいに痛みが発信して、もう限界のサインを放出している。そんな時に焼き芋屋さんの車が沿道に停車しているのを見かけた。高校の制服を着た女子2人組が、焼き芋を買いに来ていた。そのうちの1人が財布をどこかに忘れてしまっているようで、軽いパニック状態に陥っていた。隣にいたもう1人はその焦って探す姿を見てケラケラと声を上げて笑っている。嘲るような笑いではなく無邪気で子供っぽいがどことなく上品ささえ窺えるような笑いだった。程なくして財布を探していた方の女子が見つけ出した。自分のスカートのポケットから出てきた(何故一番に探さないのか?)しかも、しっかりとポケットの内と紐で結ばれていた。それを見てまた隣の女子は大喜びでケラケラと笑っているのだった。微笑ましいが、それよりも空腹をどうにかしなければならない。焼き芋屋さんのところへ行って焼き芋を買う。食べるととても甘い。繊維の一本一本から、芋のジューシーな甘さが溶け出すようで美味しかった。焼き芋屋さんの焼き芋を蒸す為の機械から煙がモクモクと立ち昇って、向かいにある窓の空いている家へと吸い込まれていった。焼き芋の芳しい香りが家の中で充満しているだろうと想像した。ふとこの焼き芋の甘美さに取り憑かれそうになっている自分がいることに気がついた。四六時中でもこの芋の甘さが口内に在り続ければ。また、心地よい重厚感が胃の中に居座り続ければと。この芋を家の中でも蒸せないものかと私は妄想を膨らませた。芋はこの辺りの畑できっと取れるのだろう。野菜畑が連なっていて、ほぼ自給自足で成り立っているようだった。農家の人が大声で話している。私のような余所者が見聞きしているのを分かっていながら、全然気にしない様子でガヤガヤと痴話話に花を咲かせている。田舎での暮らしというのもなんだか楽しそうで、余生はこんな土地に移住して暮らせればなと思った。
 

午後4時になった。公園に着く。そこには中年のおじさんが一人だけ、ベンチに腰掛けていた。おじさんはシャツにチノパンで足にはクロックスを履いていてとても親しみやすそうな雰囲気を醸し出していた。手元で何か作業をしているようだ。気になって近づいてみると、懐中時計にネジを巻いているみたいだった。「おじさん、何をしているんですか?」私はどことなくその飾り気のなさに引かれて話しかけてみた。「これかい?お気に入りの懐中時計が止まったから、自前で直しているんだよ。」おじさんはニッコリと笑いながら答えた。おじさんは普段は何をされている方なのですかと尋ねてみると、つい最近まで働いていたが今は定年で辞めてしまっているようだ。元々は富士沢村の観光案内所に常駐していたらしい。「あまりそこでの仕事は好きになれなかった」おじさんは少し寂しそうに心情を話した。顔は俯いて手元で修理中の時計に目をやったままだった。案内所に来る観光客の中にはかなり不躾な人も多かったらしい。特に若い客などはマナーが悪いだけでなく、タバコを投げつけられたり、酔っ払いに何時間も付き合わされた挙句に癇癪が爆発して職場をメチャクチャにされたりかなり嫌な思いをしてきたようだ。おまけに同僚たちとも馬が合わず、仕事を押し付けられて毎日残業をしていたようだ。その話を聞くうちに自分の職場がいかに恵まれているか再度認識せずにいられなかった。「そんな酷いところならどうしてすぐに辞めなかったんですか?」おじさんは修理の手をハタと止めて、顔を上げて私の方を見た。その顔を見て息を呑んだ。おじさんの左目には大きな十字型の傷がついていたのだ。これは案内所に来たヤクザと格闘した時に付けられた傷さと、おじさんは説明してニコリと笑った。「辞めて他のところに行ってもそんなには変わらないさ。」「どうせ同じなら住み慣れた場所の方がいい。」おじさんはハッキリと断定する口調でそう言った。「だけどもったいなかったですね。世の中そんなに悪い人ばかりではないんじゃないですか?」おじさんはマジマジと自分の目を見つめてきた。その左目についた十字の傷がキラリと輝いたように見えた。「そう思うかい。君はまだ理解するには若すぎるようだね。」おじさんは傷跡と不釣り合いな笑顔で微笑みながらそう言った。おじさんの屈託のない表情を見ていると幸せの波が寄せては返してくる中に自分が立っているような気がした。

「よし!直ったぞ!」
懐中時計の修理が済んだようだ。
「よし、この時計を君にあげよう。こうして一緒に話せたのも何かの縁だから。」
こんな貴重なものいいんですか?ありがとうございます。と時計を受け取った。カチカチカチと正確に時を刻んでいた。銀色でチェーンのついた懐中時計だった。

おじさんと別れて公園を後にする。商店街についた。時間は夕方の5時20分になっていた。美容院が見えなんとなくガラス戸の向こうを覗いてみる。若い女性がいて髪をカットしてもらっていた。茶髪でロングヘアーの20代半ばくらいの、若々しくて活動的に見えるがどこか大人っぽさもある。一言で表せば「いい女だな」そう私は直感した。

水が飲みたくなって、ドラッグストアで飲み物を調達することにした。フロアを歩いている。するとさっきのいい女が彼氏と思われる男性と一緒にいるのを見つけた。しばらく2人で楽しそうに物色しているが、やがて口論し始めた。盗み聞きをしてみると男のだらしなさに女が我慢できなくなり怒りを発散しているのが分かった。爪が伸びていたり、髪がボサボサだったり、身だしなみがちゃんとできてない。汗や口臭、足のにおいが臭すぎる。大体そんなようなことだった。消臭剤コーナーで消臭剤を彼の前で振りかざして、不快だからどうにかしてくれと鬼の形相で迫っていた。男の方もあまりにも言われたい放題だったので、ついに堪忍袋の尾が切れてしまったようだ。これでも食らえと言わんばかりに、腕に巻いていた腕時計を外して、彼女に向かって投げつけた。腕時計は彼女の胸に直撃してそのまま床に落下した。男は怒ったまま店を出て行ってしまった。

その一部始終を覗いていた私は、なんとも言えない罰の悪さを感じていた。女性は気が治まったらしく、また店内を回り始めた。生活用品コーナーを抜けて化粧品売り場を目指しているようだった。いい女が私の方に近づいてくる。私の鼓動が高鳴ってくるのを感じた。身体が少しづつ熱を持ち始めた。旅先で他人と出会い話す事などは今までなかった。どうすればいい?私は運命的な出会いを期待していた。この女の子は他の人とは違う。特別な何かを感じる。この出会いを逃しでもしたらこの先一生涯後悔を背負ったまま生きる事になる。七夕の織姫と彦星のように、長い間この出会いを世界中が待ち望んでいるのだとそう思い込んでいた。いい女が私の前にきた。「こんにちは。」私の口から咄嗟に出た言葉であった。「こんにちは。」その女の子もニコリと弾けるような満面の笑みを浮かべ、人間社会の古来からのしきたりに準じて挨拶を返してくれた。ほんの一瞬の出来事だった。いい女が過ぎ去った後はほんのりと爽やかな空気がその場を包んでいるようだった。ほんの一瞬だけでも私自身の存在が彼女の頭の中に刻まれた。今日このドラッグストアで彼女と挨拶を交わすことができた。その事だけで私はすっかりと満たされてしまい、しばらくは夢見心地な状態でいるのだった。

ドラッグストアを出るといい女がそこにいた。彼女とはもう会えないのだろうか?するとドラッグストアから10mほど前方に手を振っている女子が3人いた。いい女はその子たちのほうに走って駆け寄って行く。突然走る女の足の踵から火花が吹き出した。女が足を前に踏み出すとそのすぐ後には火が舞い上がる。なんとも異様な光景に私はつい見惚れてしまっていた。そうしたら今度は私の体に異変が生じた。身体中の神経が一度に全て活性化されたような衝撃を覚える。体の中で何人もの小人がスタンガンで頭の先から爪先までを刺激しているようだった。そして神経から筋繊維、骨を作る細胞までを破壊していき、そこから新しい私を新たに創造して行くようだった。目も耳も舌も細胞も全て破壊され尽くした後に唯一残された認識の闇。暗中で私が目にしたものは、そう、あの女の子の髪の毛だけ。美容院で切られたはずの彼女の髪の毛が私の認識の中に突如として現れた。その髪の毛へと見えない自分の両手を精一杯伸ばしてみる。そうしたら不意に闇の中から声が聞こえてきた。私は直感的に湖を目指さなければと思い立った。貸しボートのある湖を次の目的地に決めてそこに向かわなければいけないという思いがどこからか湧き上がってきた。次の瞬間、今度は地震が起こった。まずは横揺れだった。それが十秒ほど続いた。その後で直下型の揺れが五秒くらいかけて発生した。私は我に帰った。下に目をやると地割れが生じていた。私がいる目の前のコンクリートが盛り上がって割れ、上方へ隆起していた。驚いているとカチカチという微かな音がワイシャツの胸ポケットから、耳に入ってきた。それはおじさんから譲り受けた懐中時計が時を刻む音色だった。

時刻は夕方の6時を示している。まだ空は明るい。暗くならないうちに湖まで行って、ボートに乗り周遊できれば。ボート屋が閉まってからでは無駄足になってしまう。だが、夕闇の星空を湖に浮かぶボートの上から眺めてみるのも乙ではないか。煌めく星の瞬き、田舎の空いっぱいに敷き詰められたキラキラ輝く小さな閃光たち。その美しい景色を脳に思い描いただけで、私の胸は高鳴り興奮に包まれる。美を求めて歩いている最中に、写真撮影をしている一家に遭遇した。家族で観光に来た際の記念撮影を行なっているようだ。おじいさん、おばあさん、父母、そして男の子が1人。お父さんが三脚台に一眼レフを載せてセルフタイマーをセットしている。タイマーを作動させて、走って家族が並ぶ列に加わる。普通の集合写真では家族が横一列一直線に並ぶのだが、その一家はなぜか縦2列に整列していた。1番先頭が子供、その後ろに父母、最後列が祖父母だった。変な一家だなあ、この写真の撮り方、何か理由でもあるのだろうか?祖父母は背が低いために、父の背から顔を覗かせられるようにズレて立っていた。カメラに写せる幅が極端に狭いということではないだろう。普通ではない何か特殊な事情でも?なんの制約もなしにこんな不可思議な構図で取るなんて有り得るのだろうか?

貸しボートのある湖に到着したのは午後6時半過ぎだった。湖を見ると何艘かのボートが浮かんでいる。雷の音?不意に耳鳴りがしだした。そんなはずはない、さっきまでギラギラ光る太陽が空に浮かんでいた。今は夕日に変わり沈み始めているが。また酷い耳鳴りがする。どうやら幻聴のようだ。緊迫感が自分に襲いかかってくる。自分が歩いてきた道からビュンッと一陣の旋風が自分にぶつかってきた。私はパニックに陥った。どうしたらいいか分からない。風は次々と襲い掛かり、湖の漣は少しづつ高くなっていく。私は完全に動揺していた。目の前には古くて小さなボートが置かれている。船体はもうボロボロになっていたが、切迫感に追われている私はもうそれに乗るしかないなと思い、湖へと漕ぎ出す事に決めた。

日が沈んで夕暮が空の色を染め直している。空の半分が燃えるような茜色に染まり、もう半分が深い漆黒の闇に包まれていく。その無限に広がる夜の闇に向かってオールを漕いでいく。湖の中央に着いた。もうすっかり外は暗くなっていた。私はライターを取り出した。それで暗闇を照らそうとしたが、焼け石に水のよう。その小さな火種は闇に吸い込まれてあまり意味をなしてはくれなかったようだ。その時、またしても強風が起こった。風が今度は四方八方からボートを打ちつけてきた。激しく左右に揺れて転覆しそうな恐怖を感じた。波も激しさを増した。というよりもう荒波というくらいの高さにまで達した。風と波によってボートは水の上でゴム毬のように弾んだ。(助けてくれ…)荒波と格闘しながら心の中で叫び続けた。すると願いが届いたのか、私に襲いかかっていた荒ぶる暴風と波が急に収まった。良かった。なんとか命拾いした。私は安堵してホッと胸を撫で下ろす。空には満天の星が輝いていた。

ドンドンドーン、パンパーン。夜空には綺麗な打ち上げ花火が咲いている。神社で夏祭りが行われていて、そこに立ち寄っているところだ。いろいろな屋台が出ている。食べ物屋さん、ヨーヨー釣り、金魚掬い、射的など。有名な祭りのようで人がごった返していた。誰かと行く方が楽しいに決まっているが、一人旅なので仕方ない。屋台と人混みを観察しながら夏の風物詩に浸って旅の締めくくりとしよう。こんな終わり方はなんとも物悲しいが、もともとノープランできたのが悪い。そんな思いに駆られながら歩いていて、財布を取り出した際に、ポケットに入っていた家の鍵をうっかり落としてしまった。鍵は目の前に落下したが、歩いている人の足で蹴飛ばされてしまい、さらに遠くへと飛ばされてしまう。飛んだ先へ移動して触ろうとしたら、また蹴られて遠くへやられる。雑踏の中。中々鍵を掴むことができない。そこにあるのに、拾い上げようとする度に、そこに新たな足が現れて私との間に立ち塞がってくる。しばらくそのまま追いかけっこを続ける。中腰になりながらフラフラと彷徨う私を、道ゆく人達は可笑しそうに笑いながら、また不思議そうに心配そうな面持ちで眺めていた。

弾丸で行った旅行から一夜明けた日の朝。いつものようにトーストを焼いて、それにジャムとマーガリンを塗り食べる。優雅な朝の時間。私にとっての憩いの時間だ。ゆっくりしすぎて会社に遅刻しそうになる。トーストを食べながら新聞を開いてみる。社会欄の端っこに目を移すとなんと富士沢村に関する記事が小さく載っていた。「富士沢総合病院  設立30周年記念式典開催」とのことだった。梅園で見た医者と看護士さんたちの事が頭に思い浮かんだ。あの人たちの職場なのかな?記事の内容に目を向けると、設立された理念について書かれていた。元々は両親を亡くされたり、生き別れてしまった子供達を保護して療養するために、村内の有力者たちが資金供与して作られ、のちに総合病院にまで発展したようだ。記事には写真がついていて、片足を骨折している子供が医者に支えられてうつっている姿が見えた。その背には病院が立っていて、頭上には輝く大きな太陽が2人を照らしている。白黒であったがその色さえも鮮明に見えるかのように、心の奥底にまで届くような写真だった。

出社してから、急な休みを承諾してくれた上司と同僚たちにまずはお礼を言わないといけない。私は上司の席の前に立ち、上司とちょうど向かい合わせになっていた。私は旅についての思い出話に軽く触れながら、感謝をどうにか伝えようとした。上司はというとただ押し黙ったままで、目の前で私を見ながら只ひたすら相槌だけを打ち続けていた。すると突然信じられない事がまた起こった。窓の外で黒い竜巻が発生している。竜巻が轟々という音を立てながら窓に近づいているのだが、他のみんなは全く気づかない様子で仕事に励んでいる。竜巻が開け放たれた窓のそばに来た時にはっきりと目視できた。それは蛾であった。蛾の大群が群がって竜巻のように見えたのだ。それが会社の窓から中に入り込んできた。なのに何故か誰も反応しない。仕事の手を止めて窓を閉めようともせず、蛾の方に一瞥をくれることさえもないのであった。そしてなんと蛾は全て私の方めがけて飛行してきた。私は仰天してあんぐりと口を開けていて、まさにその口内に全ての蛾が一斉に入り込んできた。蛾が口から入り込む。まずい、体内に侵入される。数千匹の蛾の大群が鱗粉を撒き散らしながら、私の喉、肺、胃、小腸、そして大腸を侵食する。さらにその内壁をついに押し破って血管までも鱗粉で汚染し始め、まるで体内では闘牛の牛のようになり踊り狂うように私の体中を爆走する。私は全身に苦痛を感じたが、涙を流すというような感情はどこかへ吹き飛び、身体中の不快感だけが残り、ただこの蛾たちをどうにかしないと死んでしまうという焦燥感に駆られていた。咄嗟に近くにあった棒切れを掴んだ。それはまたしてもこんな所で会うとは、例の私が尻に敷いて壊した定規の片割れであった。それを剣のようにして迫り来る蛾たちをえいやと切り付けた。しかしそれは無駄だった。蛾の数が多すぎて、太刀打ちできない。一匹二匹になんとか当てるのが精一杯で、蛾は気にせずどんどん入り込んでくる。もうやめてくれ!耐えきれなくなり、私はついに、手に持っていた定規で自分の心臓を一つ突きした。定規は鋭利な刃物と化していて、私の左胸から肩甲骨までを貫いた。

ガバっと、起き上がって、ここはどこか思い出せず記憶が混乱している。長い間眠って夢でも見ていたようだ。全身が汗でぐっしょりと濡れている。夢の内容はよく思い出せないが、地獄のような光景だったのだろう。まだ心臓の鼓動が治らない。息もゼーゼー言っている。自分がどこで何をしているのか思い出さなければ。今は車の中にいた。車中で眠ってしまっていたようだ。そうだ新しい町に引越しに行く途中で、お父さんとお母さんと一緒に荷物を持ち運んでいるところだった。「みつるー。やっと起きたの?よく寝てたわね。」お母さんの声が助手席から聞こえた。「新しい学校に早く馴染めると良いわね。」僕の周囲は家財道具がグルリと取り囲んでいる。軽自動車で山道を走っているのでかなりきつそうだ。さっきか車体から何かが擦れるようなキーコキーコという耳障りな音が響いている。お腹が空いたのでリュックサックの中を漁って食べ物を探してみる。そこからは僕の寝相の悪さで押しつぶされ、クシャクシャに丸まったパンがでてきた。それを口の中に放り込んで腹ごしらえした。「みつる!見てみろよ!」父の声で窓の外に目をやる。そこには大きな湖が広がっていた。水面の表面は太陽の光を受けてキラキラと反射して光っている。風はなく、波一つない穏やかな光景だった。きっとこれから先の新しい生活もあんな風にきれいな景色でいっぱいに違いない。ただ目の前の自然風景の素晴らしさに感動しただけなのだが、きっとそう信じる方が。この景色を見てそう思って救われてきた人が他にも大勢いるのかもしれないな。子供に似合わずそんなような戯言を空想しながら車に揺られ続ける。


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