起床

今朝久しぶりに父親に起こされた。
開口一番に聞いた一言、「宮崎のじいちゃん死んだ」だった。

え?という受け入れられない戸惑いの気持ちと89歳だったということである意味の受け入れやすさ。どちらもあった。

とりあえずスマホで時間を確認するとLINEの通知が数件。「お誕生日おめでとう!!」

どうやらグループでの誕生日メンバーを祝っていた。

誰かが今日も生きる1歩を踏み出した日は誰かにとっては永遠の眠りにつく日であるという至極当たり前なことを実感した。

宮崎にいる祖父母は父方で、年齢は僕の父と母で離れているので宮崎の祖父母のほうが総じて上だ。

ばあちゃんは僕が中学2年生の頃に逝った。

その前の小6と中一の夏休みに宮崎に遊びに行ったりもしてて、亡くなる2週間前にいきなり病院で寝たきりになったので、その時もうほとんど喋れないばあちゃんに最後の挨拶に行った。


さよならを言える幸せな別れだったんだと思う。

そこからじいちゃんは1人になったのだが、僕が高校生の頃のある日、小腸かなんかが悪くて入院したと聞いた。

詳しくは分からないが食べるものには細心の注意を払わないといけない生活はここから始まったみたいだった。

宮崎にはお父さんの叔父もいたので、彼がじいちゃんと一緒に住んでくれていた。

最期は故郷である宮崎県がおじいちゃんにとってもいいだろうとは前々からあったので、わざわざ愛知県まで来て一緒に暮らすことはしなかった。

その後は無事退院し、
またしばらくして入院みたいなことがしばしあった。


おばあちゃんが生きてた頃からだが、定期的にお父さんが電話をしていて、いつも一通り話しをした後家族に一人一人携帯を回して話させたりしていた。

僕にとって2人が生きているというのが当たり前だと思っていた幼い頃。その電話は、ちょっと内心面倒だなと思いながらだったと思う。

嫌いなわけじゃないけど、わざわざいいのに。という気持ちだった。
ただばあちゃんはが寝たきりになってから最後の電話はいつになるか分からないということを知り、

これがこの人との最後かもしれないんだから人と話す時には愛を込めておかないとな、
とそこから意識し始めた。


おじいちゃん1人になったあとも、退院などで落ち着いた時には電話をしていたのだが、声も昔と大きくは変わっておらず元気でよかったと安心した記憶がある。
いつも僕の方から話すことよりも、おじいちゃんの方から聞いてくれることの方が多かった。

大学はどうだ?とか何か取り組んでいるのか?
みたいなことことを聞く。
お互いの人生の進捗享有みたいな時間だった。

じいちゃんはほんとにとにかくかわいかった。大人しかった。若かった頃は公務員で役所から何度も表彰される真面目でしっかり者だったみたい。

記憶は遡り、

小学生の6年生のゴールデンウィークに遊びに行った時、将棋を教えてもらった。その時おじいちゃんから将棋盤とコマまでもらった。

1年後の夏休みに姉とふたりで宮崎に遊びに行った時も将棋を指した。そして一年前の帰りに空港でけん玉を買っていて、1年間練習した成果を2つとも見せたら喜んでいた気がする。
あとじいちゃんばあちゃん姉ちゃんとで甲子園で準決勝か決勝に出ていた宮崎の高校の応援に盛り上がった記憶もある。

あとじいちゃんは動ける間はグランドゴルフも老後にやっていた。なんかじいちゃんの名前をインターネットで検索すると大会で2位だったみたいな記録が出てきて、意外な強さに家族で笑ったな。

最後に話したのは1月。父親が宮崎に帰り、スマホを買ったじいちゃんに使い方を教えながらカメラをつけて電話をした。

久しぶりに見たおじいちゃんの顔は小学校の頃あった時とほとんど変わっていなくてびっくりした。
最後に顔を見て話せてよかったや。

じいちゃんは
勤勉な人で、不平不満も全然言わないで生きてきた。そしてとっても素直だ。

改めて彼のことをそう思った。


僕もこんなおじいちゃんになりたい。
そう思える人だった。



お父さんがあちこちに電話をかけている声が聞こえる。

人を弔うための一連の大仕事って、故人の人生に改めて向き合う場面であると同時に、
その時慌ただしさからいい意味で悲しみを紛らわせるための大変さなのではないかともと思った。

なんか感情がまだぐちゃぐちゃで文章がきっとおかしいんだけど僕はちゃんと向き合えたよ。

さいごに
おじいちゃん今まで本当にありがとう。
今頃5,6年振りにおばあちゃんと再会できてるかな。

安らかに、安らかに、眠ってください。

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