不完全
僕は自分に厳しくて甘い。
何を言ってるのかわからなくなるが。
“完全”を自分に求めているくせに、その手前では常に自分に甘すぎる。
なんか僕らはどこかで、このままいればいつかは最終的に完全になるんじゃないか、この世の、宇宙の、真理を見ることができるって思い込んで生きている気がする。そうじゃなかったらこんなにのんきに暮らしてないだろう。
僕らなんて不特定多数の人を指してしまっていて、申しわけない。
けどまぁ、すくなくとも僕はのんきだ。
待ってるんだ。ずっと。
これとは逆に
どうせほとんど理解できずにこの世からいなくなるはずなのに、なにをこんなに悩むんだという日もある。
これを知っても世界に発表されるもんでもないし、僕の考えたことなんて僕が死んで数年もしたら完全に消えるはずだ。周りの記憶からも、なのになんでこんな必死に考えてるんだろうって。
僕はいつも不完全だ。完全が何かを知らないから。
完全をどこかで知れるとのんきだから。
仮に知ったときにはもうすべてが遅いだろう。
ただの肉塊でしかない。
これを考えると震える。恐ろしい。
人が生きる中で感情を持つ意味
だれのためにどう存在して、どんなものをどこにどう残すのか。
そもそも消えたときにはそんなことなにも覚えてはいないのに。
なんで己の認識した空間にすべて残せないのに、
こんなにも頑張って、なにかを渇望して、
それを原動力に、何かしようとするのだろうか。
生きている間の自分がいるという意識が与えられたことには最終的に何のわけがあったの。
どうしてそれすら説明されずにここに平気でいられて、僕はのんきに完全を理想とし、それをいつか知れるってこころのどこかで感じてのんきに過ごしていられるのだろうか。
こうやってなんのなににもならないことを考えていることすら何なんだと思えてしまう。
この言葉は自分の中だけで残しておくべきなのか。
ひとりくらいにならつたえてもいいのか、と。
いったん思考を放棄してみる。
放棄したら人間じゃない何かになれる気がしたから。
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