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東大を志すあなたへー東大世界史2020第一問より

こんにちは、ねこです!

昨日に続き、今日も一つ記事を出したいと思います。今回は東大世界史2020第一問です!

こちらも前回の倍以上と、非常に長くなってしまいましたが、問題の解説だけでなく、これから東大を目指す人に向けた抽象的な話もしていますので是非読んでいってくださいね!

なお、この記事も一か月ほど前に書いたものであるため、常体となっております。ご了承ください。

1 はじめに
今年も東大入試の季節がやってきたわけだが、我々文系の人間にとって、東京大学が出題する世界史の大記述問題というものはやはり見逃せないほどの魅力がある。あまりにも洗練されたその問題を見て、毎年世界史の虜になる学生も少なくない。
しかし一方で、その難易度はずば抜けて高い。高校教師をはじめとして、「東大世界史は他の大学の世界史と比べれば結構標準的だ」などと語るものは決して少なくないが、それは赤本や予備校が大々的に公表する解答が、東大教授の求める解答と一致しているのであれば、の話にすぎない。実際、私自身も東大受験をした身であるからよくわかるのだが、赤本や青本に書かれている程度の解答なら何の問題もなく書ける。これは、私に限った話ではなく、合格する東大受験生についても言えるだろう。というよりもむしろ、東大受験生のほうが解答のレベルは基本的に高いのである(入試本番のプレッシャーの中で戦っているにも関わらず、である)。しかし、合格者の点数開示をすると多くが60点中35点から40点に集まっており、高得点をたたき出すものは非常に少ない。
このような事態が起きるのはなぜなのか?答えは簡単である。そう、東大教授の求める解答と、予備校や東大受験生の想定する解答との乖離があまりに大きいからである。もちろん、予備校の先生も懸命に努力されていることはわかっている。しかし、相手は東大教授なのだ。そう簡単に並ぶことのできる集団ではない。

今後、東大を目指す受験生にはまずこのことを意識してほしいと思う。入試は自分の想定を大きく超えるほど優秀な相手との対話なのである。全力で食いついていかなければ振り落とされるだけだ。

これから、東大世界史2020の第一問についての解説を行っていこうと思う。大前提、私の提示する解答が完璧なものではない可能性も十分にある、ということは覚えておいてほしい。だが、実際に東大に受かっている私が他の東大生と協力し、1年間東大教授のもとで、ある意味でスパイとして学んだ経験を踏まえた、他とは全く違う解答・解説をお伝えすることは、価値あることであると確信している。

2 問題の実際と予備校の解答速報
〈問題〉
国際関係には様々な形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また、国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。

薩摩 下関条約 小中華
条約 清仏戦争 朝貢

史料A 史料B 史料C
(ここでは載せないので各自確認してほしい)

では、各予備校が発表した解答速報を見てみよう。

〈S〉
15世紀前後の東アジアでは,貿易を朝貢に限定した明の下,華である中国王朝を君,夷である近隣諸国を臣とする国際秩序の冊封体制 が形成された。高麗に替わった朝鮮王朝,南北朝を合一した室町幕府,中山王が統一した琉球は明の冊封を受け,その権威を支配に利用し,明から独立したベトナムの黎朝も冊封を受けて臣従した。史料Cに示されるように,琉球は朝貢貿易で繁栄したが,後期倭寇の活動などで明の朝貢体制が動揺するなか,17世紀初めに薩摩に征服されると,冊封を離れた日本の江戸幕府との両属関係に移行した。明から清に替わるとベトナムの諸王朝や朝鮮は清の冊封を受けた。しかしベトナムは国内で帝号を用い,朝鮮は清を夷とみなして明の最後の年号を継続し,儒教儀礼を守る(史料A)ことで自らを中華とする小中華の動きが起こり,華夷秩序は再編成された。清がアヘン戦争で敗北すると,対等な国が条約で関係を結ぶ国際秩序の主権国家体制が東アジアにも強要されるようになった。この体制を受容した明治日本は,琉球を沖縄県として編入し,朝鮮にも主権国家体制 に基づく国交を日朝修好条規で強要した。フランスの進出を受けた阮朝は,史料Bのように清との冊封関係を維持したが,清は清仏戦争に敗北し,天津条約で宗主権を失った。清は朝鮮の壬午軍乱や甲申政変に介入することで冊封の維持を図ったが,日清戦争で敗北し下関条約で朝鮮の宗主権も失ったことで,冊封体制は崩壊した。

〈K〉
東アジアの伝統的な冊封体制では,周辺国の朝貢に対し,中国王朝が官爵を与えて冊封した。朝鮮は明の冊封を受け,明を模範に国制を整えた。豊臣秀吉の侵攻の際に明の援軍を受けた朝鮮は,明滅亡後は 自らを中華文明の後継者とする小中華意識を持ち(史料A),海禁政策を採ったが,日本とは通信使を派遣して国交を持った。琉球は,朝貢貿易を軸に日明間の中継貿易で繁栄したが(史料C),ポルトガルの進出で衰え,17 世紀初頭に薩摩に服属した後も明・清への朝貢を続けて両属となる一方,江戸幕府は明・清との国交を結ばなかった。一時,明の支配を受けたベトナムでは,黎朝が自立して明に朝貢した。19 世紀以降,欧米の進出により,東アジアは条約関係に基づく主権国家体制への転換を迫られた。清はアロー戦争後の北京条約で対等外交を強要されたが,周辺国との冊封関係を維持した。日清修好条規で清と対等な国交を樹立した日本は国境画定を進め,台湾出兵を根拠に日清両属だった琉球を領有した。ベトナムでは,阮朝が仏の進出後も清への朝貢を継続したが(史料B),仏がフエ条約で保護国化すると清と対立し,清仏戦争で敗れた清は天津条約で宗主権を放棄,仏はインドシナ連邦を形成した。日本が日朝修好条規で朝鮮を開国させ,清との宗属関係を否定させると,宗主国の清が反発,日清戦争後の下関条約で清が宗主権を放棄し,朝鮮は国号を大韓帝国に改称した。これにより冊封体制が崩壊した。

〈Y〉
15世紀に明は華夷思想に基づく冊封体制を構築し、朝鮮王朝や明から自立したベトナムの黎朝が応じた。特に琉球は史料Cが示すように朝貢貿易を活かした中継貿易で諸地域を結んで繁栄した。16世紀末に日本が壬辰・丁酉倭乱を起こすと宗主国の明は朝鮮を支援した。17世紀前半に勃興した清は、朝鮮王朝を服属させ、明の滅んだ中国も征服した。清も周辺諸国を冊封したが、朝鮮王朝は史料Aにある通り、女真人の清を明の後継と認めず、明の後継を自任して小中華の思想を強めた。同時期に琉球は薩摩藩の征服を受けて日中両属となった。また清は17世紀末にロシアとネルチンスク条約を結び、西洋諸国は互市に位置づけて柔軟な対応も見せた、18世紀末にベトナムが混乱すると清の乾隆帝は遠征軍を送ったが、西山朝に敗れた。西山朝を滅ぼした阮朝真の冊封を受けた一方でカンボジアを服属させ、国内では皇帝を名乗った。19世紀半ばに清はアロー戦争で英仏に敗れて北京条約を結び、近代的な条約に基づく主権国家体制に対応すべく総理各国事務衙門を設置した。19世紀後半には日本が周辺への侵略を開始し、沖縄県を設置して琉球を併合し、さらに日清戦争で清を破って下関条約で朝鮮を独立国と規定した。阮朝はフランスの侵略を受けても史料Bにあるように清朝への朝貢を続けたが、清仏戦争により清朝は宗主権を否定され、フランスが保護国化した。これらの結果、清朝は冊封国を失い、冊封体制が崩壊した。

これらが大手予備校の解答速報になる。
これらを見てあなたはどのような感想を持っただろうか。
確かに、問題の要求は東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容を具体的(朝鮮とベトナムの事例中心)に記述せよ、というものであるから、それにきちんと答えているように見える。
その一方で、具体例がただごちゃごちゃ書かれているだけで文章のつながりが汚いな、そう思いもしなかっただろうか。これらの解答はどれも抽象的な歴史の流れが書かれておらず、分かりにくいことこの上ないものになっているように思う。もちろん、抽象的な話はある程度リード文に書かれているが、それだけで抽象は十分であるなどとは一言も言っていない。それを意識せずに、「具体的に」という部分を過剰に反映させた文章を書けば、汚いものになるのは当たり前だ。
あくまで個人的にではあるが、こんな解答で点数が来るとは到底思えない。
もし、こんな解答で点数を与える程度の大学なら行かない方がマシだ。
予備校の解答の細かい分析は時間の無駄なので行わない。
本章で覚えておいてほしいのは、「予備校の出す解答の質は大して高くない」ということだけである。


3 解説・解答を作成する上で意識したこと
もちろん、予備校と同じように具体例多めで解答を作成しても良いのだが、それだとここに書く意味がそれほどないので、今回は予備校とは少し違った解答を作ってみようと思う。解説・解答作成する上で意識したのは以下の点である(裏を返せば、予備校の解答ができていない点ということ)。
〈1〉具体はあくまで抽象の流れの中で用いるということ。
〈2〉東大教授にとっての「具体的に」の解釈。
〈3〉東アジアは、中国だけでなく、日本も含むということ。
〈4〉歴史は連続であるということ。
〈5〉問題要求に直接こたえる内容であるか、そうでないか、をきちんと分けること。
〈6〉教科書に書かれている記述を中心に抜き出すということ。
〈7〉解答ありきではなく、解答プロセスを重視すること。
(1.2は1年間東大教授のもとで学んだ経験から導き出したものである。)
それぞれ軽く説明する。


1に関して
すでに述べたが、具体ばかり書いていると文章がおかしくなる。そうならないためには、具体をできる限り単独で書くことなく、抽象とのつながりの中で書けばよいのである。
ここではあまりイメージできない方もいらっしゃるだろうから、また問題解説で触れることにする。なお、ここで言う抽象は、基本的に、東アジアの国際関係に関する歴史の流れのことだと捉えていただいて構わない。

2に関して
どういうことかと言うと、東大教授にとっての「具体的に」とは、普通の人が想像するほど具体的ではないという事である。私の経験上だが、彼らは基本的に抽象で歴史を語ることが多く、具体は抽象を象徴するものとして軽く語るだけだったし、そこまで重要視しているようには見えなかった(あくまで私の視点)。つまり、彼らの言う「具体的に」とは、言い換えれば、「抽象だけで記述しないで」という意味を持っている可能性があるのである(600字という短い字数だと書きたい具体をあまり書けないのも事実)。よって、私が今回作成する答案は、「具体的に」を「抽象だけで記述しないで」と言い換えた上で作成する。もっと言うと、今回私が作成した解答で朝鮮とベトナムの具体的事例に触れるのは、指定語句と史料の話においてのみである。
ゆえに、彼らの言う「具体的に」がこういう意味でなければ、私の解答はおそらく正答とかなりかけ離れたものになってしまい、点数が全く来ないものとなってしまうことはご承知おきいただきたい。ちなみに、各予備校の解答や講評を見ていると、琉球や日本(薩摩という指定語句の存在)も具体に位置付けているが、なんともおかしな話である。なぜこの問題において、朝鮮とベトナムだけが例の対象に指定されているのか、そして、日本と琉球に関する指定語句、史料をどのように使うべきなのかが分かっていればこんなこと口が裂けても言えない。

3に関して
今回のようなリード文のもとで、東アジアの伝統的な国際関係、と言われてしまうとどうしても中国のみを中心に思い浮かべてしまいやすい。もちろん、問題文に「伝統的」とある以上、中国が中心になるのは間違いない。しかし、東アジアにはもう一つ見逃せない大国がある。それこそが我が国日本である。特に、日本の近代における動きは見逃せない(予備校の解答は日本を軽視したり、書き方がただただ具体的でおかしかったりするが)。そんなの気づかないよ、と思われるかもしれないが、実は「日本を見逃さないでくれよ」と気づかせてくれる指定語句、キーワードがきちんと存在している。詳しい話は後ほどに。

4に関して
これは今回に限らず、東大世界史の第一問で重要となってくる視点である。歴史は基本的に途切れることがなく、ずっと続く。15世紀から19世紀と指定されてはいるが、それより前の歴史は存在しないのか?この時期の歴史が後の歴史に影響することはないのか?そんなはずはない。もちろん、メインの記述は15世紀から19世紀に関するものだが、この時期の前後の歴史に関しても軽く言及することにした。

5に関して
リード文、問題文、指定語句、史料などから導き出される記述は大きく分けて2種類ある。問題要求に直接こたえる内容か、そうでないかである。今回解説・解答を作成するにあたって、導き出された記述がこれらのどちらにあたるかということ、そして、後者に該当した場合、前者を補強する形や、前者の流れに位置づける形でその記述を用いるということを意識した。

6に関して
これは、今後東大を目指す学生に向けて、学習の方向性を提示したく、意識したポイントである。世界史の勉強は基本的に教科書だけで良い。もちろん一冊だけではなく、何冊も用意して見比べ、それぞれを理解しながら覚えていく必要はあるのだが、そうすれば市販の参考書など触らなくても東大世界史には十分対応できる。そういう視点で話をしていこうと思っている。最後に私の解答の教科書該当箇所をまとめているので、参照してほしい。

7に関して
これも、今後東大を目指す学生に向けて、学習の方向性を提示したいと思って意識したポイントである。私もかつて東大受験生だったこともあってよくわかるのであるが、世間の解説はどれも解答ありきである。解答を見たところで、自分がどうやって解答にたどり着くことができるのかをきちんと理解し、実践できるようにならなければ意味がない。これをふまえ、今回は、問題文や指定語句から考えて自然と解答にたどり着くためのプロセスも提示したのでぜひ見てみてほしい。

4 解説
では、解説を始めていこう。(なお、すでに問題文、指定語句、史料には目を通し、どういうことを書いているかある程度理解していることを前提とする。)

まず、問題文の要求から大まかな解答の構造を考えてみる。
東アジアの伝統的な国際関係といえば、冊封朝貢体制のことであろう。そして、近代になって変容したというのは、19世紀以降西洋などの影響が強まって最後には冊封朝貢体制が終わり、東アジアが完全に、条約に基づく主権国家体制になったということである。これが大枠だ。ここは基本なので解説なしにわかってほしいところである。ちなみに、リード文の最初には「国際関係は~国内支配とも密接な関わりを持っている」と書いており、これを解答で説明する必要があると考えても良いのだが、ほとんどリード文に書いているのでそこまで過剰に意識しなくて良いように思う(「以上のことを踏まえて」という部分の解釈は非常に難しい問題である)。


では時期をベースにもう少し深く考えてみよう。すべて以下のプロセスで行っている。
《①問題文、指定語句、史料を分析→②教科書の記述を思い出す→③残りの問題文、指定語句、史料などと合わせて解答の方向性が正しいことを確認、確信する。》
[1]15世紀以前と明代以降
まず、指定されている時期のはじめである15世紀よりも前の話だが、冊封朝貢体制はすでに存在していた(ゆえに、伝統的であると言えるわけだが)。したがって、河合塾のように、「15世紀になり、冊封朝貢体制が生まれた」と書いてはいけない。
しかし一方で、出題者はなぜ15世紀から記述を開始させようとしているのか、ということもこの要求から考えなければならない。いったいなぜだろうか?
それは、15世紀頃が境目にあたるから、言い換えれば、15世紀頃の体制と、それ以前の体制とが異なるからであろう。
これをふまえ、教科書中のこの時期について記述した部分を確認してみよう。

明が成立すると、洪武帝は倭寇を力で抑え込む方針を取り、沿海部の治安を維持するために民間の海上交易そのものを禁止し(海禁)、対外関係を国家間の朝貢・冊封関係に限定するという、きびしい対外関係管理体制をしいた。(帝国書院p119)

きびしい海禁政策で、明への直接渡航には渡航制限が多かったので、15世紀には、アジア海域の各地で中国物産を手に入れるための中継貿易拠点が反映した。15世紀前半、中山王家によって統一された琉球は~中継貿易の拠点として繁栄した。(帝国書院p120)

ここからもわかるように、15世紀あたりの明代では東アジアの国際関係が冊封朝貢体制によるものに限定されたのである。また、民間貿易を禁止して、といった趣旨の表現があることから、15世紀よりも前は朝貢貿易と民間貿易の両方が国際関係を作り出していた、ということも読み取れる。15世紀から書け、と問題で言われているから当然1つ目の話は書かなければならない。では、15世紀よりも前のことを指す2つ目の話は解答に必要ないのだろうか?
答えはNoである。その理由は2つほどで、1つ目は歴史が連続であるから、2つ目は、15世紀に変化が起きているからである。
1つ目はすでに話したので、ここでは2つ目に関して話す。
先ほども触れたように明は15世紀に民間貿易を禁止して冊封朝貢関係に限定したわけであるが、これは簡単に言えば、明代に東アジアの国際関係が変化した、ということである。ここで記述の基本を思い出してほしい。変化とは、すなわち「AからBに変わる」ということであるから、必ずAとBセットで記述しなければならない。どちらか一方しか記述がなければ変化の説明になっておらず、明らかに不自然だ。
これは当然今回の問題でもあてはまる。どういうことかというと、15世紀よりも前の東アジアの状態があって、それが変化した結果、15世紀頃の東アジアの状態になったということである。
以上より、解答にはこれら2つの要素が必要であることがわかる。
(ここで、問題文の要求が東アジアの国際関係であるゆえ、これら2つの要素が問題要求に直接こたえる抽象的な内容であるということは頭に入れておこう。)

次に考えるべきは史料Cである。なお、事前の確認から、明代に琉球が中継貿易で繁栄したことを示す史料であり、明代に関するところで使用するのだと分かっていることが前提である。

ではもう一度、先ほど帝国書院から引用したかたまりの、下のほうを見てほしい。ここには、琉球が15世紀あたりに中継貿易で栄えたことが書かれている。まさに、史料Cと同じで内容である。
だが、この発見に喜んでとびついて「この時代に、琉球は中継貿易で栄えた(史料C)」などと書いてしまっては予備校の解答と同じになってしまう。もちろん間違ってはいないのだが、ベストではない。というのも、メインの要求からずれてしまうからである。メインの要求は何度も言うように、東アジアの国際関係、であって、琉球が栄えたこと自体とは直接的には関係がない。当然この内容は解答に必要だが、使う時にはできる限り抽象の流れ、問題要求に直接こたえる内容の中に綺麗に位置づけて記述したいのである。

先ほどの教科書の文の中に、琉球を東アジアの国際関係とつなぐ綺麗な表現は見当たらないだろうか?きちんと書かれている。以下の部分だ。

きびしい海禁政策で、明への直接渡航には渡航制限が多かったので(帝国書院p120)

つまり、明が民間貿易を禁じ、冊封朝貢体制に限定した結果として琉球が中継貿易で繁栄したということだ。明が民間貿易を禁じ、冊封朝貢体制に限定した、ということは先ほども言ったように、問題要求に直接こたえる抽象的な内容である。この部分から、琉球が繁栄したことと、明が変えた国際関係との関係を読み取ることができる。
私自身がどう書いたかは最後に載せるので、各自考えてみてほしい。

【解答プロセス】
① 15世紀から記述を開始させようとした出題者の意図と、史料Cを読解する。
② 帝国書院p119、p120あたりの内容を思い出す。
③ 問題要求(東アジアの国際関係)に直接的にこたえる内容であるか、そうでないかを判断し、後者にあたる琉球を説明した史料Cはあくまで前者のサポートとして位置付ける。


[2]明から清となって
先ほどの解説からもわかるように、今回の問題は明から記述が始まるわけであるから、東アジアの国際関係を考える上で、明から清への王朝の変化は見逃せない。
難しければ、「最初に明の話をしたんだから、清に王朝が変わった後も東アジアの国際関係変わったんじゃね?」と単純に考えてもらっても問題ない。

では、実際どうなったのだろうか?清に王朝が変わったあたりの章で書かれた東アジアの国際関係に関する話を教科書で確認しよう。

清は民間商船の出航と外国商船の来航を認めて各貿易港の税関に管理させ、以後このような互市貿易が政治的な朝貢貿易にかわって主流になった。互市はヨーロッパ商船にも認められ~(帝国書院p126)

一方で、清と外交関係をもとうとする場合は伝統的な朝貢の手続きによらなければならなかったため、~これをきらった日本は政治的な関係をもたないまま、長崎に来航する中国商人と民間貿易を行った。(帝国書院p126.127)

こうして幕府は四つの窓口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して異国・異民族との交流をもった。明清交替を契機に、東アジアにおいては、伝統的な中国を中心にした冊封体制と日本を中心にした四つの窓口を通した外交秩序が共存する状態となった。
(山川詳説日本史p183)

上記の内容を読めば大体何を書けば良いかおそらくわかっていただけると思う。
重要なポイントは2つで、1つ目は、西洋が次第に交易に参入し始め、互市貿易が朝貢貿易にかわって主流となったこと。2つ目は冊封朝貢体制と日本中心の外交秩序が共存するようになったということである。これらは言うまでもなく「東アジアの国際関係」という問題の要求に直接的にこたえるものであるから、この2つをメインに書けばよい。「冊封朝貢体制と日本中心の外交秩序が共存する」という記述の前に窓口の説明があるが、ちょうどそこに指定語句の一つである薩摩が入っているから、これで解答の方向性・内容が正しいことを確認できる。
ただし、注意してほしいことがある。ここまで、問題の要求は「東アジアの国際関係」であると言ってきたが、よく見ると、「伝統的な国際関係」と書いてあることがわかる。したがって、本問の記述におけるメインテーマ、すなわち主語は冊封朝貢体制でなければならないのである。よって、
伝統的な中国を中心にした冊封体制と日本を中心にした四つの窓口を通した外交秩序が共存する状態となった。
という冊封朝貢体制と日本の外交秩序が並列となった表現は少し工夫する形で、「日本中心の外交秩序と共存する形で冊封朝貢体制は~」と書く必要がある。

【解答プロセス】
① 明をすでに記述したことから、清に王朝がかわった時も同様に国際関係の境目なのではないか、と推測する。
② 教科書の該当箇所を思い出す。
③ 思い出した「冊封朝貢体制と日本中心の外交秩序が共存した」という話における日本の窓口の1つが薩摩であることから、出題者はこの内容を書かせるために薩摩を指定語句に設定したのではないかと推測すると同時に、自分の解答の方向が正しいことを確認する。
④ メインが東アジアの伝統的な国際関係であることから、書き方を工夫する。

[3]忘れがちな間の時期
最初に基本知識として述べたように、東アジアの国際関係は19世紀に入ると、力をつけた西洋のもとで変容していくわけであるが、[2]で述べた清代初期から19世紀までの間、東アジアの国際関係はどうなったのであろうか。
何度も言うように歴史は連続なのであるから、記述する内容が盛りだくさんの時期だけ書いて、その間における国際関係がどうであったのかをきちんと書かなければ不自然である。
これを踏まえて、以下の内容を思い出したい。

明を引き継いだ清は空前の大帝国となり、18世紀前半には、世界の総生産の半ば近くを占めていたと推定されている。明と清を軸とした国際秩序のもとで、東アジア諸国は、比較的安定した社会を維持した。17世紀から、西洋諸国を中心とする世界の一体化がすすんでいったと思われがちであるが、実際には、西欧以外のユーラシア諸帝国は協力で、~西欧諸国の~貿易会社は、これらの帝国の許可を得て交易を行っていたのである。
(東京書籍p215)

18世紀にいたるまで、アジア諸帝国の富と力はヨーロッパ諸国を上回っていた。
(山川詳説p302)

要は、東アジアの国際関係は西洋によって変容させられることはなく基本的に[2]の形のまま維持されたということである。このニュアンスは解答に含めたい。
ところで、清代の話をここまでしてきたわけだが、指定語句や史料の中に清代に関わるものはないだろうか?
ある。史料Aと小中華である。
小中華に関して、山川詳説世界史は以下のように書いている。

「夷狄」の風俗をまもる清朝に対する朝鮮両班の対抗意識は強く、朝鮮こそ明を継ぐ正当な中国文化の継承者であるという「小中華」の意識から~(山川詳説p190)

ここから、小中華という指定語句は、問題要求に直接こたえる内容として用いるわけではない、ということが分かる。小中華と、東アジアの国際関係はさすがに違うであろう。

本当なら、冊封朝貢体制の性質に関する抽象的な内容を書き、小中華思想はそれを象徴するものである、という記述をしたいところなのだが、冊封朝貢体制の性質に関する抽象的内容はすでにリード文に書かれてしまっている(4~7行目)ため、解答でこのように記述することは適切ではない。

だが、なんとしてでも、小中華という指定語句も問題要求に直接こたえる内容とつなげて書きたい。
上記の小中華の説明を見ると、小中華はある程度清と対立する面を持っていることが分かる。もちろん、先ほど解説したように、清代初期に完成した東アジアの国際関係は19世紀に入るまで基本的に維持されたわけであるが、明代の冊封朝貢体制とは異なる形になった面があるのも事実であるということだ。ここをうまくつなげば、小中華という指定語句を問題要求に直接こたえる内容とつなげて使用することができる。
ただし、小中華思想が育ったということは具体であり、清代と明代の冊封朝貢体制の違いは小中華思想が育ったかどうかだけなのか、と言われればそうではないので、「小中華思想が育つなど~」と記述することによってこのニュアンスも入れたい。

以上より、「~冊封朝貢体制は維持された。一方で、夷狄性を内在する清に対して自国こそが中華王朝であるという小中華思想がベトナムや朝鮮(史料A)で育つなど、再編された面があったのも事実である。」とでも書けば良いだろう。
(ベトナムも問題要求で扱うよう言われているので朝鮮と並列で載せた。ベトナムで小中華が育っていたことに関しては、帝国書院p74、実教出版p173)

〈解答プロセス〉
① 清代初期から19世紀までの間、東アジアの国際関係はどうなったのであろうか、という問いのもと、教科書の内容を思い出す。
② 小中華という指定語句から教科書の内容を思い出し、清代の冊封朝貢体制に再編された面があることの例として用いる。


[4]19世紀以降
いよいよ、力をつけた西洋のもとで東アジアの国際関係が変容していくことになる。これはどの教科書でも書いてあることであるし、基本なのであまり解説はしない。

先に言っておくが、冊封朝貢体制が崩壊したのは、清朝がアヘン戦争、アロー戦争に負けて不平等条約を結ばされ、衰退し始めたからではない。冊封朝貢国が列強に支配されて冊封朝貢国の数が減ったからである。これを意識できている学生はそうそう多くないように思う。教科書にも以下のように書かれている。

(19世紀半ばの話)これらの条約はのちに不平等条約とよばれるようになるが、当時はそうした不平等性は強く意識されず、周辺諸国との冊封・朝貢関係はそのまま存続した。(東京書籍p333)

(日清戦争に負けた段階で)清は朝鮮を独立国と認め、ここに朝貢・冊封にもとづく国際関係は消滅し、清も条約にもとづく西洋的な国際関係へと完全に移行することとなった。(実教出版p322)

19世紀の東アジアの国際関係を語るうえで、上記の2つの要素は外せないものであるので、しっかり覚えておこう。
では指定語句と史料で確認してみよう。
まず、史料Bであるが、これはまさに上記の1つ目の具体例であると言えよう。ただし、何度も言うように具体なので抽象ときちんと結び付けて使うように。詳しくは私の解答を見てほしい。

次に条約という指定語句であるが、指定語句に非常に具体的な下関条約という言葉があることから、ここでの条約という言葉は抽象として用いるものであると推測できよう。ちょうど実教出版p322に条約という言葉が使われているので、解答でも同様の形で使用すれば良いだろう。

そして、清仏戦争であるが、これは清朝がベトナムの宗主権を失うきっかけとなる、フランスとの戦争を指す具体的な言葉である。(おそらく、問題要求でベトナムの事例について書けと言っているのは、フランスを西洋の中の具体であると位置づけた記述をさせたいからであろう。)
そこまで深く考える必要はなく、冊封朝貢国の数が減った、という内容につながる具体として用いれば良いだろう。

最後に下関条約であるが、これがなかなか厄介で、最初に言った「日本を忘れないでくれよ」というメッセージが込められた言葉だ。
下関条約を結んだのはどことどこの国であろうか?
そう、清朝と日本である。ご存じの通り、日清戦争に負けた清朝は、この条約によって、日本に朝鮮を独立国であると認めさせられることになる。
これは言い換えれば、日本が東アジアの伝統的な国際関係を崩壊させた、ということである。西洋ではなく、東アジアの一国である日本が当事者として、である。
だが一方で、明代には冊封朝貢体制下にあり、清代初期には日本を中心とした外交秩序と冊封朝貢体制は共存していて、しかもそれが継続していたのではなかったか?その日本がどうして、いつ、冊封朝貢体制を破壊する側に回ったのか?

このままでは上記のような矛盾が起きてしまうのである。それではいけない。
この矛盾を解決するためには、日本がどこかのタイミングで冊封朝貢体制を破壊する側、つまり、西洋側に移行した、という内容を書かなければならないのである。

先ほど、清朝は西洋との条約における不平等性を意識していなかった、と書いたが、日本はどうであっただろうか?明治政府は早くから不平等性を意識して条約問題の解決に尽力し、いち早く文明国へと移行してはいなかったか?
中学歴史でも学ぶこの内容が、この問題を解く上で最後に必要となる要素なのである。

下関条約という単語見て、朝鮮が冊封朝貢体制から離れたことを書けば良い、ということは誰でも分かる。それは書けて当たり前だ。それだけでなく、下関条約という指定語句にはもっと深い意味が込められているのである。(朝鮮を問題要求に含めたのは、日本のことを記述してほしいと思ったからなのかもしれない。)

〈解答プロセス〉
① 東アジアの国際関係における、近代の変容という問題要求から、教科書に書かれた2つの要素を思い出す。
② 指定語句(下関条約を除く)、史料を中心に確認し、それら抽象なのか、具体なのかを考え、もし具体なら抽象の流れの中で使うようにする。
③ 下関条約をただ使うだけでは流れがつながらず、矛盾が起きると気づいて日本の例外性を解答に含める必要があると判断する。


[5]歴史は現代へ
歴史は連続であるということを意識し、今回の記述を現代に結び付ける形で文章を締めた。詳しくは、実際の解答を見てほしい。ただし、問題要求の範囲に現代は含まれていないので、無視してくれてよい。(カッコつけたかっただけニャン・・・)

〈解答〉

東アジアの国際関係は元来、民間交易に加え、中華王朝の華夷思想を基盤とする冊封朝貢体制によって説明されるものであったが、15世紀の明代で関係は後者に厳しく限定された。朝貢国の琉球が明の物産を求める国々と明との中継貿易拠点として繁栄したのはその象徴である(史料C)。王朝が清になり、海禁が解かれると、西洋が次第に海域東アジア交易に本格的に参入し始め、互市貿易が主流となりはするが、薩摩などを窓口とする日本中心の外交秩序と共存する形で冊封朝貢体制は維持された。一方で夷狄性を内在する清に対して自国こそが中華王朝であるとする小中華思想がベトナムや朝鮮(史料A)で育つなど再編された面があったのも事実である。19世紀以降、さらなる自由貿易を求める西洋のもとで条約に基づく主権国家体制が持ち込まれ、冊封朝貢体制から距離のあった日本は西洋との条約的関係の不平等性を意識して例外的にいち早くその体制に移行したが、清朝には不平等性が意識されず、史料Bのように冊封朝貢体制はなお存続した。しかし、清仏戦争の敗北や下関条約などを機にベトナム、朝鮮などが冊封朝貢国から離れ、その数が減少した結果、この体制は崩壊し、19世紀末には主権国家体制に完全に覆われる。こうして中華王朝を核とした伝統的な国際秩序は西洋と日本によって塗り替えられたわけだが、このような歴史が覇権国家を目指す現代中国の原動力につながっている点は見逃せない。

〈教科書該当箇所〉
・東アジアの国際関係は元来、民間交易に加え、中華王朝の華夷思想を基盤とする冊封朝貢体制によって説明されるものであった (帝国書院p119など)
・15世紀の明代で関係は後者に厳しく限定された。(帝国書院p119)
・朝貢国の琉球が明の物産を求める国々と明との中継貿易拠点として繁栄したのはその象徴である(史料C)。(帝国書院p120)
・王朝が清になり、海禁が解かれると、西洋が次第に海域東アジア交易に本格的に参入し始め、互市貿易が主流となりはするが(帝国書院p126)
・薩摩などを窓口とする日本中心の外交秩序と共存する形で冊封朝貢体制は維持された。(山川詳説日本史p183)
・一方で夷狄性を内在する清に対して自国こそが中華王朝であるとする小中華思想がベトナムや朝鮮(史料A)で育つ(山川詳説p190、帝国書院p74)
・冊封朝貢体制から距離のあった日本は西洋との条約的関係の不平等性を意識して例外的にいち早くその体制に移行したが、清朝には不平等性が意識されず、史料Bのように冊封朝貢体制はなお存続した。(中学歴史、東京書籍p333)
・しかし、清仏戦争の敗北や下関条約などを機にベトナム、朝鮮などが冊封朝貢国から離れ、その数が減少した結果、この体制は崩壊し、19世紀末には東アジアは主権国家体制に完全に覆われる。(東京書籍p336.337.338、実教出版p322)
・こうして中華王朝を核とした伝統的な国際秩序は西洋と日本によって塗り替えられたわけだが、このような歴史が覇権国家を目指す現代中国の原動力につながっている点は見逃せない。(まとめ&オリジナル―『China2049』などより)

せっかくなのでもう一度予備校の解答を載せる。ぜひ比較してみてほしい。

〈S〉
15世紀前後の東アジアでは,貿易を朝貢に限定した明の下,華である中国王朝を君,夷である近隣諸国を臣とする国際秩序の冊封体制 が形成された。高麗に替わった朝鮮王朝,南北朝を合一した室町幕府,中山王が統一した琉球は明の冊封を受け,その権威を支配に利用し,明から独立したベトナムの黎朝も冊封を受けて臣従した。史料Cに示されるように,琉球は朝貢貿易で繁栄したが,後期倭寇の活動などで明の朝貢体制が動揺するなか,17世紀初めに薩摩に征服されると,冊封を離れた日本の江戸幕府との両属関係に移行した。明から清に替わるとベトナムの諸王朝や朝鮮は清の冊封を受けた。しかしベトナムは国内で帝号を用い,朝鮮は清を夷とみなして明の最後の年号を継続し,儒教儀礼を守る(史料A)ことで自らを中華とする小中華の動きが起こり,華夷秩序は再編成された。清がアヘン戦争で敗北すると,対等な国が条約で関係を結ぶ国際秩序の主権国家体制が東アジアにも強要されるようになった。この体制を受容した明治日本は,琉球を沖縄県として編入し,朝鮮にも主権国家体制 に基づく国交を日朝修好条規で強要した。フランスの進出を受けた阮朝は,史料Bのように清との冊封関係を維持したが,清は清仏戦争に敗北し,天津条約で宗主権を失った。清は朝鮮の壬午軍乱や甲申政変に介入することで冊封の維持を図ったが,日清戦争で敗北し下関条約で朝鮮の宗主権も失ったことで,冊封体制は崩壊した。

〈K〉
東アジアの伝統的な冊封体制では,周辺国の朝貢に対し,中国王朝が官爵を与えて冊封した。朝鮮は明の冊封を受け,明を模範に国制を整えた。豊臣秀吉の侵攻の際に明の援軍を受けた朝鮮は,明滅亡後は 自らを中華文明の後継者とする小中華意識を持ち(史料A),海禁政策を採ったが,日本とは通信使を派遣して国交を持った。琉球は,朝貢貿易を軸に日明間の中継貿易で繁栄したが(史料C),ポルトガルの進出で衰え,17 世紀初頭に薩摩に服属した後も明・清への朝貢を続けて両属となる一方,江戸幕府は明・清との国交を結ばなかった。一時,明の支配を受けたベトナムでは,黎朝が自立して明に朝貢した。19 世紀以降,欧米の進出により,東アジアは条約関係に基づく主権国家体制への転換を迫られた。清はアロー戦争後の北京条約で対等外交を強要されたが,周辺国との冊封関係を維持した。日清修好条規で清と対等な国交を樹立した日本は国境画定を進め,台湾出兵を根拠に日清両属だった琉球を領有した。ベトナムでは,阮朝が仏の進出後も清への朝貢を継続したが(史料B),仏がフエ条約で保護国化すると清と対立し,清仏戦争で敗れた清は天津条約で宗主権を放棄,仏はインドシナ連邦を形成した。日本が日朝修好条規で朝鮮を開国させ,清との宗属関係を否定させると,宗主国の清が反発,日清戦争後の下関条約で清が宗主権を放棄し,朝鮮は国号を大韓帝国に改称した。これにより冊封体制が崩壊した。

〈Y〉
15世紀に明は華夷思想に基づく冊封体制を構築し、朝鮮王朝や明から自立したベトナムの黎朝が応じた。特に琉球は史料Cが示すように朝貢貿易を活かした中継貿易で諸地域を結んで繁栄した。16世紀末に日本が壬辰・丁酉倭乱を起こすと宗主国の明は朝鮮を支援した。17世紀前半に勃興した清は、朝鮮王朝を服属させ、明の滅んだ中国も征服した。清も周辺諸国を冊封したが、朝鮮王朝は史料Aにある通り、女真人の清を明の後継と認めず、明の後継を自任して小中華の思想を強めた。同時期に琉球は薩摩藩の征服を受けて日中両属となった。また清は17世紀末にロシアとネルチンスク条約を結び、西洋諸国は互市に位置づけて柔軟な対応も見せた、18世紀末にベトナムが混乱すると清の乾隆帝は遠征軍を送ったが、西山朝に敗れた。西山朝を滅ぼした阮朝真の冊封を受けた一方でカンボジアを服属させ、国内では皇帝を名乗った。19世紀半ばに清はアロー戦争で英仏に敗れて北京条約を結び、近代的な条約に基づく主権国家体制に対応すべく総理各国事務衙門を設置した。19世紀後半には日本が周辺への侵略を開始し、沖縄県を設置して琉球を併合し、さらに日清戦争で清を破って下関条約で朝鮮を独立国と規定した。阮朝はフランスの侵略を受けても史料Bにあるように清朝への朝貢を続けたが、清仏戦争により清朝は宗主権を否定され、フランスが保護国化した。これらの結果、清朝は冊封国を失い、冊封体制が崩壊した。


5 東大を志すあなたへ
ここまで東大世界史2020年第一問の解説を行ってきたわけだが、正直言って、今回の問題そのものに関する具体的なことはどうだってよい。もっと大切なことがあるのだ。
それに関して私からまとめてお話ししたい。
① 東大を受けるということ
これは1章で述べた内容であるが、東大を受ける方には、相手が東大教授であるということを常に意識してほしいと思っている。もちろん東大教授全員が超優秀であると断定することはできないが、間違いなく入試に関わっている先生方は非常に優秀である。入試を見ればわかる。過度に一般化したくはないが、学校の先生方や予備校の先生方とは次元が違うと言っても過言ではない。東大を受ける、ということはそのような人間に解答を見られ、採点されるということである。どうかそのことを忘れることなく、不断の向上心の下、常に上のレベルを目指し続けてほしい。

② 予備校などの公表する解答との向き合い方
これは2章で述べた内容になる。世界史に限らず文系科目全般で、予備校が大々的に公表する解答は質がそれほどく高くない。だから、「それらの解答が東大教授の求める解答と同じもので、それらのような解答を書ければ東大に絶対に受かる」というとらえ方だけはしないでほしい。そうではなく、東大を志すような学生には「ふーん、この解答はこういう風に考えて作成されたようだな。でもこの部分は違うから私はこういう解答を作成したぜ」といった感じで、一段上に立って予備校の出す解答と向き合ってほしいと思っている。もちろん、私が今回お見せした解答にも、である。

③ 世界史の勉強の方向性
ここでは、今回の解説から知ってほしい東大世界史の攻略法についてまとめる。大前提、勉強法というものは人それぞれ異なるわけで、私が伝える方法論は私にのみ最適化されたものにすぎない。ゆえに、私の言うことすべてを聞く必要は全くなく、良いと思った点だけ取り入れていただければそれで問題ない。

先ほどもお伝えしたように、どの部分も簡単に言えば「東大世界史の一般的傾向を踏まえたうえで、問題分析し、出題者の意図などを推測する→教科書の記述を思い出す→指定語句などと合わせて解答の方向性が正しいことを確認する」というプロセスで解けている。東大世界史は基本的にこのプロセスで攻略できるのだ。
そして、このプロセスの中で、受験前にできることはたった2つしかない。


1つが、過去問を解いて思考プロセスの確認を行い、さらに、東大世界史の一般的傾向を推定すること。これはおそらく程度の差はあれ誰もが通る道であろうから特には触れない。
そしてもう1つが、思い出す教科書の内容を量・質ともに充実させるということ。これを実現するためには何をすれば良いのだろうか?答えは「複数の教科書を用意し、それぞれを比較しながら確認して記述に仕えそうな部分をかたまりで徹底的に覚える」ということである。

おそらく中には「なぜ教科書の内容である必要があるのか?別に参考書を複数用意してそれを頭に入れても良いではないか?」と思われた方もいらっしゃるだろう。
この問いに、私なりに答えたい。

東大の入試問題を作成しているのは誰であろうか?言うまでもなく、東大教授である。
では、東大入試の採点をしているのは?これもおそらく東大教授である。ということは、受験生が解答に書く内容はできる限り教授の言語レベル、内容レベルに近い方が良い、ということになる。自分たちに近いレベルで「対話」できる受験生と、自分たちとはかけ離れたレベルでしか「対話」できない受験生がいた場合、前者のほうが高い評価を得る可能性が高いのは言うまでもないことであろう。

話変わって、次はこんな質問をしたい。
学生が入手できる、かつ、高校までのレベルに留まった書籍の中で、大学教授が書いているものは何だろうか?

答えは一つしかない。そう、教科書である。教科書の最後のほうのページを見てもらえれば分かると思うが、教科書を書いているのは大学の教授たちである。つまり教科書は、大学教授の考えていることが、彼らの言語レベル・内容レベルをある程度維持した形でまとめられている書籍なのである。

以上の理由から、世界史を勉強する際には教科書を使うのが良いと考えている。
ただし、教授の考えている内容そのものと同時に、それを表現する言語レベルも維持したいので、何となくではなくそのまま覚えることが重要である。それを受験でアウトプットすることで初めて、教授たちと近いレベルで「対話」できるようになっているのだから。