雑記:「イマジナリーフレンド」

イマジナリーフレンド、ってもんがいるでしょ?
いや、もう居ないだろうけど。今の話じゃなくって。
昔、物心がつくかつかないかぐらいの時。
覚えてるか、覚えてないかもあやふやな。

最初に気付いた時に居るような友達。
私の理想に付き合ってくれる、友達。
そういう友達が居たはずなんだけど、いつの間にかそばには、冷たい風が吹き抜けるばっかりで、なんも既に居なかったような気がしてならなくて、1人。

なんかさよならも言わずにさ、どっか行っちゃったんだよね、きっと
それがまだ、悲しむことも、死ぬことも、知らんまんまの純粋な子供のころでよかった。
けど、別にだからといって寂しげが無いわけでもない。

ペットとかとはまた違う、帰ってきたら懐いてきて、餌を嬉しく食べて、やること全てに構ってを言うような感じでもないし、それこそ暖かさも、影も、形も、いた証すらも何もないのに。私の記憶にしか居ないのに。
何故か寂しげを感じてしょうがない。

イマジナリーフレンド、というのは所詮訳してしまえば、
「空想の友達(意訳)」となる。

概念でしかない。

そして、イマジナリーフレンドというのは所詮、凄く幼い頃に赤ちゃんが、空中を仰いで喋っていたりする時にそう指すのであって、その友達が本当に見えてるか、なんて当人にしかわからない。でも、私らに赤ちゃんの記憶があるかと言われるとそうでもない。(個人差)

その概念との別れを知れたのはそこでもない。


なのになんで寂しげを覚えるか。
結論としては、自論ではあるけど、
別の事でそう思うこと、または近しいことがあったから、だと思う。


あくまでこれは例でしかないけど、
小学生のときに、めちゃめちゃ仲が良かった人がいたとする。

でもその人が、転校するとなった時。

そうなったら、めちゃめちゃ仲がよかったので、泣く。
嗚咽が止まらないぐらいに泣く。悲しむ。とする
でも転校が無くなるわけじゃないから、結局は居なくなってしまう。

するとどうだろう、あんなにも悲しみ、喋っていたのにも関わらず、記憶とは残酷なもの。
忘れていくのである。

薄れていくのだ。友達というあなたが、存在が。

そうなると、まずは声から。
次に、顔。その次は…といった拍子に忘れていく。

あれだけ色々遊んだり、悲しみを分かちあったりしたのに、全部漠然とした記憶になる。
まあまず出会った頃なんてはっきりと覚えてないだろうし。
こんなにも別れは覚えているのに、その間すらあやふやとなる。時間って怖いね。

だから寂しくなるんだろう。
友達を思い出そうとする度、思い出せない焦燥感とあんな事あったなーみたいな懐かしさに浸るあまりに。

小さい頃に友達だったあの子はもう喋らなくて居ない。
そして私の記憶にもそこまで残ってない。

それはもう一種の認識上の、
イマジナリーフレンドと同じような境遇じゃないのか?
(実在している人物なのでイマジナリーではないのだが)


1例が転校というだけで、まあその他疎遠になるわとかetc.離れる理由なぞいくらでもある。


だからこの瞬間、あなたがそばにいる友達を大切にした方がいい、と思う。

幼き頃を通して、多分見えもしない友達から教わったこと。
今はもう会えない友達から教わったこと。


思い出として、また今日も、仲がいい友達と遊ぶとしよう。
今度こそ、忘れないようにね。


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