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新翔ゲイ構文の違和感を考える

参考までにこのツイートである。良し悪しは置いといて、僕はお世辞にもこの新作が丸太小屋のそれと似ているとは思えない(、というのは、僕自身に限らず多くの人もまた同じようなことを思っているようではある)。それどころか丸太小屋構文は割とインターネットの中で気に入ってる類のコピペなので、少しの憤りさえ覚えている。

なにがどう違ったのか。この原因について少し考えると、まず思いつくのが、後者(新翔ゲイ構)に、見ている側が入り込めるような余白、抽象さが、文章の中に何一つとして残されていない点にある。

丸太小屋が妙なのは、もちろんその翻訳調の文体もそうだけれど、なによりも登場人物の匿名性にある。というのは、本文の語り部を誰にしようがこれは成立しうる内容なのであるし、なんなら大谷翔平である必要さえない。岸田文雄にそっくり文章を置き換えても成立するのである。語り部はTwitterを触らないし、カリオストロの城をみていない。その前提を見ている側に強要してこない。舞台が一貫して共通認識の上の丸太小屋だけであり、そこには想像の余白が十分に用意されている。

(もっとも、この構文は元々コピペなので、登場人物の名前を置き換えても内容が成立するのは当然だ)

本作の語り部は一見して、ただの大谷翔平と同棲したい謎の男性という風体であるが、抽象的には「臆病な人」ということになる。「同性愛者としての葛藤」が、実に強く切なく描かれていて、世間体のために初めに「私は同性愛者ではありませんが」と繕い、うっすら心の感情に気づいていながらも、実際にそれが発露してしまったときに相手がどう思うのか、想像することさえままならないくらいに怯え、必死に目をそらし続けるさまは、相手が大谷翔平というあり得ない相手だからこそ面白く映るものの、僕たちの身に起こりえない話では決してないのである。
故にこの文章は、人の心の深いところに浸透して、多くの共感を得たのではないか。だからこそコピペとして語り継がれているのではないかと思う。
(少なくとも僕はこのコピペに強く共感した。同性愛者ではありませんが)

一方で、件の作品はそうした葛藤から離れて、ずいぶんと現実的なものになってしまっている。文章としては(あるいは個人のつぶやきとしては)、良いものだと思う。所々の言い回しもきれいだし、まっとうに失恋したのだなということが伝わってくる。「誰の物にもならないでほしい」と「結婚してくれてうれしい」というダブルスタンダードの間で苦しむ様子は有名人に限らず、友人でも家族間でも僕たちの日常の中ではよくあった光景だろうし、小さな片思いが、自分さえ気づかないうちに失恋に変わることも、それに気づいたときの空虚さも、よく描けていると思う。

これでは、同性愛者ではある必要がまるでない。

これが丸太小屋構文でさえなければ。

正直前半は良いかな~と思いながら眺めてたけど後半からずいぶんと興ざめしてしまった。丸太小屋のエッセンスであってしかるべき「同性愛者の葛藤」が、一般的な恋愛と区別されてないような言い回しと、これまた一般的な恋愛が描写された大衆映画との比喩によって台無しになってしまった。この文章の主人公はゲイである必要がない。したがって「私は同性愛者ではありませんが」という導入も蛇足なものになるし、この文章が新翔ゲイ構文になりえないなによりの根拠である。

語り部の描写もやけに日常的な動作が多く、空想の上の空想で成り立つ本家のコピペと違い、ああした描写(たとえば、慣れた手つきで文字を打つ、白い天井を眺める)が、自分自身と主人公は別人であるという事実を浮彫にしてしまうのがさらによくなかった。

またひとたびそうした目でこの文章を見てしまうと(つまり、翔ゲイ文章にあやかった異性愛者が描いた文章であるという目でこの文章を見ると)、ずいぶんと辛辣な感想が出てきてしまう。

作者は人の恋を何だと思ってる。文章ではああいっているが、心のどこかで自己泥酔していないか。失恋している自分に恋してないか。というか面白がってないか。腰の炎に謝れ。

仮にこの人が本当に大谷翔平に恋して、そして失恋をしたのならば冗談でも丸太小屋構文を使うべきではないし(僕みたいな人に目を付けられるので)、第二の丸太小屋構文を書こうとしているのであれば本家へのリスペクトが足りない。

結論といたしましては、本家に対して今作は、読んでいて共感できる箇所が少なすぎるので、新作と名乗るにはおこがましいかなと思いました。失恋ポエムとしては満点を差し上げたいと思います。

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