忘コロナ企画番外編「色添え」
※「忘コロナ企画その3」の記事はもう書き終えてはいるが、事情により非公開。ご了承ください。
4か月ほど前、私が投稿したツイート群がちょっとした反響を呼んだ。
当時からこのツイート群に補足したいことがあったものの、大筋には関係なかろうと思っていたし、端的に面倒だったし、先延ばしにしていた。当記事では、脱・コロナのムードが浸透しきった現在だからこそ思うことも交えながら補足=色添えをしていきたい。
ここから始まる。
ここで補足しておきたいのは二つある。
一つ目は、「反自粛」という言葉の意味するところである。たまに、自粛=家に閉じ籠って外出を控えること、という勝手な解釈をされることがある。自粛とは字義としては行動を控えることであり、ことコロナ禍の文脈に際しては感染対策を口実としたありとあらゆる制限に迎合することを指す。
二つ目は、私は別に暴力を否定してはいないということ。暴力が嫌いなのではなく、自覚なき暴力が嫌いであり、更に言えば「良いことをしているつもりの連中が無自覚に振るっている暴力」が嫌いなのだ。
この感覚が分からぬ奴というのは、たまにいる。びっくりするほど過激な生命尊重主義者。彼らに足りないのは、命があることと充実した生を送ることは別問題であるという視点である。
最後、「科学的合理性によって」というフレーズを入れていたが、いまやそれすら怪しいと聞く。仮にマスクやら人流抑制やらがムダだとすると、もはや科学すら関係なしにパニックによって抑圧がなされたと言っても過言ではない。
ただ、私は実はその辺の科学的正しさはどうでもいいと思っている立場である。私が嫌だったのは「国民誰しもがコロナに罹りたくないはずだ」という前提のもとで感染対策が続けられたことであって、その対策に効果があったって嫌であることには変わりない。コロナが流行したこととその感染対策に協力することが直に接続されるときの、その直接性こそが憎らしかったのである。
屁理屈みたいだが、大筋は間違っていないだろう。東大だと学食にアクリル板が設置されていたが、これは噴飯ものである。わざわざ学食という密な空間に、それに談笑する学生も多くいる空間に来るような学生がコロナを「本気で」恐れているわけがないのだ。それならば、アクリル板も、「黙食のお願い」との注意書きも要らなかったはずである。あれらは学生の食事を邪魔するものとしてのみ機能した。
コロナを戦うことを諦めたい人々のことを、私はしばしば降参派と呼ぶ。降参派にとってウイルスはもうどうでもいいのだ。コロナvs人類という構図も、もう要らないということ。「国民一丸となって戦うぞ!」という「団結」のノリがサムいということである。
ちなみに、降参派には「団結」それ自体が嫌いな人も当然含まれるが、私は別にそうではない。私は、高みを目指すスポーツチームやオーケストラのそれについてはむしろ称揚する。高いパフォーマンスを発揮するために団結する、必死になる、そしてそれを達成する…という体験は私にもあるし、それは何というか、良い思い出として残っている。問題は、コロナの感染拡大を防ぐための団結というのが、「人と人とを遠ざけるための団結」という矛盾性を孕んでいるがために、端的に美しくないということである。エネルギッシュさの欠片もない。鬱屈が押し寄せて気分が悪くなる。そんな団結を求めて精神的に窒息するくらいなら、さっさと放棄してコロナに感染して苦しんだ方がマシだと考えていた。
これについては特にない。
「昭和世代vs令和世代」みたいなテレビ番組を、最近よく見かける。あの手の番組では、毎度と言ってよいほど「昭和の車内ではタバコ吸い放題でした!」というVTRが流れ、令和世代と呼ばれるところの若者が仰天する、という構図が見受けられる。多少の演出上の誇張もあるのだろうが、いまの若者がタバコを毛嫌いしているのはデータ上からも明らかだ。その原因の一端をたとえば保健体育の教科書に求め得る。あの教科書には、「タバコをよく吸う人とそうでない人の肺」という比較画像が鮮明に載っている。前者の肺は非常にグロデスクに映されており、少なからざる子供はそれにトラウマを抱いている。「酒をよく飲む人とそうでない人の肝臓」という比較画像も、これまた不快なものであったことは覚えている。まさしく「健康こそ至上なり」という思想=健康主義を浸透させようとする試みの例である。あるいは、テレビの医療番組の数々も見逃せない。
シュクラバーネクは『健康禍』という著書で(日本ではないが)その具体例についていくつも挙げている。興味のある人は読むと良いだろう。
※健康主義が「なぜ」浸透したかということについては、深く検討の余地がある。
調教の過程である。私はとある小学校の黙食風景を捉えた画像を見たとき、激しいショックを受けた。言葉を選ばず言うと子供たちは奴隷的であり、あんなことをさせるなら給食代は返金してやれよとさえ思った。しかし、私が仮に子供だったら、アレに慣れてしまうのだろうなとも思った。子供は、子供だけで徒党を組んで教師に逆らうやり方を知らない。目の前の理不尽がなぜ理不尽でありそれを如何にして言語化すべきかという方法を知らない。「非常に不便だが、まぁ食べられないこともないし、我慢して食べよう…」という結論に至るのは仕方がないことなのだ。こういうときに頼りになるのは本来親なのだが、多くの親はなんだかんだで食事の楽しみよりもコロナ予防を取ってしまう(黙食に効果があるかは非常に怪しいのだけれど…)。だからこそ3年も続いてしまった。
そういえば、「私はいつもご飯を食べるときに話さないから黙食だってそんなに辛くはないでしょ」と平気でのたまう大人がちらほらいたのだが、彼らは「話さない」と「話せない」の違いも区別できないズレた連中であり、軽蔑されてしかるべきだ。
反自粛が実際に感染拡大に寄与しているのかどうか、それがどちらであれ、反自粛とか言って動き回ることは人々を不安にさせちゃうわけで、私はその点についての暴力性を一応自覚している。ただ、その類の抵抗をしなければ間違いなく後悔しただろうとも思う。
感染対策の加害性を認識できない人とは、もう何を話したってムダであるという確信めいたものがある。たとえば、運動会の練習の際にもマスクを着けさせろと喚く人と、何を語れと言うのだろう? スポーツの魅力は身体を通じたある種の解放作用であり、それを阻害するマスクが有害と分からない人は、もう置いていくよりほかになかろう。
本来容易に見ることができるものが、健康主義というフィルターを通すと、途端に見えなくなる。ここ最近急激に増えた自粛派のハチャメチャな発言の数々も含め、多くはこれが原因ではなかろうか。つい最近になって、自殺者の増加であるとか、マスク社会の弊害としての幼児のコミュニケーション発達をめぐる問題であるとかが俄かに騒がれ始めたが、こんなことは2020年当初から危惧されていたことである。感染対策に国家が投じた費用も恐ろしいことだが、これに関しては書くうちに吐き気がしそうなので、敢えて書かない。
いま、私はベンキョーの最中である。コロナ禍に際しての狂乱について、その原因を詳細に解き明かすためのベンキョーである。それがひと段落つくまでは、安易にTwitterで呟くのは止めておこうと思っている。ツイートで下手に満足してしまうとマズい気がするのだ。NHKの例の件についても、しれっと退場しようとしている「物語り」についても、尾身茂の諸発言についても、言いたいことは色々あるが、敢えて「自粛」して、先述のベンキョーに励みたい。
(※モラル研としての今後の活動について言っておくと、反自粛とは別路線の新しい活動を企んでいる。とはいえ、その活動の根底に潜む問題意識は反自粛のそれと共通しており、これまでの経験も多少は役に立つとは思っている。)
追記:最近、過激な「マスク警察」をネットに晒して非難するのがTwitterで流行っているようだ。反自粛派かつ反監視社会という立場にある私からすれば、マスク警察は困るし盗撮もそれまた困るという、ちょっと複雑な感情を抱えている。マスク警察というのも相互監視の精神を内面化した存在ではあるのだが、そこに見られる監視とIT的な監視だとやはり後者の方が深刻度合いは強いだろう。対決(非難)すべき人間が目の前にいるとき、対決するという選択肢を一旦差し置いて、盗撮なり沈黙なりして、問題解決を他者の手に委ねるあるいは先送りにするという行動を積み重ねてしまったからこそ、感染対策は長引いたのではなかったか? と、自戒も含めつつどうしても思ってしまうわけである。
(モラル研主宰、書く)
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