天装戦隊ゴセイジャー放送10周年なのでゴセイジャーの魅力についてまとめてみた

はじめに

 私の推し戦隊作品の一つである天装戦隊ゴセイジャーが2020年2月14日をもって放送開始10周年を迎えるので、ツイッターの公開垢によるYoutube配信感想も軌道に乗ってきたし、感想をここでまとめることにした。
 ゴセイジャーの魅力は個人的には以下4点だと思っているので、順に説明する。
 ・多民族の織りなす民主主義社会の理想形
 ・リーダーではなくマネージャーな主人公
 ・人間社会の歴史の縮図である敵組織
 ・ゆるふわな日常系戦隊の走り

多民族の織りなす民主主義社会の理想形

 まずゴセイジャーの初期メンバーは人間ではなく護星天使と呼ばれる人類の亜種から構成されており、しかもそのメンバーはスカイック族2名とランディック族2名とシーイック族1名という多民族から構成されている。
 そのため序盤では楽天家なスカイック族と頭より体が動くランディック族と慎重派なシーイック族が衝突し合うことになる。しかし話が進むにつれて衝突を介してお互いを理解していくようになり、四部構成のうち第一部終了の時点でメンバー間が仲良くなっていき、第二部以降の5人の仲の良さにより後述の日常系戦隊という作風を醸し出していくことになる。
 また第二部では追加メンバーのゴセイナイトと呼ばれる人間態を持たない合体前メカが突然変異した生命体が登場し、彼の世間知らずかつ元主人の性格に起因するツンデレっぷりに5人が振り回されることになる。しかしゴセイナイトについても第二部や第三部にて護星天使5人だけでなく、彼らの居候先の息子である人間・望の協力も得て、かけがえのない仲間になっていく。また彼らをサポートするロボ・データスや、アバレヘッダーと呼ばれたミラクルゴセイヘッダーすらも仲間になっていく。
 このように多民族の護星天使だけでなく、人間やロボ、機械生命体までも仲睦まじくしている様子は、まるで多民族、多種族の織りなす民主主義の理想形を示しているようにも思う。これは後述の悪しき魂が人間社会の歴史の縮図になっていることと対照的であり、実に味わい深い。

リーダーではなくマネージャーな主人公

 戦隊にはリーダーがつきものとされており、前作のシンケンジャーの殿はまさに典型例で殿と家臣たちという構成になっていた。また次回作のゴーカイジャーもレッドが典型的なリーダーだった。
 しかしゴセイジャーはEpic.35「パーフェクトリーダーを探せ」にて、明確なリーダーがいないことが描写された。ゴセイナイトは強くて頼もしいが「私はリーダーではなくヘッダーだ」という名言に表されるようあくまで護星天使のサポートに回っている。また護星天使5人についても他の誰かが動くとその誰かに合わせて勝手に体が動くと名言しており、リーダー不在でも組織が動くとしている。
 とはいえリーダーがいなくてもそう簡単に組織が動くのかという疑問がある。その疑問の回答が、主人公であるゴセイレッド・アラタの位置づけにあると考える。
 アラタは第一話からして変身道具であるカードをなくすという失態をやらかし、幼馴染のエリにこき使われる、Epic. 28で落ち込んだ天知博士の相手を押し付けられる、エピックON銀幕では買い出しを押し付けられるという、リーダーからはかけ離れた存在である。
 しかしアラタはこき使われてもそこまで不満に思っていない。また、先述のEpic. 35を筆頭に、アラタの気づいた点や提案がきっかけでゴセイジャーが事態を打開したり物事の本質に気づいたりする局面が多数あった。じゃあアラタはいったい何なのか。
 そう考えるにあたり、本放送直前に流行した一つの書籍にたどりつく。それは

 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(通称もしドラ)

である。Epic. 35でアルティメットゴセイグレートの合体形態を思いつくあたりはイノベーションに相当するし、リーダーを立ててうまくいかなかった事態に対して「いつもの自分たちでいこう」と提案したあたりは各メンバーの強みが分かっていることだからできた話だし、Epic. 45で年末年始気分で浮かれている他の4人に対してブレドランのおさらいを提案するあたりはマーケティングに相当するし、さらに最終2部作(Epic. 49か50かどっちか忘れた)にて「星を護るは天使の使命」というキャッチフレーズに対して「ただ星を護るだけではダメだ」と諭すあたり、星を護ることで顧客(本作では地球に生きとし生けるもの全て)に何を提供できるかを考えているが故の発言であると考える。また使いっ走りを任されてもさほど不満に思わなかったのも、組織を潤滑に運用するためだという目的があると考えると納得がいく。そのため、

 アラタはリーダーではなくマネージャーである

と考えると全て合点がいく。もしかしたらスタッフの皆様はもしドラを参考にアラタのキャラを設定していったのかもしれない、という推測までしてしまうレベルである。先述のゴセイジャーが多民族の織りなす民主主義社会の理想形が形成されていくという話も、根底にリベラルな思想が流れているもしドラが絡んでいるとなると実に納得がいく。
 またアラタ役の千葉雄大さんがインタビュー記事か何かで「アラタは前を走って先導するタイプではなく、後ろからメンバーを後押しして導くタイプ」とおっしゃっていたことも象徴的だった。(出典元を完全に忘れてしまいました。すみません。)
 ちなみに今までの戦隊にはなかった新しいレッドという難役を演じきった千葉雄大さんは10年経った現在でもテレビや映画で大活躍中であり、ゴセイジャー推しとしては本当にうれしい。

人間社会の歴史の縮図である敵組織

 ゴセイジャーという作品は第一部から第四部までで構成されており、それぞれの部で敵組織が変わるという趣向を凝らした作品である。そのため放送当初は「なんで天使の敵が悪魔じゃないんだよ」という声も少なからずあったようだが、実は最後まで見ていくとその真意がわかるという構成だった。
 敵組織である悪しき魂をざっと列挙するとこんな感じである。

 第一部:ウォースター
  宇宙生命体から構成される、鎌倉時代の封建主義社会的組織
 第二部:幽魔獣
  地球の怪物から構成される、江戸時代の村社会的な組織
 第三部:マトリンティス
  元人間とロボットから構成される、戦時中の全体主義的な組織
 第四部:地球救星計画
  元護星天使と合体前メカ変異生命体から構成される、
  現代における原理主義の狂信者が集まったような組織

 本放送当時では大型匿名掲示板である2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)の本スレッドにおいて、「話が進むにつれて敵の構成員が護星天使に近づいていってるためゴセイジャーからすれば戦いにくくなってるあたり面白い」という考察および感想が書かれており、非常に興味深いと思った。
 またそれだけでなく、鎌倉時代→江戸時代→第二次大戦中→現代、と、まるで人間社会の歴史の縮図となっていることに気づき、こちらについても非常に興味深いと思った。
 このように民主主義社会の理想形と見做しているゴセイジャー側と、現実で起こった人間社会の歴史の縮図として見做している悪しき魂側が、対照的になっているあたりも非常に面白いと思った。

ゆるふわな日常系戦隊の走り

 以上、堅苦しくて小難しい話ばかり語ってきたわけだが、ゴセイジャーはそんなこと考えずともそのゆるふわな空気を楽しめるのも魅力の一つである。
 今までの戦隊だと拠点が秘密基地だったり魔法部屋だったり御殿だったりと非日常な空間だった。アバレンジャーの恐竜やも飲食店ではあったが、幸人さんの財力により基地機能を持つよう改造されており、有事の際には基地然とした外見になっていた。それに対してゴセイジャーは基地機能をデータスというロボットに集約させ、合体前メカを巨大化および縮小化できるようにすることにより、プラネタリウムと望遠鏡こそあれど

 外見からすればただのリビングルーム

が拠点という、それまでの戦隊にはなかった形態が非常に斬新だった。また、第一部でメンバー間の衝突がほぼ済んだため、第二部では少なくとも護星天使5人は仲良しだった。そのため、拠点内でのメンバー間の掛け合いが日常系アニメ、たとえばあずまんが大王やけいおんをはじめとするまんがタイムきららアニメといったゆるふわ系作品に近い雰囲気となった感があった。さすがに戦隊である以上は戦闘シーンがあるため完全な日常系作品というわけではないが、戦闘シーンにおいてもアラタがEpic. 36でノリツッコミみたいなことをやっており、日常系作品にかなり近いという認識である。また、Epic. 43で護星天使4人が翌日のマトリンティスとの最終決戦への決意と覚悟を固めている緊迫感の高い状態で、アラタが「今日はもう寝よう」と諭すシーンは日常系作品の典型的なシーンであるように思う。
 この日常系戦隊は当時だと前作が緊迫感の連続だったシンケンジャーということもあり、ユルすぎて眠たくなるという意見もあった。しかし、日常系戦隊はゴセイジャーにとどまらず、4年後のトッキュウジャーや6年後のジュウオウジャーでもかなり近い空気になっており、日常系戦隊という作風が継承されている感がある。ジュウオウジャーも拠点がただの部屋、しかも基地機能は全く持っておらず、ゴセイジャーの作風をさらに押し進めた形になっている感がある。

終わりに

 以上、ゴセイジャーの魅力について語ってきたわけであるが、ゴセイジャーの魅力を一つだけ追加しておくと、スタッフやキャストの皆様から与えられたものを楽しむだけでなく、

 自分で考察する楽しみを教えてくれた貴重な作品

だと思っている。当時の私としてはカルチャーショックであり、ゴセイジャー以後は好きな作品を自分で考察することを主体に楽しむようになった。そのため作品の好みもだいぶ変わってきたかもしれない。
 最後にこの言葉をもって本コラムを締めくくりたい。

 ゴセイジャー10周年、おめでとうございます。


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