隕石以外は可哀想じゃないわ

こういう時、祖母がいたら話すんだろうか。いや案外喉元過ぎたらなんとやらですぐ忘れて仕舞うのだろうか。

実習最終日の朝、台風一過で秋の運動会日和の朝に母と喧嘩した。朝方まで実習日誌を書いていて寝不足でいらいらしていたのか、今日で最後になる生徒たちを前にセンチになっていたのか。

今年高校三年生、サッカー部の弟の最後の大会。「ねえ、このパンフレットに写真載らなかったの。1.2年生は結構写ってるのに。」母のその言葉がものすごい嫌で無性に言い返した。
部活動においてスタメンをとること、ゴールを決めること、試合に勝つこと、結果が全てなら99%の高校生の部活動なんて価値がなくなってしまう。将来もサッカーを続ける人だけがやればいい。そうじゃないから部活動なんだと。周囲がそうやって勝手に落ち込んでるその機微を子どもは大人の想像以上に感じ取ること。それは時に写真に写れなかったことよりも本人を傷つけることを。
それでも母は、だから弟の居ないところで言ってるんだと。3年間誰よりも近くで支えてみてきたからそう思うんだと。至極真っ当である。でも、母の言葉尻に「かわいそう」を感じる度に言い返せずにはいられなかった。

私だって高校3年間マネージャーとして部活してきた。最後の年、私たちのチームは一勝もできなかった。母の言葉は弟を透過して当時の私に響いているように錯覚をしていたのかもしれない。じゃあ一勝もできないチームは可哀想なのか。マネージャーにはチーム内の競争あれこれは分からないと言外に言われているような気持ちになった。勿論被害妄想。マネージャーだって一緒にたたかっていたと、心底悔しいしもうそれを通り越して投げやりになることもあったと、大切な人には知っていて欲しい。忘れないでほしい。

そうやって考えながら着替えていたら涙がでてきた。指導教員には教育実習終わるのが寂しくて泣いてきたのだと思われて心底嫌である。階下では両親がこそこそ話している。子どもが何か言った時にそれを2人で共有して、お互いを肯定する様子は昔からものすごく嫌いな家の嫌なところ。泣いてみると、デトックスが必要だっただけのような気もした。ダシにしてごめんな弟よ。
でも泣いて分かったことがある。私は腹を立てていたのではなく、傷ついていたのだと。弟の3年間がまるで意味をなさなかったような、写真に載らないことがその3年間の否定だと言われているような気がしたのが。
私の人生の問の答えは大抵ハイキュー!!の中にある。佐久早の、「今たとえば空から隕石が落ちてきて、その人に直撃したらそれは可哀想っていってあげて。でもそれ以外はいらない。可哀想と思われることの方が可哀想。(ニュアンス)」優勝候補として、万全の準備を尽くして挑んだ大会で、キャプテン兼セッターの不測の怪我により3回戦で敗退した際の2年生エースの言葉。

私は基本的に人に可哀想と思わない。今日のことは、両親から感じた可哀想の波動に傷ついたということなのだろう。

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