おもいでの「先生」
幼稚園から大学までぼけーっと振り返って思い出せる先生は数人しかいない。名前と顔を覚えるのが苦手だからと言って1~3年担当してくれた人のことをろくに思い出せない自分の記憶力というか、人への興味のムラがほんとすごいなと思ったりしたのでちょっと書き出してみる。(とりあえずいまは酔ってる。)
学生時代漠然となりたくないと思っていた職種は「接客業」と「教師」だった。コミュ障なのは自覚していたので接客は無理。教える仕事については、音楽系の部活で後輩に演奏の仕方を教える担当になってへったくそな指導しかできなくて「わかんない…!!」ってまじめな後輩を泣かせたのが完全にトラウマになった。気がする。
そんなこんなで「教師」は自分は絶対になりたくもない大変なお仕事をしている奇特な人だった。
その「奇特」な方々の中で抜きんでていたのが私の小学校5&6年生の時の担任の河合先生だった。
担任になるまで、はたから見るとめちゃくちゃ体育系の鬼教師にしか見えない感じだった。無茶苦茶に声がでかい。ちょっとでも列やら足並みを乱すと怒鳴られる。怖い。
5年生になったとき、担任が河合先生だって知ったときどう思ったんだっけか…。あんまり記憶にないけどそれまで怖い先生代表だったのは確か。
なんだけど、実際担任として接するとものすごく優しくて、絵にかいたような熱血体育教師で、尚且つ新しいもの好きな面白い人だった。(列を乱すと無茶苦茶でかい声で怒鳴るのも接してみるといわゆるノリだってことがわかった。怒ってるわけじゃない。けど周りには列が乱れていることをわかりやすく指摘して整えるためのものというか。いやわかんないわそのノリ、クラスの担任にでもなって毎日顔を合わせないと。)そして当時としてはかなり本人が破天荒だった(朝のホームルームになかなか現れないなと思ったら骨折したとかで松葉杖で登場したことがあった)し、生徒に対して自由度が高いというか、自分の信じる道を進ませるタイプの先生だった。
体育はどの科目よりもダントツに苦手だったはずなんだけど体育で劣等感を覚えるような記憶はほとんどなくて、好きだった音楽とか図工の時間に褒めてくれたりチャンスをくれたことしか覚えていない。たぶん先生もそういう作ることが好きな人だった。
なんでか教室にはお古?のワープロが置いてあって好きに触れるようにしてくれていた。うちのクラスだけ。なのでそこでちょっとタイピングを覚えた…ような気がする。
私は部活で金管部(ブラスバンド)に入っていて、トランペットの2ndパートを担当していた。河合先生も音楽が好きらしく顧問でもないのにいろいろ手伝ってくれていた。河合先生が各パートの楽譜をMIDIで打ち込みして音源(カセットテープ)にしてくれたり。(90年代前半だったんだけど何使ってたんだろ。)
ずっと五線譜が読めないままで、カタカナでドレミファソラシドを楽譜に書き込んでいた自分にはめちゃくちゃありがたかった。たまに音間違ってたりもしたけど。
6年生の卒業制作は普通なら校舎の壁とかに壁画を描こう!みたいな物理的に残るものを作るのが暗黙の了解だったのを「CDを作る!!」って言いだしてみんなで合唱と演奏を練習してレコーディングをした。めちゃくちゃ楽しかった。多分録音も編集も先生がやってくれたんじゃなかったかな。CD量産は業者にお願いしたはずだけど。
「パーソナルコンピューター」がまだ普及していなかった頃にその使い方を見せつけ、楽しい思い出をくれたその先生のおかげで私はたぶん今の仕事の方面に進むきっかけになったんじゃなかろうか…と当時を思い出して改めて思ったりする。
先生もう定年したのかな。元気かなー。