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終わりがない道(東海道を歩く22)

 昨晩に泊まったビジネスホテルは、サービスを簡素にするのは良いけど、それがみすぼらしさを感じさせてしまっていて、少し外れだったなと思いました。微妙な違いですが、重要であることと簡素にして構わないことの線引きがおかしかったのでしょう。さっさと出発します。草津の市街地は中山道と東海道の合流する宿場町が発展したものです。前回は、賑やかで華やかで途切れなく人が行き交っている草津の街道筋だったのですが、どうも五年前に比べると寂れたかなという印象を受けました。これから行われる街道まつりのチラシが貼り出され、旧本陣の建物や旧い建物の残る街道筋なのに、隣では景観や町並みを台無しにする高層マンションの工事が進んでいます。天井川の河道跡にきれいな公園や建物を整備する一方で、旧い建物や町並みなど金銭的な価値を計算できないものは、たとえ文化財であってもどんどん壊されていくのがここ最近のこと。ここ最近は京都や奈良であっても例外ではない。ちょっとチグハグな印象を持っています。


 進んでいくと宿場の外れに、立木神社という大きめの神社がありました。簡単にお参りをしていきます。神社を過ぎるとあたりは住宅地に変わります。現在の暮らしという視点からは、旧宿場のど真ん中よりも、こうした普通の住宅街の方が生活感を豊かに感じられるのもいまの時代ですよね。途中からは起伏のある地形が続いていて、進んでいくと、途中には沼が現れたりします。前回に通ったのを、ああそうだったなと思い出しながら進みます。

 次第にあたりの景色は見通しが悪くなっていきます。途中の道も狭く折れ曲がった道路になるところで、このあたりでさんざん道に迷ったことを思い出しますが、不思議と今回は迷いません。これまでの失敗は、ガイドブックばかり眺めていて進路を間違えることが多いですね。目の前の景色よりも地図上の道路の左折や右折ばかり気にしてしまって道に迷う。滋賀の街道筋はおおむね親切な案内が整備されていて、現地の案内板と自分の勘の方がよっぽど正しい。ということを学びましたね。
 ずっと続いた起伏のある丘陵から降りた道の先に、瀬田の唐橋が見えてくるところです。ですが、まっすぐ唐橋に向かわず、左手に見えた建部大社に立ち寄ります。前回は立ち寄らなかった建部大社の境内はかなり大きくて立派。なるほど近江一之宮だとのことです。このあたりでは前回は近江国府跡に立ち寄っていて、なるほどこの辺りはかつての近江国の中心だった場所だったのかと想像します。瀬田の唐橋に着けば、日曜日の朝にたくさんのボートが出て練習を行っています。視界が開けた明るくて気持ちの良い景色です。目的地が無ければ、湖岸のボートを眺めながらぼーっとしたくなる場所です。 


 橋を渡ると、そのまま大津の市街地に入ります。大津の街には京阪電車が市街地を縦断しています。石山坂本線とはつかず離れずのまま進みます。湖岸こそ見えませんが、湖の方向には広い空が広がっています。このあたり前方には釣り竿を持った少年二人が歩いていて楽しそうに見えます。街道を進んでいくと、大津の街は翌週に祭りを控えていて、それぞれの町で山車の準備をしていました。組み立てをしている山車があり、しばし見学。巨大な山車はさぞかし重いだろうと想像するのですが、町の男たちが力を合わせると簡単に向きが変わり、巨大な山車がきちんと意図した場所に収まっていく様を眺めててそれが面白かった。そんな光景が大津の街のあちらこちらで見られました。
 たどり着いた大津宿でランチにしたいところですが、予想外に営業している食堂が少なくて面食らいます。悲しいことですが、いまは旧宿場町よりもバイパス道と化したロードサイドを歩いているほうが、食事する店を探しやすいのも事実です。とりあえず一軒のラーメン屋を見つけ入ります。だいぶ足がへばって来たところで、靴を脱いで足を休めます。


 大津宿から京都までの道はひたすら峠の上り下りが続く道です。JRなら大津と京都の間はトンネルを潜ってあっという間ですが、国道と京阪電車の京津線は律儀にこの峠道を登った上ったり下りたりします。よくよく周りを眺めると、それは結構な角度の傾斜に見えます。国道わきの蝉丸神社は立ち寄るのにちょうど良い場所にあって、どうということもないのですが、今回もふと立ち寄ってしまいました。上り切った先で、自動車の多い新道と離れ、脇には老舗のうなぎ屋が現れています。電車バスでは行きづらい山のなかゆえ、ここは順番を待つマイカーの列になっています。ひたすら狭い谷筋の上り下りが続きます。

 いったん峠を下りて行くと、そのまま山科の盆地に降りてきます。足に次第に疲れがたまって来たこともあって、ここで休憩します。街道は山科駅のすぐ近くを通ります。地下鉄東西線との乗り換え駅で、京都市内の交通拠点でもあるはずですが、首都圏のターミナル駅を見慣れた感覚だと少し小ぶりに見えます。少し歩くと住宅地の狭い道を抜けてから上り道に入ります。前方を見ると上り坂がそびえています。あの坂とあの山を越えないと三条大橋には着かないのだよな。と思い知らされる場所です。確か前回もそうでした。目の前に伸びる長い上り坂を登りきるとこじんまりした集落を通ります。この辺りの街道は不思議なくらい道幅が狭く、京都の市街地のすぐ近くながら集落の佇まいはただの山間の小集落といった趣で、不思議な場所だなと思います。大通りに合流すると目の前に市街地が見えてくるし、観光客の姿も見えてきます。
 坂を降りると、いよいよ京都市内です。おりてから三条大橋までの道は、意外と距離が長いように感じました。日曜日の午後でもあって観光客と遊びに来た地元の客とが一緒になって賑わっています。コロナ禍前とあまり変わらないようにも感じました。ようやく到達した三条大橋は、欄干のあたりが工事を行なっていて、いまは少し殺風景になっています。


 途中にコロナ禍をはさんだこともあって、今回の東海道歩きは踏破までかなり時間がかかりました。日本橋を出てから3年もかかっています。そのせいか、思ったよりも感慨深いものはありませんでした。中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道(白河まで)そして東海道。未開の原野を切り開いて整備されたというよりは、各地にもともと存在した主要道を整備したのが実態のようで、古代の東山道のように権力者が当時の庶民の生活と無関係に野山を切り拓き整備した道とは成り立ちが違うようです。そして、途中では、追分とか追分を示す石碑に数限りなくであったように、五街道だけでなく旧街道は数限りなくあるということ。なんだか旧街道歩きに終わりは無さそうです。

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