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遊びを知らない大人たちがつくる社会

#学力消費社会
#受験戦争
#全国学力学習状況調査

以前の記事で、学力消費社会によって子供が主体性をなくしてしまうことについて述べた。今回は、そのような学力消費社会が継続することによってどのような社会へと変化していくのかについて考察をしたい。

さて、学力消費社会では際限のない学力の向上を求められるために、子供の学びに対する主体性がなくなっていく。その社会で育った子供が大人になった時に、どのような大人になるのか、また社会になるのだろうか。

まず、学力消費社会において育った子供は、小さい頃から習い事や塾に行くのが当たり前で、与えられる事が常になっている。という事は、当然ながら自由に遊ぶ時間が少ない。この「遊ぶ時間が少ない事」が大きな問題となる可能性を秘めている。

あなたが子供だった頃を思い出してほしい。遊ぶ時、何か目的や目標があって遊んでいただろうか?おそらく、ほとんどの人が目的もなく、目標もなくただ何となく遊んでいただろう。ただし、夢中になって。例えば、木の棒が落ちていて、それを使って砂に絵を描いた経験はないだろうか?その時、「ただ何となくやってみたいから」という理由以外に何かしらの理由があっただろうか。おそらくないだろう。しかし、その時のあなたは飽きるまで夢中になって砂に絵を描いたはずだ。例えば、砂浜で山を作った経験はないだろうか。満潮が来たら、どうせ崩れるにも関わらず、山を作り、時にはトンネルまで掘った事があるだろう。その時、目的や目標なんてなかったはずである。しかし、その時ほど自ら進んで実行しようとしていたはずである。つまり、遊びの体験とは、我を忘れて何かにただ夢中になるという経験である。

しかし、学力消費社会において、早くから塾や習い事に通う事になった子供たちは、その夢中になる経験が少ない。言い換えれば、自ら進んで特に目的や目標、理由のない何かをやるという経験が少ない。逆に、何をするにしても目的や目標を形だけでも持たされる。

当たり前だが、大人になるときには、それまでに経験した子供の頃の学びのプロセスが一種の成功体験として残る。成功体験として残るという事は、大人になっても主体的に何かに取り組もうとする事がなく、誰かの言う通りに、与えられる通りにする事が正解であり、自分にとっての正解となるということである。したがって、大人になっても遊び方がわからない状態になる。私は、遊び方がわからない状態とは、目的や目標なしに行動する事ができない、夢中になれないという事であると定義する。

遊び方がわからないとどうなるか。とりあえず、誰かがやっている事をやって遊んだ気になる。SNSで上がっていたお店に行ってみたり、動画サイトで見たキャンプをしてみたりする。そう、とりあえず。しかし、多くの場合、夢中にはならない。自分が本当に主体的にそれをしているのかも自分ではわからない。わからないから、SNSで承認される事で、それがどうも遊んでいるという事で良いらしいと認識するのである。なぜ、遊んでいるかどうかがわからないのか?目的や目標がないからである。

このように、学力消費社会において育った子供は、目的や目標がない状態に耐えられないのである。そして、もちろん他者の行動に対しても目的や目標を求めてしまう。

これは、時代の流れと言えばそうで、それで片付けてしまっても日常の生活をする分には問題ない。

しかし、国という範囲で考えた時に、これは良くない事態をもたらす。

どういう事態になるか?
私が推測する事態はすでに起きている事であるが、大きく2つある。

1つは、教育格差が拡がる事である。国の省庁に勤める人たちは、どのような人たちだろうか?そう、難関の国家試験を突破した人たちだ。難関の大学出身で、難関の中高一貫校出身の人たちが多いだろう。つまり、学力消費社会にどっぷり浸かってきた人たちが多い。だから、教育の政策は、学力消費社会で成功してきた人たちが、自らの成功体験をもとに考えていく事になる。もちろん、そうでない政策も案として出るであろうが、過半数を越える事はないだろう。すると、全国学力学習状況調査の結果公表のように、公教育においても競争をさせる事で数値の上での学力の向上を目指すようになる。前の記事で学校が塾化している原因はここにある。学力消費社会において大人になった人たちには、各自治体の平均を公表する事に何ら違和感は感じないのであろう。自分の成功体験のうえでは、競争させる事で学力が上がるのだから。しかし、競争によって上がる学力は、一部の児童生徒であり、半数は変わらず、残りは余計にやる気を失う。そして、主体性を失う。学力消費社会で成功した人たちも、主体性を失っているだから。こうして、格差が拡がり、すると、競争に耐えられない子供が不登校となる。

この事態は、もう少し深刻で、不登校は増え続けている。その理由は、どうして学校に行けないのか?行かないなら何をするのか?何を目標とするのか?といった事を家族や身の回りの人たちに聞かれてしまうからだ。今の不登校は、明確な理由がない事が多い。それは何をするにしても、理由や目的、目標を求められるから、遊びがなくなるからだ。だから、つまらない毎日になり、学校に行けばよりそれが顕著になるので、不登校になる。子供は、目的や理由、目標を聞かれる事に疲れている。

では、なぜ大人は目的や目標、理由を聞くのか?数値を上げるためには、目標を立てる事が必要であるからだ。計画的に物事を進める方が、達成率は高くなる。それを学力消費社会で育った大人は、成功体験として残っているため子供にも求めるのである。

つまり、学力消費社会で、小さい頃から大学を目指す層と、不登校になり義務教育すらまともに受けられない層に別れていくのである。

2つ目に、国の中枢が機能しなくなる事である。これは、国の政策全てに対して、納得ができる明確な目的と目標が必要になるからである。どういう事か?教師不足の対策を例に考えよう。

教師の負担軽減のために、教科担任制を小学校高学年から実施しようとしており、国は予定を前倒しにして採用数を2000人近く増やす予定である。この目的は、負担軽減である。ここまでであれば、目的と行為が一致しているため、納得しやすい。また、政策としても分かりやすい。しかし、納得できない人たちがいる。財務省の人たちだ。2000人近く採用を増やすとすると、100億ほどの予算が必要になる。その予算を出すための明確な理由が必要である。1人あたりの授業のコマ数が変わっていない、少子化で1人あたりの児童生徒数は以前より減っているというエビデンスがあれば、教師が以前より忙しくなっているという事を納得できるように説明する事は途端に難しくなる。そのような流れになると、もはや当初の目的とは乖離した所で議論せざるを得なくなる。そのうち、目的達成のための目的や目標が必要になり、より文科省や教師の負担を増やす事になる。

そうこうしているうちに、当初の目的や目標とは違うものに変わってしまう。学力消費社会において、何に対しても目的や目標を持つ事を求められてきた結果、何かを決断する時にも目的や目標、理由が必要で、そのための議論をする事が相手の目的や目標を潰す事や、すり替える事になっている。これでは、国民の納得を得られるはずもない。

そして、政治家は、支持率ばかりを気にするようになるし、メディアは、国民が納得しない状態を作り上げる、またはそう見せかける事で、より明確な目的や目標、理由を国に求める。

今の国の中枢の仕事は政治をする事ではなく、ただただ得体も知れない「誰か」のために理由を説明するだけである。

正直なところ、納得するための理由より、納得しない理由の方が多くなる。そうしている間に、国の政策は遅れ、やるべき時にできなくなっている。こうして、国の中枢が機能しなくなっている。

しかし、遊びを知っている大人であれば、何かをするために理由などない事を知っている。夢中になるために目的などない事を知っている。遊びを知っている社会では、寛容さがある。

本当はみんな、目的や目標をいつでも何をするにしても求められる事に疲れている。疲れているからこそ、誰かにも目的や目標を求め、それを潰そうとしてしまうのである。

人々から寛容さがなくなる事。これが、学力消費社会の大きな弊害である。

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