無音の青春 (短編小説)

教室の一番後ろの真ん中の列に正(ただし)の席がある。席の横に据え付けられた金具のフックには、学校指定のデザインの鞄がかけられている。鞄の中は教科書とノートが常にぎっしり詰められていて、外から見るとパンパンに膨れ上がっている。それは正がガサツ過ぎて、最低限その日に持っていくべきもの以外も、お構い無くボンボンと詰め過ぎてしまうせいもある。しかし、買い物を母から言い渡され、学校帰りにスーパーに寄ることもある。その時に困らないように、鞄の中にはビニール袋が小さく三角に折り畳まれて常備されている。それを袋詰めする時に取り出して、買った食材や日用品はビニールに入れて両手で持って帰宅する。それはまるでドラえもんの四次元ポケットのようだった。いくつもコンパクトにしたビニール袋を入れておくことで、急に何かをしまわないといけなくなっても平気でいられるからだ。

いまは中学3年生の夏。正は私立中学校に通っていて、クラスのみんなと上位高に入るために一丸となって勉強に励んでいる。隣の席にいる律子もそうだ。小学校の頃は同じスイミングスクールに通っていて仲が良かったが、ある日突然辞めてしまった。その後は全く話さなくなったのだが、中学でたまたま隣同士になり、また割とよく話すようになった。律子はいつもしっかりしていて、勉強もできたし、スポーツも得意で性格も明るかったので、男女問わずクラスのみんなから慕われていた。正はそんな何でもオールマイティにこなす律子の事をいつも羨望の思いを抱きながら見ていた。自分は一つの事しかこなすことができないと割り切っていた為だ。だから大学に受かるまでは勉強一筋で突き進んでいこうと腹を括っていた。当然、クラスの友達を笑わせたり、注目されたりすることへの憧れはあったのだが。それでも自分はせっかく勉強の才能があるのだから、両親や教師に喜んでもらえるように、少しでも偏差値の高いところを目指そう。そう決心して直向きに勉強に励んでいる中3の夏の時期だった。

正は卓球部に所属していた。夏の大会を境に引退となってしまうので、3年生は必死になって汗を流している。校庭のランニングから始まり、基礎練習をやって、試合形式の流れで通常メニューをこなす。正は勉強の方に軸足を据えていたので、試合に出るメンバーではなかったが、試合に負ける悔しさは感じる方だったので、練習には手を抜かずに取り組んでいた。おーい!みんなちょっと休憩しよう。そう言って正と同じ3年生で、レギュラーメンバーの健一が部員に声を掛けた。健一が週末に家族と旅行に行ってきたようで、お土産に温泉まんじゅうを部員全員へ差し入れてくれた。「今は練習中だし、顧問に見つかるとまずいんだけど。」部長が慌てて健一の振舞を静止しようとするが。「みんなこの暑さの中頑張ってるんだし、ちょっとは息抜きもしないと集中力がもたないだろう。」部長の苦言を右から左に流しながら、持ってきた菓子を配り続ける。健一は卓球の実力があるだけでなく、人を寄せ付ける天性のムードメーカーだった。教室でも部活の休憩時間中も健一の周りにはいつも人集りが自然とできていた。しかし、練習の手を止めずに黙黙とサーブ練習を続ける人が一人いた。それは隆太という一年生だった。隆太はスポーツ万能で、まだ始めて4ヶ月しか経っていないのに、団体戦のレギュラーに入るほど、成長が著しい有望株だった。顧問からは来年には本校初の全国大会の出場選手が出ると言われ、学校中から期待されていた。隆太は正にとっては別にどうでもよい存在だった。雲の上にいると思っていたが、受験に成功して志望校に受かること、それだけが自分にとっての重大事だったからだ。

卓球部に所属する3年生11人は放課後のガラガラになった職員室に整列させられている。饅頭をみんなで突いているところを、入ってきた顧問に捕まったのだった。夏の大会まで日がないのに、お前ら弛んでるぞ!意識を高く持て!サボっていたことと、日頃の練習の態度を叱られてから、顧問の怒りはドンドンとエスカレートしていき、関係無い事にまで派生していった。「だいたいお前らは身だしなみからなってないんだ!なんだその髪型は!?そんなんじゃ社会に出てからやってけないぞ!」中学3年生のほとんどは整髪料を使って髪をガチガチにしていた。正も例に漏れず、オシャレにそれほど興味はなかったが、浮かないために髪を軽く持ち上げていた。歯を磨いて、髭を剃り、寝癖を治して髪を乾かしてから、スタイリングする。そうした事が日課になっていた。みんなが使っているから、そうしているだけなのだが、顧問からしたらなぜかそれが気に食わないらしい。「とにかく相手に不快な印象を与えないこと。それが大事なんだから。鶏みたいに髪を逆立てるのがどこがカッコいいんだ!あぁ!」机をバンと叩く音が伽藍洞の職員室にこだまする。やがてもう帰っていいぞというお許しが出て、3年は一目散に教師から逃げた。正も出ようとした時にふと国語教師の机に置かれたあるものが目に止まった。それは「小説コンクール」と書かれたチラシだった。正は強引に顔を背けて、職員室を出る事にした。

正はいつも昼は弁当を一人で食べている。正だけの秘密の特等席に座って。学校の屋上だ。そこをテラス席にして、校庭を見下ろしながら優雅に時間を過ごすのが一番の楽しみだった。

ガシャン!

すぐ近くでフェンスに何かがぶつかる音がした。目を向けてみると、人が何人かいて喧嘩のようだった。丁度大きな仕切りを挟んで反対側で起こっていたので、彼等は正がいる事に気づいていないようだ。取り巻きの中央にいるのは健一だった。健一は誰かを思いっきりフェンスに押し付けている。「何するんですか!」掠れているが力強い声が聞こえた。その主は隆太だった。それから健一と仲間の数人は隆太を袋叩きにした。正はすっかり怯えてしまい、その場にうずくまって助けを呼びに行くことさえも出来なかった。見ているのはとても辛かったが、なぜか目を逸らそうとしても体が言うことを聞かなかった。ふと、正は人生そのものに虚しさを感じた。これはきっと現実ではない。嘘なんだ。世の中の仕組みを唐突に悟ったような変な感じがした。自分が決して感じることのできない知覚たちだけがこの世を駆け巡ることで真実が成り立っている。そして反対に自分の中の真実の叫び声だけが闇の中へと葬り去られる。ああ、この世は全て偽物なんだ。生きていながら実は死んでいるんだな。

ピピピー

ふと、携帯の着信音が鳴った。健一達が目をやる。そしたらそこに律子の姿があった。健一のグループは驚いた様子だった。律子は携帯の音を無視して、階段に向かってダッシュした。

律子が担任を呼んだおかげで、隆太への暴力が酷くなる前になんとか沈静化された。加害者たちは教師に呼び出され、たっぷりとお灸を据えられたようだった。何日か過ぎた後の放課後の教室で。律子が自分の机の上に頭からタオルを被せて突っ伏して寝ているのが目に入った。「律子ー!」と声をかけてタオルを取る。「キャー!いきなり何するのよ!」そう叫んで、律子がこちらに顔を向ける。完全に寝起きのようで顔が熱って目が充血していた。いきなり起こされて完璧に気分を害されたようだ。痛い!鳩尾に激痛が走る。律子の上履きの先端で思いっきり蹴られたのだった。
じゃあねー♪ 律子はニコニコと笑い、そのまま教室の外へと走り去って行った。律子がさった後も、バスケットボールほどの大きさの痛みが、腹の中に居座り続けた。ふと教室の壁に目をやると、夏祭りのポスターが飾られていた。祭りは明後日開催される。祭りって何の為にやるんだろう。ふとそんな馬鹿げた疑問が頭をよぎった。祭りの起源を遡ると、それは遠い過去からの風習だ。それが未来の明後日に行われるのが不思議に思えるのだった。過去から代々続いているからやるものだろうか?それの形だけが風習として残され、今の私たちも楽しむ事ができている。それならば、何も問題はないはずだ。伝統の意味というのはどこからくるのか?考えても答えは出ないが、考えずにはいられない。答えが出せるまで、もう少しだけ心地よい思考の波の中で酔っていたい。

ふと律子の机に携帯が置かれているのが目に入った。忘れて行ったのだろう。その携帯に触ろうとして手を伸ばした。けれども、教室のドアから数人の女子の声がして、机にあとほんの数センチまで近づいた手を慌てて引っ込めた。

おわり

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