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陸地が遠い道(番外ー佐屋街道を歩く)

 そういえば、10月から11月にかけて、季節は変わり目になることが多くて、あっというまに秋冬の天気に変わります。今回の歩きでは油断して防寒できるような服を持ってこなかったのを、すこし後悔しています。昨夕とは逆の行程を一宮から津島に向かいます。名鉄尾西線の車中は、沿線へ通勤する人たちでそこそこ混んでいいます。  到着した津島駅は、昨夕よりもさらに閑散としています。高校生の通学時間はすでに過ぎていて、駅の利用者はマイカーを持たない老人と、所用を持つわずかな利用者だけ、いわゆる交通弱者と呼ばれる人だけ。そのわりにはバスは頻発しています。神守宿に向かいます。近隣に高い建物もなく、空が広くて見通しのよい場所です。平坦で坂もない地形であることから、このあたりでは、たくさん自転車が利用されていて、歩くわきを、おばちゃんたちの自転車がいくつも追い抜いていきます。歩いていると陸地がとぎれ、ここでも川を渡ります。日光橋と呼ばれるこの橋は、珍しく江戸時代の頃から架かっていたそうです。当時としてはかなり大きな橋だったのでしょう。土手には掛け替え前の橋の欄干が残されています。 

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 秋冬にかけての歩きでは、いちばんトイレのことに難儀します。体感ですが、東海道を歩いていて気が付くのは、公衆トイレが意外と沿道に少ないことです。中山道の場合では地域性によって異なるにしても、総じて、公衆トイレにはそれほど困らなかったのですが、東海道の場合では、あまり公園などに整備された公衆トイレが少ないことに少し困ります。かなり困ったところで、近くにある津島市役所の建物でひと息。津島市役所の様子を少しながめると、わいわいがやがや活気のある役場だなと言う印象です。幹線道路を少しそれて左に曲がると、だだっぴろい通りが広がっています。少し歩くと追分と思われる石碑が建っています。隣に鳥居の残骸が柱だけ残っています。ちかくに津島神社という神社があって、そのための鳥居だと思います。不思議とわびしい感じがしないのは、このあたりの一画が、そこそこ活気のある場所だったからなのでしょう。

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  そのまま津島の市街地を縦断します。むくどりの鳴き声がやかましいほどの愛宕神社という神社を抜け、次第に市街地も途切れ、代わりに田園風景がひろがるように変わってきました。ここで道は右に90度だけ曲がると、そこでがらっと風景が変わります。目の前には、屏風のように鈴鹿山脈の山々が並びます。街中を歩いているときに気づかなかった分だけ、唐突に現れた山々が鮮やかに見えました。  さらに歩いていると、平日の田園地帯を朝からあるいてい人間が珍しいのでしょう。近隣のおばあさんに声をかけられます。東海道の歩きでは、あまり地元の人の人なつっこさを感じたことは無かったのですが、ここでは違う。それだけでもその土地は印象に残るものです。田園地帯を横断して街道は左に曲がります。佐屋街道はただの生活道路然としていて、案内板がなければわかりません。その点では佐屋街道を歩いていて、案内が親切なのには助かります。不思議なのは、10月の終わりになっても、近隣の稲穂はまだ刈り取られていません。なにか二毛作でも行っているのかもしれませんね。佐屋宿に着くのはあっという間です。 

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 ここで佐屋街道は終わり。佐屋から桑名までは三里の渡しという船での移動となります。宿場の前がかつての船着き場だったようですが、現在の河原はすっかり遠くに離れています。その痕跡はあまりはっきりしていません。自分が建っている旧宿場のあたりが、周囲からこんもりと高くなっているところで気が付くくらいです。さすがに、木曽川、長良川、揖斐川の巨大な木曽三川は、それほど簡単に渡れません。ここから南下して弥富に向かい、西進してようやく、木曽三川を渡れなさそうです。  南下するごとに、あたりは殺風景になってきます。さいわい食事のできる店がいくつか沿道にあって、そのうちの一軒の中に入ります。そこは、入ってみると喫茶店ながら食事も出すような、昔ながらの喫茶店という店でした。近隣の老人たちが食事をし、ランチになれば作業着をきた作業者がやってきます。このお店の客は、ほとんど顔なじみのようです。そんな店ですから、マニュアル化されたチェーン店ではありえないような光景も見られます。たとえば、家に籠もっていそうな足取りもおぼつかないような老人がやってきて、メニューを注文して食事をとっていたり、店に入るやいなや「おう!」のひとことで、注文が終わってしまう。感心するくらい地元のなじみ客に支えられている店で、そのような光景を一介の旅人のわたしは面白くながめています。

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  さて、弥富のあたりで西進。JR関西線と近鉄線のガードをくぐります。あいかわらずだだっ広い空を、ときどき電車が行き交うのですが、電車はわずかに2両編成。やがて木曽川の橋を渡ります。この木曽川大橋の歩道は、重量を減らす為かやたら歩道の橋脚の隙間から水面やら地面が見えていきます。このタイプの橋脚は、静岡の大井川を渡ったときも同じでしたが、本当に怖くて苦手な橋です。その日はこわごわと渡ったのを覚えていますが、こちらは河口近く。川幅の広いことは大井川の比ではありません。怖い怖い怖い! 

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 さて、川を渡り愛知県から三重県は桑名市にはいります。桑名市というものの、このあたりはかつて長島町という別の自治体でした。この長島町は東を木曽川、西を長良川揖斐川で区切られた輪中の町です。輪中という地形は、小学校の社会科の授業で習ったことがあり、とても記憶に残っています。同じころ理科の授業でも、砂に水を流し川の流れを再現するような実験をして、再現した川の流れの中に、輪中のような中州が地形が生まれては消えていたのを覚えています。このような地形に人が定住するようになったのも、ごく最近のことに想像しがちなのですが、以外と歴史は旧いみたいで、旧跡もあれば城跡もあります。ネットで検索すれば、長島一向一揆という出来事もあったそうです。あたりを歩いて電柱に掲げられた海抜をみると、マイナス1mとなっています。

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  長島の集落を抜けると、長良川の土手につきあたります。進路をいったん南にとって、長良川河口堰の歩道から長良川を渡ります。その長良川河口堰ですが、建設の当時、建設の是非が自然保護や治水の観点からニュースで話題となった施設です。いまでは話題に上ることもなくなりましたが、この河口堰は遠くからもひとめでわかる巨大な施設です。入り口には、管理事務所のほか見学者用の立派な建物があります。入ってはみるものの、中の展望台もガラス窓は汚れたままだし、資料や展示を見るためのパソコン端末も、電源は停止したまま。もちろん誰一人訪れる人もいない寂しい施設になっていました。あの騒ぎはただのから騒ぎ立ったのだろうか?と思わざるを得ません。

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この河口堰で長良川をわたると、こんどは川の中州を北上、国道に合流して今度は揖斐川を渡ります。川を渡ると桑名の街がまぢかに見え、ゴールの近いこともわかります。  ただ、河原沿いにあると思われる七里の渡し跡はどのあたりかは、探すまでに道がわかりづらく迷いました。河原のあたりや近辺の道をうろうろし、六華苑と呼ばれる洋館を見つけようやくその場所を見つけました。この場所から伊勢湾の方角だったり対岸の陸地をながめると、視界にはいる陸地はかなり遠くに見えます。江戸時代なら体感で感じる距離はもっと遠かったことと思います。伊勢湾と木曽三川がまるでつながっているかのようで、なるほど船でなければたどりつけない場所だというのも容易に理解できます。河原から離れて桑名の街を歩くと、この町が湊を中心として栄えてきたのがよくわかります。「歴史の見える公園」と称した公園は、かつての桑名の湊跡のようですが、かなり大きな規模であったことがわかります。湊の近くには名物の「焼き蛤」の店が数軒のこっています。

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  さて、今回の歩きは終わりです。佐屋街道の歩きは東海道の歩きとは違うのですが、この尾西地域のあたりに、とても河川が身近にあることを体感できたし、江戸時代の旅人がだだっ広い空をながめながら旅をしていたことは、電車でショートカットしたのではわからない景色で、それを体感できたのはとても面白かったです。これまで愛知を歩いてたのとは全くちがう桑名の街をながめると、この先の行程も楽しみになってきます。

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