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風が強い遠州の道(その1)(東海道を歩く12)

 夏に歩いたあと、しばらく東海道歩きもやってませんでした。身辺が忙しくなり休みがとりづらくなっているせいかもしれません。というわけでひさしぶりの東海道歩き。かつてならせっせと青春18きっぷで掛川まで在来線で行ったことでしょうが、いまはその労力をもったいなく感じるようになってしまいました。新幹線で掛川に向かいます。

 朝の9時前に掛川駅に着いてしまうのは、新幹線の恩恵です。前回は掛川城の大手門をのぞいていましたが、そもそも、本体の掛川城を見てませんでしたので、歩き始める前に、朝の掛川城をのぞきに行きました。あいにく、掛川城のあたりは見学時間になっていないので閉まってました。それでも付近は人でいっぱいです。どうやらこの場所で、これから消防署の出初め式が始まるようです。消防隊員がたくさん集まっています。ひととおり眺めたあとに堀端ぞいに歩き、起点に戻ります。  掛川の町にも、旧いアーケード商店街が残っています。首都圏だと、もうこのようなひさしのようなアーケード街は少なくなりましたが、静岡ではこれまで通り過ぎた、沼津、吉原、府中、藤枝、島田、掛川と、まだまだアーケード商店街が健在です。

 中心街から少し離れると、19首塚という旧跡がありました。これは天慶の乱で討ち取られた、平将門ほか19人の首が残っているところだとされています。討ち取った後、将門たちの首は関東からここ掛川まで首が運ばれて、ここで検分されました。案内板の文章を読むと、将門を討ち取った藤原秀郷が検分のあと手厚く葬ったそうです。古今東西の歴史上さまざまな政争が起こり、そこでは勝者と敗者が生まれますが、すべての敗者が手厚く葬られるわけではありません。たとえば、大化の改新で討ち取られた蘇我氏が手厚く葬られた、などという話は知る限り残っていません。古代王朝では敗者の恨みを恐れる考えはありません。しかし、将門や道真が祟りを恐れ葬られた話は、現在に残っています。こうした死生観の違いから、中世と古代王朝は分けられるのですね。

 バイパス道に合流して離れると、左手に天竜浜名湖鉄道の西掛川駅が現れます。停まっていた列車からぽつぽつとひと降りています。さらに進むと作り酒屋が見えてきます。このあたりは自動車もあまり通らなくて静かな歩きが楽しい場所です。人家がだんだんと途切れてくれば、代わりに松並木と原っぱが表れます。途中に現れた土手を上る道と河を渡る橋の眺めが、いかにもかつての街道まわりの景色を想像させます。  バイパスをくぐり、間の宿と呼ばれた原川を越えると、その先に花茣蓙公園という公園があり休憩します。さらに先には松並木がまたまた現れます。袋井市の東海道沿いには、広重の浮世絵がプリントされた案内板が、ところどころで掲げられており、眺めるのも楽しい。

 袋井宿に到着します。この袋井宿は、日本橋側から数えても京都側から数えても同じ東海道の真ん中の宿ということで、どまんなかというキーワードで袋井をアピールしています。しばらく歩くと、宿場のまんなかに「どまんなか茶や」という休憩所があり、中にはいります。案内の女性の方がお茶を出してくれます。ここまでの道、平坦で風もそれほど冷たくなくて、ここは良い土地ですね。といった話を向けたところ、女性の方からは、この場所は風は強いけれど、これといった自然災害の少ないところで、台風などもすぐに通り過ぎてしまうのですよ。といった話をききました。つけくわえて、どこか呑気な人が多いのですよとも。  さて、茶屋をでてから、ガイドブックに書かれていた「たまごふわふわ」という食べ物を食べたかったので店を探します。宿場とJR駅とは少し離れた場所に有り、駅のあたりに行けばなにかあるだろうとうろうろ。料理を出しているらしい2から3の店はどれも休業日のようです。残念ながらあきらめました。袋井の駅付近もそういえばあまり賑わっているような場所には見えませんでした。袋井宿を出ても風がつよい場所が続きます。道沿いには、かわらずに浮世絵がプリントされた案内板があります。どの画も近景はたいらな原っぱ。遠景には山々が広がる風景がかかれています。このあたり、人家がとぎれれば、まったくこの広重の絵の通りです。  

この遠州の東海道は、まったく平坦な道を延々と歩くものだとばかり思っていましたが、突然のように目の前に小さな山と坂が表れます。道わきには鎌倉古道、大正の道、明治の道といった看板が次々に表れます。江戸の道とかかれた看板を見て曲がると、思いがけない山道が始まります。そんな山道の中に、突然「これから見付宿」という案内が表れます。市街地などまだ先のことなのでなんのことやらと思いました。 現在の磐田市に属する見付宿を、平坦な場所とばかり思っていましたが、意外にも起伏の多い場所です。これまで歩いてきた遠州の地には、正直なところあまり旧跡などは多くないと思いますが、珍しくこの見付宿には見付学校という古い建物が残っていて、中に入ります。

もともと小学校であったこの建物は現在は資料館となっていて、かたわらに教室が復元されています。案内の方が地元の人と思われる人たちにせっせと説明しています。その話によれば、この遠州のあたり、明治維新では官軍側に立ったそうです。徳川といいつつもこの尾張の徳川家は江戸の徳川家と喧嘩状態だったそうです。「遠州国学」という言葉もあったそうで、この地は国学が盛んな地であったようです。早い時期のうちにこういう洋風の学校が建つくらいなのですから、この見付の地はかつての遠州の中心地であったようです。その証拠に、しばらく歩けば道のわきに国分寺跡が残っています。かつては海も近く、海上交通も盛んだったようです。跡地はいまでは市街地の真ん中で自動車であふれかえっていました。国分寺が存在した当時の雰囲気を想像することはできません。

 かつての宿場とは離れていましたが、街道を進むとJR磐田駅前のすぐ近くを通ります。道は駅前で大きく旋回し、こんどは懐かしく古めかしい商店が並んだ市街地を通ります。道の脇には大きな看板があって、その看板には江戸時代の地図と大正時代の地図が並んでいます。どうやらこの近辺は、中泉村という見付宿とは違う町だったようで、地図には「中泉軌道」と呼ばれる、知らなかった軽便鉄道がかかれています。ネットで調べると、どうやらこの付近から天竜川まで走っていた軽便鉄道のようです。  ここから天竜川まで、旧跡といえば一里塚跡くらい、ほぼ平坦で単調な自動車道路が続きます。目の前の空が広くなると、天竜川の河原に近づいたことがわかります。天竜川には、自動車用の橋が二本平行して通っています。両岸とも平坦な地形なので、あまり変化に乏しい眺めのようです。河の両岸とも市街地であるせいか?ここでは富士川や大井川を渡ったときのような、対岸を隔てる河のような印象はしませんでした。  河原を越えれば浜松市に入ります。

河原をおりた先は、中の町と呼ばれる岸辺の旧い集落が残る地域でした。歩いていくと史跡もそれなりに多い場所です。ここでも「軽便鉄道」の終点跡があります。遠州鉄道の中ノ町線の跡のようです。この軽便鉄道は終点の手前で街道と並行していたようです。自動車が当たり前となるまで、公共交通の王様は鉄道でした。いま想像もできないくらい全国各地で鉄道敷設の申請がされています。その当時に作られた鉄道は、ほとんどが既になくなっていますが、ここにもその名残が残っているわけです。  浜松宿まではまだ遠く、今日の歩きはここまでにします。この近くに予約した宿までの道沿いは、都市近郊の典型的なロードサイドの風景です。チェーン店の寿司屋とかステーキ屋とか・・・。風が強い遠州の地は、台風とか自然現象だけでなく、さまざまな文化事象なんかも、するすると流れて通り過ぎていく場所なんだろうな、ともやもやと思っている途中です。

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