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マイクラとノスタルジー

フレンドがマイクラやっているのをみて、なんとなく昔にみたマイクラ実況動画を探してみたくなった。たとえば、こんな動画とか。

https://www.youtube.com/watch?v=frEj2gUt2nw

懐かしい、懐かしい。今みても面白い作品と、今見ると恥ずかしい作品がある。やたらとガビガビな声も、単調な構成も、好きだった。480pがぼくにとっての最高画質だった。

前にアマゾンでゼルダのブレスオブザワイルドのレビューがすごいというので、覗いてみたことがある。そのレビューを書いた人は生活に追われるサラリーマンで、酒の勢いに任せてゼルダとswitchを買ったらしい。それからプレイを続けるうちに、彼は通勤中、遠くの山をみて不意に涙を流したそう。「登れそうだ」と考えるようになった。そのことがたまらなくうれしかったみたい。

ゲームを熱心にやることは、誰かからは子供みたいだと揶揄されるかもしれないが、ゲームによって変わる景色があることはとても素晴らしいことだと思う。

僕はマイクラをやって何かが変わっただろうか。そう問われると、正直微妙。でもマイクラは僕を変えないけれど、マイクラはその時々の僕に合わせてよく変化する。ワールドに設定してる名前からですらその変化は現れる。僕がPS3でマイクラやってた時代のデータには「砂場 居場留」と書いてサバイバルと読ませるデータがある。これを書いた当時の僕は「おれもおもしろくなったなあ」なんておもってたのを覚えてる。いやダッサ。でも確かに、このユーモアを面白いと感じてた時期があった。

ちなみに今はワールドを作った日付とその目的だけを記した簡素なものになってる。「2022/7/12 サバイバル マルチ テスト」みたいな。

にしても、色々と昔にみた動画を探していると、とても無常さのようなものを感じる。昔あんなに好きだった実況をもう見なくなったな、というのもそう。けれどそれ以上に、昔みた人が、二年前を機に動画投稿しなくなったり、相方と揉めて失踪したり、はたまた結婚して活動停止なんてなったりしているのをみると、ある種の感傷が心に過ぎる。

別に変わらないことを期待していたわけでもないし、変わったことによる落胆なんてものもない。けれど、ほんの少し、そのチャンネルを覗いているときだけは、時間が数年前にもどってくれないかと思う。

数年前を思い返す。まだ中学生にもならない頃。なにを求めるわけでもなく、ただ黙々とオークの木を切り倒しては、木材にして、それを積み上げる。誰かに遊んでもらいたいわけでもなく黙々とアスレチックを作っていた。そんなマイクラ生活。サバイバルに飽きたら、そのままのデータでクリエイティブになって遊んで、耐久の削れた鉄のツルハシを投げ捨てて、素手で森を切り開いて、ネザーゲートを建てるよりさきにビーコンを置いた。そうしてほとほとに飽きると、ダイヤのツルハシをもって、サバイバルに戻す。

手ごたえも達成感もない。でも、一人でもくもくとやっていた。

初めて、自分のワールドに人が来た日を覚えている。Java版からは考えられないけれど、コンシューマー版はただデータを開くだけで誰でも入れるようになっている。自分はマイクラでマルチというものを知らなかった。でもマイクラは人と遊べることを、実況では知っていた。でも実物をみたことがなかったので、ほんとうにあるんだ。という感想が強く出た。同時に自分以外の人間がこの世界に存在していることに驚愕した。

僕のワールドにきたそのフレンドは、GTAで知り合った人だった。GTAのオンラインで、ひたすら野良の知らぬ誰かを、どこかからひったくってきた車でタクシーしていた。問答無用で倒されることも多い。でも、コンビニから出てきた野良が、立ち止まる僕の車に乗り込んで、僕が「どこいきますか」と問うと無言でマップにピンを刺してくれることがある。そのことがずっとうれしくて、もくもくとやっていた。

そのフレンドは、そのときに知り合った人だ。そのフレンドが入ったワールドは、クリエイティブのワールドであった。僕がサバイバルで作ったという体の、クリエイティブワールドだ。僕は、人と会えたことがたまらなくうれしくて、興奮して、インベントリーの中からダイヤ装備の一式をその人に投げ渡した。クリエイティブだから、ダメージなんて、受けるはずないのに。でも、渡した。その人はつけてくれた。そして空を飛ぶことなくただ黙って僕についてきた。

僕の自慢な木造ハウスをみせた。家の壁の端には柱に見立てて原木が置いてあるし、なんと階段ブロックを屋根につかっている。しかも煙突もついてる。地下室もあるのだ。素敵な家でしょう?おれはこれ以上の家を作れる自信がないよ。そう言わんばかりに家の前で屈伸した。彼もそれに合わせてくれた。言葉はない。でも、うれしかった。

彼とは、もう遊んでない。僕が因縁をつけて喧嘩した。どこかで生きていたらと思う。たとえ生きていなくても、知る由はない。

ふと昔関わっていた人のTwitterを覗くと、とうに新しいツイートが流れなくなっていたりする。やめますと報告わけもなくて、最後のリツイートがファミマのRTするとクーポンがあたるツイートであったりする。
LINEを、下の方までスクロールすると、unknownになっているトークがたくさんある。たまに新しくそうしたアカウントが増えることがある。僕はその都度そのアカウントとの会話履歴を見返して誰かを特定する。
スマホを変えてLINEを引き継ぐと、こうした会話は消えてしまう。だからせめてスマホを変えない間は、これを消さないでいる。たとえ疎遠であっても、仲違いしても、僕と誰かが、その時点では確かに一緒に話していたことの証明を、消すわけにはいかないと、思った。

今はフレンドと、こんな建築をしている。

この人がこの世にいなくなったら、僕もすぐに死のうかな。なんて、思う人がいた。何人もいた。でも同時には存在しなかった。気づくと、関わらなくなっている。馬が合わなくなった、相手が忙しくなった。理由は、一つには絞れないけれど、僕は今日も死んでいない。
その人がこの世にいなくなったら、僕はどうやってそれを知ろう。
あるいは誰が、その人になるのか。そもそもそんな人なんて、いたのか。

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