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忘れられない骨髄提供

2回目の骨髄提供の日が2011年の3月中旬に決まりました。3月は山形にとってはまだ寒い季節です。入院に向けて準備も整ってきた時期の3月11日にあの東日本大震災が起きたのです。私の住んでる地域でも揺れは大きく1日停電となりました。停電も収まり何とか生活できるようになった数日後に山形大学附属病院に入院しました。パジャマに着替え検査用の採血をし終わったころ、担当の先生が来て言われたのです。今回の骨髄の提供を受ける方は山形県から遠く離れた南方の患者さんであること。震災により交通網が寸断されているため、骨髄液を採取したとしても移植できる時間内に運ぶことが出来ないこと、そのため出産の際にお母さんと赤ちゃんをつないでいたへそのおから採取した臍帯血を使っての治療に切り替えること、そのため移植は中止となるので申し訳ないですが退院してくださいとのことでした。突然の出来事でした。私も2度目の採取だったため重大さは分かりました。患者さんは新しい骨髄液を受け入れるために1~2週間前から前処理の抗がん剤投与と放射線照射により自分の骨髄液を滅して新しい骨髄液を待つのです。前処理が終わった時点での急な変更が患者さんにとってどれほどの大変さか。骨髄液が適合する確率はそのHLA型によっても変わりますが、一般的なの適合率は、兄弟姉妹で4人に1人(25%)、血縁関係がないと数百人から数万人に1人の確率とされていてもちろん適合者が見つからない人も大勢います。やっとの思いで見つかり移植に漕ぎつけたのに。家に着いてからも、おめおめと帰って来てしまったことを後悔しました。何とかしてくれと詰め寄れば何とかなっただろうか?自分で患者さんの所まで行きますと言えば何とかなっただろうか?後悔のあまり骨髄バンクのコーディネーターさんに電話しました。コーディネーターさんは忙しい時だったにも関わらず、親身に相談の乗って頂き、治療方法がなくなったわけではなく変更となっただけです。患者さんは助かると信じましょうと言って頂きました。私はその時の患者さんは元気になられたと信じています。私はこの理不尽な経験をきっかけに、人を助けたい・何かをしたいと思ったらすぐに行動に移すべきだと感じるようになりました。そして人のためになるような頼まれごとは断らなくなりました。それは子供の学校の保護者役員であったり、住んでる町をよくするための町づくりだったり、青少年育成推進員、少年補導員など微力ながら参加しています。また初めての骨髄移植の際に小さな子供から助けられた経験から何かしたいと思い、まず始めたのはプランインターナショナルでの寄付です。海外の貧しい地域の発展に使われるお金を毎月5,000円寄付しながら現地の子供と文通し、ちょっとしたプレゼントを贈っています。この活動も10年以上が経過しましたが送られてくる絵に元気をもらっていますし、やっていて面白いです。


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