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川を挟んだ道(東海道を歩く19)

 コロナ禍の旅行では、外食先を見つけるのにひと苦労するのがいつもの事になりました。いわゆるご当地グルメといったものの多くは、たいがいは居酒屋のような店で提供されることが多いと思いますが、飲酒を避けようとすればちょっと入りづらくなります。おのずとチェーン店のような店に入ることになり、ご土地メニューに出会うことがない食事となり、ちょっと味気ないなとも思います。

 簡単なホテルの朝食をすませそそくさとホテルを出ます。朝になってみれば、昨晩にものすごく怖かった暗い道も、それほど人家がまばらというわけでは無いようでした。面白いことに空をながめていると、複数の気球が浮かんだり降りたりしています。田圃の中では、気球が浮かんだり降りたりしています。昨晩の暗がりの中を歩き終わったポイントを探して、歩きを再びスタートします。このポイントは、台地上に位置していた石薬師宿から、川岸の低地に下りたところです。街道はこの低地の中を進みます。すこし遠くには、JRの関西本線が走っていて、しばらく歩けばJR加佐登駅の駅前にたどりつきます。江戸時代の宿場があるきなら、近代の宿場というのは鉄道駅になるでしょうか。どちらもいまでは静かなもので、無人駅には待ち合わせの自動車がぽつんと1台止まっているだけです。駅を過ぎ関西本線の踏切をわたり、すこし歩けばすぐに庄野宿に着きます。

 先の石薬師宿は台地の上に面していましたが、こちら庄野宿はまったいらな平地に面しています。昨日の桑名や四日市のように、街道沿いを住宅が途切れないなかでは、どこからどこまでが宿場なのかまったく判然としなかったのですが、こちらのほうはまわりは田園地帯です。その中を宿場町全体が島のように浮いて見えます。低地にある宿場町ですから、いくたびか水害の被害を受けていることと思います。けれども宿場を移転した形跡はなさそうでした。ただ、しばらく歩くとこの周辺でも過去にたびたび水害にみまわれた歴史のあることがわかります。隣の集落には水害にちなんだ地域の故事が案内板として記されていました。

 堤防を作ると自分の城が浸水すると恐れる藩主により、領民がこの地に堤防を作ると死罪になるという理不尽な決まりがまかりとおっていたらしく、領民は苦しんでいた、ある時に死罪を覚悟した女性たち200名が決起してこの地に堤防を作った。あえなく彼女たちは死刑になるところだったが、すんでのところで命を救われた。という故事です。さりげなく案内板に書かれている、ともすれば美談と片づけられそうな昔話の中には、よく考えれば女性が犠牲になる話があまりにも多いのは気になります。「そもそもなぜ女性ばかり犠牲を受けなければならなかったのか?」という問いに対しての答えは、いまだによくわからない。低地の中を歩くと、またまた関西本線とぶつかって、こんどはJR井田川駅前にたどりつきます。昨日とおなじく、この日も天気も良く風も少なく暖かな朝です。駅前広場で陽なたぼっこをしながらしばし休憩します。

 街道は低地からしだいに台地上にのぼっていきます。ここで亀山市内に入ります。ここでもほんとうに地形の変わり目と町と町との境目が連動しているのが面白いですね。バイパス道路のつまらないところは、それが地形を削り人工的に改変しながら作られることで、景色といった視覚による情報のほかに、地形の異なりを体感する事ができないのですね。

 町の真ん中に亀山駅がああるのかと思いきや、宿場町のある場所と、JRの駅は離れているようです。駅が低地にあるのに比べて、宿場町は台地の上に面しています。この亀山は宿場町でもあり城下町でもあります。例によって街道沿いの商店街は古ぼけたアーケードの下に空き店舗が連なっています。けれど面白いことに、空き店舗がたくさんあっても建物そのものはきれいに整えられています。そうすることで不思議なことに、商店街全体から荒れたり殺伐とした印象は取り除かれるのです。街道歩きを続けて旧い宿場から由来する中心商店街がどの街も寂れていることは、いつも寂しいことなのですが、空き店舗であっても、せめて建物そのものくらいはきれいに整えておくことは、わりと大切なことのように思います。とかく、イベント開催により若者を呼び込んで商店街の活性化だったり地域の一体化を図ろうとしますが、まずは「きれいにする」のが、活性化の第一歩ですね。

 その商店街のなかにある肉屋兼レストランで食事をとります。椅子のやけに立派なお店で、この亀山の名物といわれる「味噌やきうどん」というものを食べます。メニュー表の中には、松坂牛を使ったメニューがあってこれもとても魅力的です。りっぱなソファーにはずっと座っていたいところですが、待ち客もいるようで、そそくさと後にします。

 起伏の多い亀山の宿場町をすぎてもしばらく住宅地は途切れません。立派な一里塚をすぎて、台地状の集落から下をながめると河原沿いには人家はなくて、一方で台地上の街道沿いだけが浮島のように人家が連なっているようです。台地から道をおりたころに、急に場面が変わるように街道は堤防沿いの道に変わります。おそらく春は桜の街道に変わるのでしょうが、まだ並木にはまだ色は付いていません。堤防沿いの道をはずれて、これまた台地状の地形をのぼると、関の宿に入ります。周辺部はそれなりに立て替えられた新しい住宅もちらほらと有りますが、しばらく進むと重文地区とおもわれる、黒々とした旧い街並みが現れます。

 このような重文指定された宿場町と言えば、中山道を歩いたときに奈良井宿、妻後宿を訪れました。いずれも観光客を当て込んカフェや土産物、雑貨店などが軒を連ねていて、しかも多くの観光客が眺めていたものでしたが、ここ関の宿ではおとなしめのようで、個人の住宅として現役で利用している家も多いようです。にぎやかな観光地を想像して、ここでたくさん土産物を買おうとおもっていたわたしにはちょっとあてがはずれた感じです。

 今回の歩きはここまでとします。あっというまに伊勢路はすぎてしまい、もう山の向こうは滋賀県です。三重県はたしかに経済圏は名古屋と強く結びつく土地ですが、歴史的には、愛知や岐阜と三重は異なっていて、文化的にもだいぶ異なる土地だと思いました。両者が経済的に結びつくようになったのはあくまで近代からのことで、それまでは、広い川と海によって分け隔ててられていた別々の地域だったようです。ここまで歩いて汗まみれの身体が気持ち悪く、帰り道には日帰り温泉に立ち寄ることにしました。桑名まで戻り、もうひとつの軽便鉄道の生き残り、三岐鉄道の北勢線に乗って、終点にある阿下喜温泉という温泉にまで行くことにします。

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