#25 交わらない友人と出会って深まった自己理解|とべちゃんの副音声
大人になってから、仕事以外のことで熱心に語り合える新しい友人に出会えるって素晴らしい。自ら積極的に新しいコミュニティに出ていくことの少ない私にとっては、貴重な出来事だ。
新しい友人との出会い
共通の友人からは「きっと気が合う」と言われていた。その真相は、語り合いたいテーマが類似しているからだった。そしてやはり、前評判の通りだった。
それぞれ違う方向に自分の強い主義や主張があり、それらが交わることはほとんどなかった。何を話しても、お互いに「え!なんで?」「でもさ〜」の応酬なのだ。だけどむしろそれが面白かった。自分と違う価値観や感覚について、建設的にディベートするのはとても新鮮で刺激的だった。私はその人を”交わらない友人”と呼ぶことにした。
「あなたと過ごした時間が楽しかった」の違い
私が楽しかったのは、それまで自分の中になかったテーマや問い、それらに対する新しい視点をたくさん得られるから。相手が楽しかったのは、たぶん、誰かと語り合って知り合う時間と空間がすきだから。お互いに楽しかったことに違いはないけど、その中身には違いがあることに気がついた。
”余韻を楽しめる私”の発見
誰かと楽しく過ごしたら、別れたあともずっとずっと楽しい。特に、興味深いテーマについて議論したあと。話した内容をゆっくり反芻して、対話の中で丁寧に考えることができなかったキーワードやシーンについて、あらためて考えを巡らせるのだ。そうしていると、あっという間に何時間も経っている。私はそういう時間がとても好きだ。ずっと前からこうした振り返りをしている私がいることは自覚していた。ただ、この感覚、持続力、誰にでもあるものではないらしい。それがわかったことで、”余韻を楽しめる私”が存在していることを自覚した。
”一人の時間が必要な私”
さて、”余韻を楽しめる私”にはもう一つの表現があると感じている。それは”一人の時間が必要な私”である。誰かと過ごすのはとても楽しい。ただ、最近感じていることとして、どうやら私は、誰かと関わることで受け取る情報量が多いらしい。だから、余韻の中で消化する作業が必要なのだ。
受け取る情報量を少なくする、処理するスピードや量を上げることで変わっていくのかもしれないけど、今のところ後者のやり方は見つけていない。だから、私は一人の時間をきちんと確保することを大切にしているのだと思う。
おしまい。