あと20分で今日が終わる

正確にはもう17分で今日が終わってしまう。僕はここ最近noteを連日書いているし、どうせならと思って今日も書いてみようと思う。
とはいえ書くことは本当にない。日常の機微なんて曖昧なものを感じ取るほどに僕の感性は常に全開であると言うわけでは決してない。
前に友人がnoteを書いていて、連日投稿しているのを見て、ほーんと思っていたが、ある日寝過ごして投稿できず、連続記録が絶えてしまったのを絶望していたのがちょっと面白かった。
そういえばその友人、僕のことを頑なに”知り合い”と呼ぶのはなぜなのだろう。

自分が友達だと思っていても相手に友達だと思われてない確率って統計的にあるらしくて、普通に二人に一人はそういう人らしい。そういう人っていうのは要するに、自分だけが親しいと思っていた友達ってやつ。いや悲しすぎるだろ。
インターネット世界にいると、友達か友達じゃないかであるか以前に、ステータスとしてフレンドかフレンドじゃないかというところも付き纏ってくるからますますややこしいことになる。普通にフレンドじゃないけど友達の人や、友達じゃないけどフレンドの人もごまんといる。なかなかどうして奇妙なものである。

そういえば、僕のVRCのフレンドは確かそろそろ500人に届きそうな感じがする。まあ悠長に見てたら日が暮れるから後で見るんだけどさ。やばい明日になるまで後11分
結局noteとかブログにしてもそうなんだけど、せっかくこういう長文で好きなだけ語れるフォーマットがあると、せめて千文字はいってほしいというのがあるんだよね。今650文字。お!フレンドの投稿だ!とか思ってnoteを開いた時に、3行くらいで終わってしまった時の落胆。まあ気持ちはわかるけどね。文章を綴るって、本当に大変。

後今書いてるこの文は、誠に頭から出たそのままの文をありのままに放り出した文だから対して推敲もしていない。ほら、句読点の数が少ないでしょ。別に句読点の多さが文の良さじゃないと思うけどね。僕は末期の太宰治のやたらと句点の多い文章を見てると、アハン、息継ぎみてえだなあと思ってなんとなく真似しているに過ぎない。

太宰治といえばね、駆け込み訴えって作品が僕はめっちゃ好きなのよ。駆け込み訴え。新約聖書を元にした二次創作なんだけど、主人公であるユダが抱えるイエスキリストへの一途な思いと、それが目まぐるしく憎悪に転換したりしなかったりする瞬間が美しい。彼はある日、イエスキリストと春の浜辺を歩いていて、こういう会話をするんだよ。まずユダに、イエスキリストはこういったんだ。お前にも世話になるね。お前の寂しさはよくわかっている。でも、寂しいときに寂しい顔をするのは、偽善者のすることだ。誠に天の父を信じているというならば、なんでもないように振る舞って、顔を洗って、頭に油を塗って生きていきなさい。そういったんだ。それを聞いてユダは、声をあげて泣きたくなって、いいえ、私は天の父上なんていなくていいです。ただあなただけ、あなたさえいて

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