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正義は悪という不思議 未来へ向け 今必要なこと

正義への違和感
ネットでの過剰な人叩き、誹謗中傷が出るたびに嫌だなと思う。それで自殺する人が出ることさえあるわけだし、自殺までいかなくても沢山の人が苦しめられている。そこまで追い詰める必要は無いのに。そのような人を苦しめる行為を悪を懲らしめるための正義だと思っている人がいることを うわ~と思う人は私だけではないんじゃないだろうか。自分の悪意を含んだ行為を正義だと自分や周りに主張したとしても、そのやり方には悪意あるでしょ、嫌だなと思う人もいるし。逆に合法の悪事に、いいなと真似する人もいたりするわけだ。悪意に気づかれていることは知っていながらも、ネットという身バレしにくく、遠く離れていることで安全が保たれていることで、虚栄心や、自分の感情のために、人を一方的に傷つけてしまえる。その一方的な誹謗中傷を「正義」と呼ぶことに抵抗は無いのだろうか? 一つ言えることは子どもの時にみんなが感じていた正義のイメージとはかけ離れた行為であることだけは間違いないし、もし、子どもの時の自分がそのようなことをしていたら、「そのやり方は違うよ。人を傷つけないで伝える方法を探そうよ。じゃないと、あとで苦しくなるのは自分だよ」と伝えたい。そんな行為だ。
「 正義 」は、都合のいい具合に拡大解釈しやすく、使い勝手が良いから解釈のしかた次第で広範囲に使える(悪いことにも使える)という不完全さや曖昧さがある。一見ゆるぎない言葉で、カッコよさに溢れる「 正義 」が、実は悪用する人にとっても最高の武器となることも確かで、これは現代だけの問題ではなく、昔から人は正義を悪用してきたし、正義の名の下に人を殺してきた歴史がある。それじゃあ諦めないといけない問題なのだろうか? 解決する方法はないのだろうか? どうやったらみんなが穏やかに楽しく暮らせるのだろうか?

正義は人を殺す
歴史を見ても、人は「正義」の名の下に人を殺してきました。宗教戦争はその最たるものだと思います。宗教戦争といっても異なる宗教間の戦争もあれば、同じ宗教の宗派間の戦争もありますが、十一世紀末から二百年続いた宗教戦争 十字軍の遠征は有名です。これは西欧カトリック諸国がイスラム教諸国からの聖地エルサレム奪還を目的として中東へ十字軍を遠征させたことから始まったものの、「正義」の名のもとに関係のない場所でも十字軍による戦争や略奪、領土を奪ったり、殺人も多く発生しました。欲望のままに行使された「正義」、その悪意ある「正義」は、相手のことなんて考えることもなく、自分の欲望に従って、それに反するものを悪とみなすことで正当化して繰り返されました。とても残念なことです。なぜだ?何とかしないと。

なぜ起こるのか そこに解決の糸口は?
グループ内で起こる正義という悪意
宗教や国家、会社、学校、友達のグループまで。私たちは常に何かに所属して生きています。生きることには沢山の不安定な出来事が起こりえます。そんな時、グループの一員であることで助け合い、不安定な出来事を乗り越えられるという良い面がグループにはあります。その代わりにグループを守るためのルールがあり、それを守らなくてはなりません。またグループにいることで芽生えるグループ愛もあります。それらがグループとしての絆を強くしていきます。正しくまわっている状態では全く問題の無く、むしろ良い仕組みです。それがある場合に悪い方向に向かうことがあります。それは自分の利益を優先的に考えるエネルギーにあふれた人、そのようなエゴが強い人間が悪意を隠してリーダーにのし上がった場合。または、自分の在籍するグループに敵対するグループがあり、負けないためにエネルギーにあふれた狂暴な扇動者が選ばれた場合。このような時にグループの正義が、悪意に染まっていき、過激な正義がルールとなって行く場合があります。そのルールは法律より強い縛りとなりグループ内の人を見張り、グループ内の人であってもルールに反した人は恐ろしい罰を受ける対象となってしまう。グループ外に対しては尚更です。自分たちが正義なら、相手は悪でしかなく、そこには検討の余地は無くなっていくのです。フセインが「アッラーの栄光のために」と人を殺したのに対し、ブッシュ大統領は「自由と民主主義を守ることは神の意思」と言って人を殺したのです。それぞれにはそれぞれの正義があり、相手は悪になってしまうのです。これだけに限らず、昔から「正義」対「正義」の対決は繰り返されてきたのです。解決するにはどうやったらいいのでしょうか。

各個人の倫理観の欠如
最近のSNSの誹謗中傷などをみているとグループとしての問題だけではなく個人としての問題もあると感じます。これらの倫理の欠如といえる個人の問題原因には、各家庭の孤立化や各個人の孤立化、育った環境、助け合わなくても生きていける生活、現状への不満やストレス、感情表現の苦手化、利益優先の考え、などなど多数あると思います。さらに倫理観が欠如した人が増えたことで、そちらの方が多数化、そちらの方が正義(普通)となり、今後、インターネットSNSの過激性に影響を受けながら、倫理観が無い人と過ごすことで一層進むんじゃないかと心配になります。どうしたらいいのでしょうか。

正義より人助け
正義じゃなく、人助けをしよう
人助けであれば、あなたも私も人だし、あのグループもこっちのグループも人だし、あの国の人もいれば、こっちの国の人もいる。人助けであれば、人のためにしていることなので、相手の国の人も人なのだから、人を殺すことには至らない。また、人助けなのだから、人が自殺するまで追い込むことも人助けでないから起こらない。「正義」という自分の都合のよい言葉をやめて、「人助け」という表裏の無い言葉を、そのままの言葉を使おう。そして「人助け」をしよう。「人助け」をこれからの世界基準にしよう。

倫理観と幸せと人助け
私は骨髄提供を行ったことをきっかけにして人助けに染まり始めました。そして続けていて気付いたことは、人を助ける数よりも助けられる数が多くなってきたということ。それは人を助けることで心が整い始めたことや、自分の生活のメインが心地よい場所での活動に移ったこと、そしてほんのちっぽけな人助けを繰り返すことで、自分の身に起こる小さな感謝したいことにも気づけるようになったことからでした。特に小さな感謝したいことに気づけるようになってからは、自分の幸せを実感できるようになりました。この辺の詳しいことは、「人助けを繰り返すと起こること」に記載しました。気になる方はご覧ください。
また、いろんな活動のなかで気づいた日々の過ごし方のヒントから、「おいしい」「面白い」「楽しい」「うれしい」「凄い」などの言葉を声に出してちょっとした場面でも常に言うことで自分や周りの人を幸せにしながら生きていけるようになりました。この辺の詳しいことは「食通は不幸」に記載しましたので気になる方はご覧ください。
このようにして自分の倫理観は育ってきたし、それらのお陰で自分は幸せになってきたと思えるのです。世の中の考えとしては、「お人よしは損をする」、「人助けをしてもなんの得もない」との考えが多いですが、悪意ある人に「ノー」と言える人助けが好きなお人よしは、最高に幸せです。最初は悪意ある人に「ノー」というのは大変かもしれません。はじめは自分の活動のメインとなる場所を心地よい場所にすることで、そのようなストレスを避け、自分の幸せを成長させるのが良いと思います。自分の心が育ってくれば、ちょっとした悪意には影響を受けなくなりますし、周りに良い影響を与えられるようになります。

他人からの影響
自分は幸せに生きようとしても他人や家族の影響で難しいと思う場合があります。私には第二次世界大戦の際に、軍人として中国に行っていた祖父がいました。戦争の影響なのか、家庭での祖父の正義はひどいものでした。乱暴という一言では終わらせられない凶暴さや暴力性がその正義にはありました。そのような環境で育った人間は同様に狂暴になったり、精神的に問題のある人に育ったりします。でも私は今、幸せに楽しく暮らしています。このように幸せに暮らせているのは、自分は祖父のようにはならない。祖父の人生を生きるつもりはない。自分の人生を生きると決めたからだと思っています。自分の最高の幸せな人生とは、自分も最高に幸せだし、大切な周りの人も最高に幸せな人生を送っている状態です。そういう人生を送ると決めたのです。そして私は正義よりも人助けを大切にしようと決めたのです。決意は大事です。

行動と幸せ
行動量や行動距離と充実感や幸福感、影響力、人格成長は比例します。自分の最近の行動を振り返ってみましょう。合理的過ぎてやしませんか?一般的に無駄と言われることが幸せを遠回しに運んできたりします。倫理観が高い人と一緒に過ごす時間はありましたか?ストレスがたまりすぎていませんか?小さなことに感謝を伝えていますか?小さな出来事に感動していますか?小さな出来事を面白がって生きていますか?

あなたの人生はあなたの選択で出来ている
私にとって最高に幸せな人生とは、年老いた時に自分や自分の大切な家族や友人が幸せな人生だったと言える人生を送っていることです。年老いたときに大切な人に囲まれて穏やかに笑顔でお茶を飲んでいる人生です。そのために、自分と他人を大切にしながら行動的に生きています。そして悩んだときは、自分や周りの大切な人たちの幸せな人生があるのはどちらだろうと考えるようにしています。
最後になりますが、これを読んでくださったあなた、そして全ての人に素晴らしい出会いが訪れ、素晴らしい人生、幸せな人生になることを祈っています。

あとがき
「正義」という言葉が日本で使われ始めたのは明治時代からでした。意外と新しい言葉ですね。
武士の時代が終わり、日本も欧米に負けない強い国にしようと始まった富国強兵、殖産興業。文明開化による日本近代化を目的として欧米の近代的技術・制度・風俗習慣が積極的に取り入れられました。その際に西洋的な概念に合わせて「正義」という日本語が生まれました。それまでの日本では似たような意味では「義」が使われていました。「義」とは、他人に対して守るべき正しい道。物事の道理にかなっていること。利害をすてて条理に従う。公共のために尽くす気持で、「利」の儲け、損得とは対極の考えでした。それに対しての西洋の「正義」の考え方の根幹には「報復的正義」、「配分的正義」があります。報復的正義とは「目には目を歯には歯を」に代表される犯罪に対しての刑罰も含めた報復は正義という考え方です。そしてもう一つの配分的正義とは、平等主義に代表される各人がそれぞれ持つべきものを実際に持つように働きかけるべきという考え方で「各人に各人のものを」という後世において格言となったものです。この正義は、報償であれ罰であれ各人が各人に相応しいものを受け取ることを要求することが正義という考え方です。日本と西洋では大切にするべき考え方は大きく違っていましたが、明治以降、日本の考え方は徐々に西洋化して来ました。
悪事の発生そのものを心の在り方で絶とうとしていた「義」と、処罰や配分で悪事を抑え込もうとした「正義」
人を傷つけることなく、穏やかに楽しく暮らせる生活を守れたら最高ですね。

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