ムーの冒険


三毛猫のムーは右耳の後ろに大きな傷があった。産まれてから間もない頃にできた傷だった。どこでどういう風に作られたのかは記憶にない。愛らしいくるりとした瞳には似つかわしくない、その痛々しい傷跡は、今では前足で毛を溶かす際に少し邪魔をするくらいで、特には気にならず、たまに愛らしささえ感じるトレードマークになっていた。

捨て猫の譲渡会にいた時に、今の飼い主に目をとめられた。その前はずっと、河原に置かれた段ボールの中でひっそりと暮らしていた。産まれたばかりの時分に捨てられてしまい、あと幾日か過ぎれば衰弱し切って死んでいた所を、保健所の職員に保護してもらったのだ。譲渡会に来ていた飼い主さんは、耳後ろにできた目立つ大きな傷を見て、なぜだか自分が引き取らないといけないという思いになったのだそうだ。そうして、その一家に受け入れられた、生後3ヶ月の女の子の三毛猫は、ムーと名付けられた。

ムーの飼い主の夫婦はムーのことをとても可愛いがってくれた。ムーを喜ばすために、色々なものをペットショップで買ってくる。ぬいぐるみ、ねこじゃらし、クッション…。飼い主の趣味で、たまに変わったものまで買い与えて、ムーを困らせることもある。それを着て町を散歩もする。元から人懐っこい性格で、飼い主の奇抜なファッションセンスのおかげで、ムーは町内で有名なご当地ネコになった。

ムーの家は旦那さんと奥さんの二人暮らしだ。ムーを見つけてくれたのは奥さんだった。奥さんはピアノ教室を開いていて、多くの小学生が毎日ピアノを習いに来ていた。子供たちと戯れ合う時間が、ムーにとっての至福のひとときだ。子供はみんなムーを撫でようと手を伸ばす。その手をヒョイッとかわしながら、後退りして、と思ったらまた子供の前に近づいて挑発する。モハメドアリのような華麗なステップで、子供たちを翻弄する。子供はムーを追いかけ回す方に集中力を割かなければならず、いつも奥さんに叱られていた。「うちに来る子たちは、このままじゃみんな飽き性になっちゃいそう。親たちからクレームが来たらどうしましょう。」奥さんは心配な思いを旦那さんに話していた。それを聞いて旦那さんは、短い時間にレッスンに集中できるコツを箇条書きにして、生徒たちに周知していた。

ムーは賢いネコだった。奥さんと生徒さんが奏でる音色を全て耳コピしてしまう、特殊な能力を持っていた。ムーの1番のお気に入りは「トルコ行進曲」だ。軽快なメロディーが耳に流れる度に、ムーの気持ちもゴム毬を二階の窓から地面に落とした時のように、ピョンピョンと陽気に弾むのだ。ある日、奥さんと生徒さんがレッスンを中断して、お茶菓子を食べている時のことだ。ムーははピアノの椅子の上に座って、鍵盤に肉球を押しつけた。そして、ピアノの譜面台に置かれた楽譜を目で左上からザーと撫でるように目を通す。不思議と楽譜に書かれたオタマジャクシたちが、銀色の声音で歌を歌い出すように、一つの音楽をムーの中で奏でた。ムーは譜面と耳コピした記憶を頼りにしながら、銀盤を叩き始めた。ピアノから聞こえる音は、奥さんが弾くものと寸分の狂いもなく、忠実に再現された「トルコ行進曲」だった。奥さんと生徒は息を呑んでピアノを弾くムーを見つめていた。

その日からムーの名前が全国に轟き渡り、一躍大スターの座に昇り詰めた。たくさんのメディアが、ムーの「トルコ行進曲」を聞くために、ピアノ教室に押しかけた。ムーは絶対に間違えることなく、常に同じ速さで、完璧な「トルコ行進曲」を聴衆の前で披露することができた。それはあたかも写真に収めた肖像であるかのようだった。またあるいは、鏡に写してみる自分の姿のように、生写しのような音色だった。また、録音したプロのミュージシャンが奏でる音楽のようであり、プロ野球の選手のバッティングフォームを完全に模倣して自分のものにしてしまった時のようだった。一言でいうと、「教科書的なトルコ行進曲」であった。町の看板ネコだったムーは、いまや完コピネコとして、全国の猫好きで知らない人はいなくなった。

ムーの散歩コースはいつも決まっていた。町を歩くとみんなから声をかけられ、鰹節や煮干しをもらったりもする。ムーは散歩の途中でいつも空き地に立ち寄るのだ。そこの草むらでゴロリと寝転んで、お日様の光を体に浴びて、幸せ気分になるのがルーティンだ。ある日、いつもの空き地に、見慣れないものが置いてあるのを見つけた。それは黒い木製の板で短い脚が3本生えて、ちょこんと可愛らしく立っていた。前の部分には長くて白いちいさな棒切れと、それよりもう一回りちいさな黒い棒切れが全部で61も敷き詰められていた。ムーにとって馴染みのある道具と同種であることがすぐにわかった。ムーは小さな板に触れる。そうするとホロンと小さく音が流れた。空き地で新しい友人に出逢ったかのように、ムーの胸は高鳴った。ムーはその小さな友達と十八番の「トルコ行進曲」を歌った。そうしたら、茂みがガサゴソと音を立てて、びっくりしてそちらに目をやると、いつのまにか一匹の客が耳を澄ませていたのであった。「あの。どちら様ですか?」ムーはその猫に尋ねた。ネコはゆっくりとムーの方に近づいた。顔から背中、そして尻尾まで真っ黒いネコだった。お腹だけが白い色をしていた。どうやら雑種のようだ。猫の顔を見ると、なぜか両目を瞑っていた。「俺の名前はギルだ。飼い猫がこんな所で何してるんだ?」「この町のピアノ教室に住んでるんですけど、ちょうど空き地にピアノがあったので、弾いていたんです。」ギルは瞑ったままの両目で、じっとこちらを見つめているようだ。「なぜ目を閉じているんですか?」ムーは思い切って聞いてみた。「ガラスの破片の上に転んだ時に傷つけて開かなくなったんだ。」パックリ割れて血がドクドクと流れたそうだ。ギルは本当に恐ろしくて、必死になって両手で目を抑えて止血したらしい。そしたら血が固まって、両目のまぶたも張り付いたまま2度と開かなくなったようだ。「視力なしでノラ猫なんて、よく生きてこれてますね。」飼い猫のムーにとっては、ノラ猫としての暮らしは全くの未知の世界であった。食べ物の確保、野良犬やカラスなどの天敵と言った困難と毎日格闘するだろう。保健所に保護されても、引き取り主が現れなければ、殺処分の対象となってしまう。「そんなに悪いもんでもないさ。耳も鼻も効くからどうにか生きていける。」それにな…。まぶたの裏では自由な世界を描けるんだ。「自由な世界ってなんでしょうか?」ムーは飼い主の家と、散歩コースの他に、世界が広がっている事を知らない。「頭の中で想像すればなんだってできる。空も自由に飛べる。海の中に潜る事も。たらふくご馳走を食べる事だって。他の五感は生きてるから、目の前の景色は見たいものを自分が思えばいいだけさ。」ムーは視力がなくて大変そうだなとしか感じることができなかったが、実際にそのような状況で生活している猫の感じ方はまた違うんだなと唐突に理解した。「君はなんで名前だっけ?」そういえば自分はまだ名前を告げてなかった。「ムーです。」そう一言名前だけ伝える。「ムー。目を閉じて、俺と想像してみないか?」ムーは目を瞑った。「ここは漁港で、水揚げされたばかりの新鮮な魚たちが何匹も並んでいる。」「漁港って何ですか?」生まれた地域しか知らず、海を見たことがないムーは尋ねた。「海は知ってるか?」「はい、大きな水溜まりですよね。」飼い主さんの家に海の絵が飾られているので、何とか海は理解していた。「港は海に住んでる魚を獲る場所なんだ。そこには、クロマグロ、サバ、アナゴ、イワシ、カツオ…いろんな魚たちが並んでいて食べ放題だぞ。」「私はマグロを食べたいです!良いですか?」ムーは気分が高まってきて、思わず声が上ずった。「ああ。もちろん。好きなだけ食べなさい。港の漁師は漁に出ていて、日が暮れるまで戻らないからな」じゃあ俺はイワシをもらおうと、ギルもイワシに頭からかぶりついた。そうして2匹は美味しい魚をお腹いっぱいに食べて、自分が食べた魚の味を語り合うのだった。「グー!」突然、ムーのお腹が大きな音を立てて鳴り出した。「ギルさん。お腹すいちゃいますから、別のにしませんか。」ムーは昼ご飯前なので、非常に空腹だった。「じゃあ今度は、遊園地に行かないか?観覧車に乗ろう。」遊園地?観覧車?ムーにとっては全く耳馴染みのない言葉だった。「遊園地は人間たちが遊ぶために作った、とても大きな公園みたいな所だ。そこには来る人を楽しませるために作られた、色々な乗り物やお店があるんだよ。」「それで観覧車というのはな。ビルと同じくらいの高さの大きな車輪に、小さな部屋がたくさんくっついていて、その車輪がゆっくり回転する。小部屋の中にいる人は上から外の風景を眺めて景色を楽しむんだ。」ムーとギルは観覧車の小部屋の中にいた。ムーは窓に手をついて高い所から外を眺めた。「ムー。何が見えた?」ギルが尋ねた。「青々とした大きな山が見えます。みかん畑、りんご畑、それから綺麗な花がたくさん咲いているのが見えます。」ムーは観覧車の中ではしゃぎ回って飛び跳ねたい気分になった。声の調子で察したのか、ギルはこう言った。「飛び跳ねても良いんだぞ。ここは想像の世界だから。落ちるイメージをしなければ、決して落下することはない。」ギルは落ち着いた声で言葉を続けた。「反対側を見てごらん。住宅地になっていて、家の屋根の上に猫達が座ってるだろう。」「あっ!本当ですね。日光浴をしながら毛繕い中みたいです。」楽しくて楽しくて、2匹はしばらく白昼夢に浸っていた。爽やかな風がヒゲをちょんと揺らしながら通り過ぎていく事にも意識を取られずに、ただ夢中で想像の世界に身を投じていた。

そうだ、お前がさっき弾いてたのはトルコ行進曲だな。ギルはピアノを前足で指しながら言った。目は見えていないが、さっきまで音色がどこから出ていたかで、位置を正確に覚えていた。「お前が奏でる音楽は、はっきり言って俺は好きじゃないな。」ムーは頭に鉄パイプが落ちてきたような衝撃を食らった。「ひどい!そんなこと言わないでください!私は一度も間違えずに、テンポだって正確に弾けるんですよ。飼い主さんも、生徒さんも皆んなが誉めてくれるのに、何であなたは貶すんですか?」ムーは自分が魂を込めて弾いた音を侮辱され憤った。その後は何も言うことが出来ず、気づいたら大粒の涙が目からこぼれ落ちていた。「じゃあ、俺がピアノを教えるから、言う通りに弾いてみるか?」ムーは泣き止んで、ギルの前足を掴み、感極まって振り回した。「教えてください!もっと上手に弾けるようになりたいんです!」ギルは咳払いを一つした。「まず、テンポが遅すぎる。少し速めた方がいい。」そう言われてムーは思わずギルを睨んだ。「そんなはずない。だってこのテンポは楽譜通りだし、ピアノ教師をしてる飼い主さんも、いつもこの速さですよ!」そう言って反抗したが、ギルは首を横に振った。「そうなのか。それは失礼した。じゃあ速さはそのままでいい。でも、なぜか俺には遅すぎるように聞こえるんだ…」ふとムーは疑問を口にした。「ギルさんはピアノ習われてたんですか?」ギルは、習ったことなど一度もないとキッパリ答えた。本当に大丈夫なのかムーは不安になったが、ギルの抜群の聴覚を信じてアドバイスを聞く事にした。「次に気になるのは、すごく窮屈そうに弾いてるとこだな。虫かごに入れられたバッタが天井にガンガンと頭を打ち続けてるような、そんな音の印象だぞお前の音楽は。」そんなこと言われたのは初めてだった。「だから虫かごの蓋をとってから演奏しないとダメだぞ。」言いたいことは何となくわかるが、比喩的な表現なので、具体的にどうやって弾けばいいか解決方法を知りたかった。「喩えはよく分かりましたが、もっと具体的にどう弾いたらいいですか?」「そうだな。自由に伸び伸びとだな、弾いてみたらどうだ。」ムーの頭の中でビッグバンが起こり、全く新しい天地創造が今まさに始まったくらいの価値観が一気に変わっていく感じを味わっていた。今までは、お手本としている飼い主さんの演奏を忠実に真似ることが、自分だけでなくオーディエンスにも受け入れてもらえる方法とばかり思っていた。どんなに自由に弾いたって、どんなに美しい音色で素晴らしい曲を弾いたって…。間違いだらけの演奏だったら、誰の心にも響かないんじゃないかな。作曲者が考えたテンポより速すぎたら聞く人は不快に思うだろうし、ゆっくり過ぎたら眠くなりそう…。ギルの言葉の裏にどんな意図が隠されているのか、ムーには掴みきれずにいた。「最後に俺から言えることはな…。楽譜に書いてあって、飼い主さんが奏でる音と同じと言ったが、お前自身の音が感じられない。今話している目の前のお前と、ピアノから発せられている音が、同じ所から湧いているようには思えない。だから違和感を感じる。」ギルは閉じた目でムーのことをじっと見つめているようだった。ポツリポツリ。ムーの顔に何か冷たいものが触れた。雨だ。そう思ったら、雨は土砂降りとなって、二匹を容赦なく打ちつけてきた。突然襲い掛かる自然の悪戯から逃れるために、雨宿りできる安全地帯を探して全速力で地面を蹴りながら疾走した。

ムーはボーっとしながら物思いに耽っている。あの日にギルと会話した内容が頭から離れずにいる。目線の先には飼い主さんがいた。なぜ自分のトルコ行進曲はギルに受け入れてもらえなかったのだろう。飼い主さんはトルコ行進曲を弾いていた。彼女にとっての1番のお気に入りの曲なのだ。自分を譲渡会で見つけて拾ってくれた日のことを思い出した。市の担当者から事細かに説明を受けて、しっかり預かって育てますと言って、引き取られた。その時からムーにとってはこの家で暮らせることが何よりの幸せとなった。大好きな人たち、大好きなピアノの音色、そして美味しいキャットフードの味…、ムーにとってかけがえのない大切なものだった。飼い主さんに拾われる前、ムーは捨て猫だった。ムーを河原に置き去りにしたのは誰なのか。また、ムーの実の親のことをムーは全く知らない。ただ、茂みの中に捨て置かれたダンボールに容赦なく降り注ぐ日差しの暑さ。寒さで手足が麻痺していた冬の極寒地獄。そして、学校帰りの中高生がエアガンやBB弾の銃でムーを脅してきた忌まわしい記憶。そうした中で、人懐っこかったムーにいつも親切にしてくれて、煮干しやツナ缶を分けてくれた、お婆ちゃんの優しさに触れたことも思い出していた。飼い主さんは、1人の生徒さんを教えているところだ。その子には、チューリップの弾き方を指導していた。まだ幼稚園くらいの年齢で、ピアノ教室に通い始めたばかりだった。楽しそうに弾いていたが、まだ幼いため集中力を保てないようだ。すぐに飽きてしまう。そうしたらムーの出番だ。サッとその子のそばに駆け寄って、頭を撫でてもらうように催促する。「それじゃあ、ちょっと休憩にしましょうか。」そう言って、飼い主の先生が台所へ行って、お茶とお菓子を用意しにいく。次に来た生徒さんは年配のサラリーマンの男性だ。ベートーヴェンの悲愴ソナタを習っていて、かなり完璧に弾きこなしていた。1時間の練習時間が過ぎた後、先生と2人で談笑した。ムーもすかさず、彼の膝を占領して、頭を撫でてもらった。それで、本当に骨が折れるんですよ。彼はハァーっと長いため息を吐く。その表情は僅かながらに生きてはいたが、本当に疲れ切っているような、憂いを帯びた面持ちだった。目の奥は薄く淡い色をしていて、口元はなんとか崩れそうになりながらも笑みを保っている。ドサッと音がして、カバンから一冊の本が滑り落ちた。「Pythonのアルゴリズム」本のタイトルはそうなっていた。ムーにはどんな内容なのか見当もつかなかったが、テーブルの上に置かれたその本を目で追いかけた。「うちの会社で受注したシステムを構築するのに、必要な知識なんですよ。夜通しずっと読んではプログラム走らせての繰り返しで、本当にもう疲労困憊で…」おまけにこのテキスト代、2,000円もしたんですけど、全額自腹なんですよ。もうちょっと社員のことも考えてほしい。そう言って彼は力無く笑った。ムーはニャーっと一声鳴いてみせた。そして頭をグリグリと頭突きするように、胸の前で組まれた彼の両手に無理やり何度も押し当てた。今日のレッスンスケジュールが終わり、飼い主さんは夕飯の支度を始める。トントン、トントン。コトコト、コトコト。野菜を切る音と、鍋で煮る音がする。今日はシチューを作っているみたいだ。居間のテレビがついていて、クラッシック特集が放映されていた。ふと、ピアノの音色がムーの鼓膜を揺さぶって、脳に信号となって送られてきた。「今のテンポじゃ遅すぎる。」「自由に伸び伸びと」ギルの言葉が蘇ってきた。自分もこの曲を弾いてみたいなとムーは直感的に思った。それは「子犬のワルツ」だった。ムーはすぐにその曲を弾くべきだと分かった。なぜならば、それはムー自身が心の底から弾きたかった曲だからだ。

「子犬のワルツ」を弾くようになってから、1週間が過ぎた。人間のプロが弾く音とは少し違う癖のあるメロディーで、聴く人によって好き嫌いが分かれる。「トルコ行進曲」の時のように、神童猫だ、完コピだ、などと持て囃されなくなっていた。ムーは一時のブームであって、その嵐が過ぎ去ってしまい、今はただ純粋にムーの音楽そのものの真価だけで世の審判が降っているのだった。でも飼い主さん夫妻と仲良しの生徒さんが、気に入って聞いてくれるだけでムーは幸せだったし、ムーの音楽に魅了されている人たちは絶えることなく世界中から音楽教室に足を運んだ。ムーはギルにもう一度だけ会って、渾身の力で演奏する「子犬のワルツ」を聞いてもらいたいと願っていた。しかし、あの日以来、ギルの姿を空き地で目にすることはなかったのだ。ギルに自分が見つけた新しい音を早く聞かせたいのだが、ノラ猫のギルがどこにいるか、いつ空き地に現れるのか分からないので、ひたすら空き地に通っては一人でギルを思いながら「子犬のワルツ」を弾くのだった。

今日も空き地に来た。すっかりと日が沈んだ午後8時にも関わらず、見渡す限りの人でごった返していた。さらに提灯で辺りは彩られていて、人々も綺麗な浴衣に帯を締めて、眩いばかりの色彩の景色が眼前に広がっている。まるでいろんな色の光が火の粉になって、ムーの目に飛び込んできたかのようにパチパチパチパチと刺激を与え続る。そう言えば、今日は年に1度の夏祭りだったな。ムーは飛んだ騒がしい日を選んで空き地に来てしまったなと後悔した。とにかくムーには騒々しすぎた。花火の音、太鼓の音、人の騒ぎ声やらで、とにかくうるさかった。あの電子ピアノは無事だろうかと気にかかり、見に行く事にした。喧騒の中を歩いていると、先日ピアノ教室でベートーヴェンの悲愴ソナタを弾いていたプログラマーが、土管の上に座って俯いているのに気がついた。ムーはそのすぐ側に行って「ニャー」と一声泣いてみせた。「あー。ムーか。こっちにおいで。お前でいいや、ちょっと話でも聞いてくれよ。」彼の手にはビールが握られていた。それをグイッと飲み干して、ムーを膝の上に招いて捕まえようとした。ムーは触ろうと伸ばしてきたその手を、紙一重のところでスルリとかわしてみせた。そして少し距離をとって、またニャーと自慢げに鳴いた。近づいてはかわす。その繰り返しの遊びをしばらく楽しんだ。「ムー!お前俺をからかってるだろう!」ついにプログラマーはムキになって、ムーが近づいた瞬間にガバッと両腕で掴んだ。ムーはなす術もなく膝の上に引き寄せられてしまった。「お前、いつの間にか子犬のワルツもマスターしたんだな。」酒臭い息をまきながら、ムーの頭を撫でてそう言った。ムーの頭から背中までの毛をくしゃくしゃに撫で回すので、本当にくすぐったいのなんの…。「はぁー。俺もお前みたくなれたらなぁ。」ムーはされるがままに身を任せていたが、彼の大きな手がだんだん荒っぽくなってきたので、そこから逃れようとジタバタしてみたががっちり捕まえられていたので無駄な試みだった。「なんだよ、一丁前に逃げようとしやがって、生意気だがお前も俺と同じで悲しんでるんじゃないか?」彼は今度はムーの右耳の傷の上に手を触れた。いつまでもこんな痛々しいトレードマークなんか背負ってるようじゃ、お前もダメだな。そう言って、ムーを離して盆踊りを踊りに行った。ムーはしばらく彷徨い歩くことにした。すると、後ろからトントンと肩を叩かれた。振り返ると、そこにはアメリカンショートヘアがチョコんと立っていた。「奇遇だな、こんなとこでムーと会うなんて。」「やぁ!モリーじゃないか?!久しぶりだね。元気だったかい?」それは3丁目のお宅に住む、知り合いの猫だった。家同士の付き合いで、昔は頻繁に会ったりもしていたが、最近は疎遠になっていたのだった。「町内の猫たちは、皆んなあっちに集まってるんだけど、良かったらお前もこないか?」ムーは一人ぼっちが心細かったので、渡りに船とばかりにモリーの後について行った。空き地の裏手に数十匹の猫達が一堂に介して、輪を作って盆踊りを踊っていた。その外側は人間たちが同じくアーチを描いて盆踊りに興じている。なんとも不可思議な光景だった。ムーも猫たちに混じって踊を踊った。右手を上げて左手を上げ、右足を出して左足を出す。周は提灯の灯りが色鮮やかに輝いていて、その上の夏の夜空には満天の星が散りばめられ、空き地全体が宝石箱になったようだった。みんなが一つになり、嬉しい気持ちでくるくる回り出す。ムーもみんなに合わせて、クルクルと体を回転させた。自分一人だけの楽しみではなく、楽しさが一緒に踊る空き地の仲間たちを伝わったいき、大きな大きな喜びへと連なっていく。そんな尊い歴史の瞬間を、いまムーは目の当たりにしているかのようだった。ムーの全身の細胞は高揚していた。この踊りが終わったあとには、何が残るかなんて今は考えらない。それでもこうして舞い踊る一瞬一瞬は記憶の底に刻まれて、生涯忘れ去ることはないだろう。そのぐらい、ムーは興奮しきっていた。ムーが回るスピードを早めるほどに、その熱は温度を上げていき、そのままムーを熱気ごと宇宙の彼方まで連れていきそうな予感を覚えさせていた。モリーがムーに近づいてきた。「ムー、どう気分の方は?」「本当に最高だよ。なんていうか、自分の存在を感じられる。本当に来てよかった。」また、みんなの踊りを見て、自分も踊りを楽しみたいな。ムーはそう思った。「子犬のワルツ」を弾いている時と近しい感覚を味わっていた。「あ!」ムーはビックリして思わず声を上げた。雑踏の中でギルがいるのを見つけたのだ。ギルはムーに背を向けたまま、闇の向こうへと消えていった。ムーはその背中を追いかけようとしたが、石につまづいて転んでしまった。「大丈夫?」モリーが心配そうに見つめる。「あのさー。両目を瞑っているノラ猫を探していて、さっきたまたま見かけたんだけど。いつもどこにいるか知らない?」それは分からないなあ。ピカッ!ゴロゴロ!稲妻が空に浮かんで、どしゃぶりの雨が降り出した。急にバケツをひっくり返したようような豪雨になって、人も猫も慌てふためいて散り散りになって避難し始めた。こりゃもうお開きにするしかなさそうかな。そう言って顔を見合わせたムーとモリーは、一目散に雨宿りできる場所を目指して走り出した。急に降り出した土砂降りの雨が、さっきまでは踊り騒ぎ、今は混沌の中を逃げ惑う人々の足跡と歓声そして余韻さえ、何も残さずに全てを洗い流していくかのようであった。

ムーは家の入り口近くで日向ぼっこをしていた。ニャー。ぽかぽか陽気が気持ちよくて、そのまま寝てしまいたい。ムーは太陽の光を全身に浴びて、まるで花が光合成をするように、自然の力を身に蓄える事だけに集中しようと努力した。ムーにとって、その息抜きこそが今は仕事のようなものだったのだ。ガタンガタン。家の近くの踏切から電車が通過する音が聞こえた。ムーは傷のある耳を立て、一生懸命に音を聞いた。けたたましい電車の騒音のせいで、ムーの眠気はいっぺんに吹き飛んでしまった。ふと、ムーは自分を産んでくれた両親に会いたいなと思ったのだ。河原に捨て置かれる前に、どこかの家で幸せに暮らしていたであろう、遠い過去を探しにいきたい気持ちに駆られた。ムーはムー自身の出生について何も知らない。そのまま人生が進んでいくことが堪らなく怖くなったのだ。前方から一人の男の子が、家の方へ歩いてきた。ピアノ教室の生徒さんであることは間違いない。何度も見た記憶のある顔だった。その子は小学校低学年くらいの年代だ。胸元にはネームプレートのタグをぶら下げている。「赤羽陸人」ネームプレートにはそう書かれていて、それを見てようやく名前が記憶から呼び出された。少年に続いてムーも家の中へと入る。日向ぼっこをしすぎて、すっかり身体中が外気の暖かさでのぼせてしまったのだ。日陰が恋しくもなり、家の中にスルリと忍び入った。レッスン室に入ると、待ち兼ねていた奥さんに一言お詫びした。塾の帰りに先生に質問していて遅れてしまったようだ。本当は3時の会に間に合う予定だったが、時計の針は3時半を8分も過ぎた時刻を指し示していた。少年は奥さんと気が合うようで、いつも楽しそうに談笑しながら練習に励んでいた。少年の演奏はリズミカルで聴いてるとウキウキする気持ちになれた。奥さんも横で満足そうにしていた。休憩時間はお互いに近況のことなどの、他愛もない話が尽きなかった。ガハガハと気持ちの良い笑い声が部屋に響き渡る。そんな心地よい空間にムーもちょこんと座って居られる事に、ムーも悦に浸っていた。「僕、最近すぐに疲れちゃうんですよ。これって夏バテですかねー。」「あなたそんな若いのに何言ってんのよ。年寄りみたいなこと言わないの。」「若くても疲れるじゃないですか〜。他の子もみんな怠い怠いって言ってますし…」「疲れやすいなら、体鍛えなさい。毎日散歩して、足腰から鍛錬するのよ。あんたは陸人なんだから。陸人なだけにね、歩く(ありく)といいですよ〜。な〜んてね!」ゲハゲハゲハゲハ。奥さんがまた大きな声をあげて笑った。それにつられて少年も一緒に笑った。ムーはその2人の会話を聞いて、自分も面白さを分かち合えればなと、口惜しさを感じながら見つめるのだった。

その日の夜。ムーは決心したことを実行に移した。自分を産んでくれた両親を探す旅に出る事にしたのだ。ムーはピアノしか弾けないか弱い猫だった。段ボールの中にいた頃と同じく、野生に放り出されたら生き抜いていく自信はない。けれども、空き地には相棒のピアノがある。そこに行けばピアノを弾いて自分を鼓舞することができる。両親に会いたい気持ちも抑えることができないのだ。自分がやりたいと思うことを成すためには、どう転んだとて、やはりこの家を出るしかないとムーは悟ったのだ。ムーは夜逃げをするように、家の裏口からこっそりと抜け出した。夜空を見上げると、今宵は半月だったので、半分だけの月がムーの行先を照らしていた。夜風もピューピューと吹き荒んでいて、その風が雲を運んできて、月をあっという間に隠してしまった。ムーは急足で空き地へと向かう。

空き地に着いたら真っ先にピアノに駆け寄った。もう真夜中だった。おそらく日付も変わった頃合いだろう。ムーは銀盤を叩いた。ホロリと綺麗な音色が零れ落ちた。そのままいつもと同じように、子犬のワルツを演奏した。楽しいメロディーが空き地を覆う。空き地の横を車が通り過ぎて、ヘッドライトの光が一瞬だけムーの周りを明るく照らした。するといつの間にか、ムーの周りに町内のノラ猫たちが集まっていた。ムーの子犬のワルツの演奏に、すっかり引き込まれているのだ。いつの間にかできているギャラリ緊張しつつ、ムーは全身全霊で音を奏で続けた。演奏が終わると、割れんばかりの拍手が沸き起こった。「ムーよ!どうしてこんな夜中に出てきて、ピアノなんか弾いてるんだ?」1匹の猫がムーに尋ねた。ムーはその猫に事情を説明した。「そういう事ならば、早くに言ってくれよ。みんなで一緒に探した方がいいに決まってるだろう。」なあみんなそうだろう?問いかけた猫に反応して、他の猫たちもニャーと鳴いて同意した。夜明けが近い空き地に、突如として猫たちが一致団結した。よし!これからムーの両親を探しに行こう。空き地中に猫が集まっていた。本当に数が多く、ざっと見渡して50から60匹はいそうだったが、ムーは正確な数を把握できずにいた。けれども、ムーの両親を探しにいくというその目的の元、一つに団結した仲間を本当に心強く感じていた。

おい。ムー、ちょっと待てよ。呼ばれてムーは振り返った。そこにはギルの姿があった。「気をつけて行ってこいよ。さっきの演奏は俺が聴きたかった音に違いない。聞かせてくれてありがとう。もう何も助言することはない。」ギルはそう言って、ムーのそばに寄ってきた。そしてムーの頭を覆っている毛に触った。そして、耳の傷にも触れる。ギルは目が見えないから、こうして触れることで色んな感覚を察知する。ムーを包んで保護しているその毛を、毛並みの向きに沿って撫でる。ギルの心は光を感じる事が不幸にもできない。けれどもその触覚を通して、喜び悲しみ、怒り憎しみ、そして苦痛までをもダイレクトに知覚する。時に感じ過ぎてしまうが、その研ぎ澄まされた感性は全てを凌駕している。もちろん本当はこの両方の眼で世界を目で捉え、光に触れてみたいと思っているのだが…

さあ行くぞ!ムーを先頭にして、猫たちは一斉に走り出した。気づいたら夜が明けていて、東の空から太陽が顔を覗かせていた。ムーは猫の一群を率いて、猛ダッシュで町を走り抜ける。道路には早朝から会社に向かう為の車が走り始めていた。ムー達は一心不乱となっていて、横断歩道の全ての信号を無視して、時間のロスを最小限に抑えて目的に向かって真っしぐらに走り続けた。途中で乗用車やトラックがキキーッという悲鳴をあげたが、気にすることもなく只ムー達は足がちぎれて肺が破裂するまで、全力疾走を止めるつもりは無かった。

時刻は12時。一行は神社へと続く参道に着いた。太陽が真上に来ていて、全方位から地上に光を降らせていた。参道の階段をムー達は昇った。上を見上げると、階段の終着点に2匹の猫がチョコンと座っていた。嗚呼、自分が一番に出会いたいと切に願っていた両親に、ようやく出会うことができたのだ。ムーは最後の力を振り絞って、階段の頂上へと駆け上がる。額から汗が滲み出て、ムーの視界をぼんやりと歪ませる。夏の終わりで蝉の声がうるさく、暑さも一入に感じられるそんな時期だった。

終わり。








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