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津波をかぶる道(東海道を歩く14)

 前回の街道あるきは関所のある新居宿までの歩きでした。東海道のちょうど半分をすぎた後で、まもなく静岡県の横断も終わり愛知県に入ればゴールも近いな・・・などと思い描いたところで、コロナ騒動と外出自粛。遠出も難しいなといろいろと逡巡しながら思案。人混みを目指す旅でも無しと思い直して、出かけることに決定しました。これまでの旅の楽しみのひとつは、沿道でたまたま行きあった当地の人とのちょっとした会話が孤独を紛らわして楽しかったりしたのですが、今は旅行者は歓迎はされないだろうなと思うと少し寂しいのですが。まずは新幹線に乗るために東京駅へ。ほんの半年前までは、京都を目指す訪日の旅行客だったり出張のビジネス客で、365日朝から晩までずっと混雑している常態でした。でも、いまは嘘のように閑散としています。もっとも事業者にとって死活問題であっても一介の旅行者にとっては閑散とした新幹線はかえって快適な移動だったのは皮肉なことです。 前回の街道あるきは関所のある新居宿までの歩きでした。東海道のちょうど半分をすぎた後で、まもなく静岡県の横断も終わり愛知県に入ればゴールも近いな・・・などと思い描いたところで、コロナ騒動と外出自粛。遠出も難しいなといろいろと逡巡しながら思案。人混みを目指す旅でも無しと思い直して行くことに決定しました。これまでの旅の楽しみのひとつは、沿道でたまたま行きあった当地の人とのちょっとした会話が孤独を紛らわして楽しかったりしたのですが、今は旅行者は歓迎はされないだろうなと思うと少し寂しいのですが。まずは新幹線に乗るために東京駅へ。ほんの半年前までは、京都を目指す訪日の旅行客だったり出張のビジネス客で、365日朝から晩までずっと混雑している常態でした。でも、いまは嘘のように閑散としています。もっとも事業者にとって死活問題であっても、皮肉なことに一介の旅行者にとっては閑散とした新幹線はかえって快適な移動でした。

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浜松駅在来線に乗り換えて新居町駅におります。多くは競艇場に向かう客で、反対の出口に降りていきますが、同じ出口に向かうのはわずかに3名ほどの客ばかりです。新居関所を通り過ぎても観光客の姿はまず見かけおません。関所の門隣に高札場がかかげられています。高札場が示していることの本質は、領民がそれぞれこの札にかかれた公権力の秩序を守って暮らしなさい。という一方的なものです。江戸時代の意匠や文化にはもちろん素晴らしいものや継承すべきものが多い反面で、政府や政治の理不尽さを庶民はだまって受けいれる文化の種が江戸に源流があると思うんです。

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浜松駅で在来線に乗り換えて新居町駅におります。多くは競艇場に向かう客で、反対の出口に降りていきますが、同じ出口に向かうのはわずかに3名ほどの客ばかりです。新居関所を通り過ぎても観光客の姿はまず見かけおません。関所の門隣に高札場がかかげられています。高札場が示していることの本質は、領民がそれぞれこの札にかかれた公権力の秩序を守って暮らしなさい。という一方的なものです。江戸時代の意匠や文化にはもちろん素晴らしいものや継承すべきものが多い反面で、政府や政治の理不尽さを庶民はだまって受けいれる文化の種が江戸に源流があると思うんです。突き当たりを左に曲がるとなんてことのない生活感あふれる集落の中を通っていきます。街道からは海がごく近いはずですが見えることはありません。でも眺める空の広さから、海沿いを通っていることがわかります。

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しばらく歩くと、道のわきに松並木が現れます。それほど車の通行量も多くなく、とても快適に歩いています。と言いたいところですが、やはり真夏の暑さは身体にはきびしくてすでに汗でTシャツがびしょ濡れになっています。しばらく歩くと神社が現れてきて、突然のように白須賀宿が始まります。

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神社の看板を見るとどうやらこの白須賀宿は宿場の端まで何キロもあって、ずいぶん間延びした宿場のよう(なぜそうなのかは後で知ることになります)なので、せっかくの宿場ですが雰囲気はただの集落です。しばらく歩いて街道を右に曲がると潮見坂という坂にさしかかります。外出も長歩きもしばらくやっていなかった身には、この坂は思ったよりきつい!息が上がりところどころ休みます。後ろを振り返ると遠州灘が見えます。登り切ったところに休憩所と資料館をかねた「おんやど白須賀」という施設があります。休憩がてら中に入ります。 無人かと思いきや職員が居ましたが終始無言のまま。なんだかばつの悪い思いで資料館に入ります。中は自分ひとり。炎天下のなかを歩いてくたびれたので、館内の椅子にぼーっと座りながら休憩がてら聞いてればいいや、と説明ガイドのボタンを押したのです。その音声テープでは白須賀宿のなりたちについて説明が流されてました。 どうやら、この白須賀宿はもともと潮見坂の下にあったそうです。そして、1700年ころにおきた大津波によってもともとの坂下の宿場は全滅したとのこと。そして宿場は坂上に移転したのだと。館内の資料を見ると、どうやらそれ以外にもこの地は2回ほど津波の被害を受けています。そういえば、ここまで来るのに沿道には津波への注意喚起の看板や避難場所を示した看板が数おおくあったのを不思議に思ったのですが、この被害を受けた歴史があったゆえのことなのですね。

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近くの展望台からは遠州灘が見えます。この海はひとたび津波がやってくれば恐ろしい姿に変わる。そんな歴史を経た宿場なので、坂上の集落にそれほど旧い建物は現存していません。 集落を抜ければ周りはうねうねとした丘陵地に変わり愛知県に入ります。ガイドブックだと、県を越えて畑の土が黒土から赤土に変わると書かれていましたが、なるほど県境を越えるあたりで土の色が赤っぽく変わります。隣は車が頻繁に通るバイパス道に変わります。せっかく白須賀宿で雨が降って涼しくなったはずなのに再び陽がさして暑くなります。コンビニひとつも無いバイパス道を真夏に歩くのはいちばん身体にこたえる歩きです。こういった日差しのなかを数キロ歩いて東海道新幹線の線路と並行したあたりで、ようやくバイパス道と別れます。バイパスを離れたとたんに雰囲気は一変。旧い宿場の雰囲気の残る集落が現れて、まもなく二川宿に到着。

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でかける前に調べたわけでもなくあまり期待してなかったので、それだけに新鮮な驚きを持ちました。ところどころには旧家が残っているし、何よりも沿道の家の並びや雰囲気がかつての宿場町を表しています。またもやここでにわか雨。雨宿りをかねて本陣跡の資料館に入ります。 資料館には、伊勢参りについての特集展示がされていました。地図を見ればこの豊橋のあたりは伊勢湾を挟んで伊勢神宮と距離が非常に近い場所です。伊勢参りをあてこんで、伊勢湾をショートカットした航路も運行されていたようです。ただ、このショートカットは先方の名古屋あたりの宿場では客を奪われる死活問題。幕府を介した訴訟ざたにもなったとのこと。そのほかにも、富士講や伊勢講といった江戸時代の協定旅館をガイドした江戸時代の案内帳が展示してあって、おもしろく眺めます。 ようやく二川宿をすぎて食事のできる数件の店を見つけます。うどん店で食事をとります。知人からは出かける前に豊橋にはカレーうどんという名物が情報を聞いていたので、ここで食べるのは「豊橋カレーうどん」注文して食べてみます。なんとも不思議な食べ物で、どんぶりの上部にうどん。まんなかあたりにとろろ、下の方にごはんが重なっています。そこにカレー汁がかかる。1人前でもかなり満腹感を感じる食べ物です。もっとも繰り返し食べたい食べ物かといえば、???と言う気分でしょうか。豊橋の方向に歩くとまたバイパス道と併走します。やっぱり殺風景な道で、沿道には途中に一里塚跡の石碑があるだけ。なにも旧跡は存在しません。ちょうど下校時間と重なったのか?高校生の自転車がわきを通っていきます。めちゃくちゃに多いバイパス道での車の通行量は同じでも、豊橋の町に近づいてくれば旧い建物が沿道にぼちぼち現れます。

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常夜灯と門の跡が残るあたりがちょうど吉田宿の 入り口で、隣は路面電車の通りにぶつかります。ここから折れ曲がった道を東海道はたどります。城下町でもある宿場町の場合だと、防御上の都合でこのようにわざと折れ曲がったわかりづらい道にしているのですが、わかりづらいことこの上ない。路面電車の停留所「札木町」の近くに本陣跡があります。近くには蒲鉾の老舗があって、かつての街の中心地であったことがわかりますが、現在は、ひろい道路にぽつんぽつんとしか人が歩いていないがらんどうな街になっています。ここまでで今日の歩きを終わりにします。街場のコロナ対策そのもので歩きが不便になることは有りませんでしたが、日差しの強さに耐えながらの歩きでした。全身がすっかり汗まみれで気持ち悪い状態。宿にたどり着き出かけてはやく着替えたいとばかり考えていました。

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