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ナゴヤ座的 新説SEIMEI進化論

幼少期から、サウンドノベルが大好きでした。選択肢によって物語の展開や結末が変わる、ドキドキ、ワクワク。ストーリーの流れは同じでもそこに辿り着くまでの反応や表現が違って、一度エンディングを迎えて周回していくと選択肢が増えていく、アレです。
今回ナゴヤ座の舞台を観劇してまさにこのマルチエンディングゲームのような印象を受け、刺激を受け、そしてここにきて更に改編が展開されたナゴヤ座の舞台。もともと考察好きなので頭の中には色々な解釈が渦巻いており、超個人的な解釈と考察と感情先行のアウトプットを書き連ねることにしました。ネタバレを多大に含みますので、それでも良いよ、と思っていただけるようでしたら是非お付き合いください。

今回はナゴヤ座のこちらの演目についてのおはなしです。まずは改編前。(現在はチャンネルのメンバーシップ会員限定の可能性あり)

2021.9.18 ナゴヤカブキ「SEIMEI-平安陰陽譚-」

ナゴヤ座の魅力の一つとして配役変更があります。日替わりでこの人がこの役を、次の日には敵対する役をこの人が、などなど見どころ満載。日々細かい演出が変わることもあると思いますが、この配役変更に伴って役者さんの組み合わせも加わると、また違う印象を受けるんです。
先日念願叶って初めて現地でナゴヤ座の舞台を観劇できて、そのときに感じたのは役者さんが動き回るたびに振動が伝わってくる臨場感。表情の移り変わりも細かく観えて、口の端を上げて笑う様や、道満が謀反を指摘され「おやおや……」と竦めるような表情や、自身が最後の贄になって酒呑童子を取り込んだ後の憑依っぷり、晴明達に囲まれて自身の力が敵わないと悟ったときの哀しげな表情……挙げたらキリがないです。配役変更の中でも、まだまだ出てくる新役登場!もあります。今までやったことがなかった役をこの人が!という驚き、それもナゴヤ座の魅力の一つです。

私が観劇したときに、サンエーさんの新役、晴明がありました。その回ではトラザさんが玉藻前さまで、晴明に慈愛の眼差しを向ける玉藻前さまと、新役初日のサンエーさんに慈愛の眼差しを向けるトラザさんがオーバーラップしてしまう場面がありました……。これも組み合わせの妙で、別の回では仲間だったのに別の回では敵対する配役に一変。こういうの本当に面白い。
お話の中で『手を差し伸べる』『手を合わせる』場面がいくつか出てきます。これは後ほど改めて。あとは「間」。その「間」から伝わる心情と、言葉の一つ一つも演じる役者さんによって違って、表情も違って、届く印象が変わる。感情向き出しで言う台詞もあれば、「無」を感じる日もある。それが逆に怖くもある。

この人が演じるときにしか観れないものもたくさんあります。例えばトラスケ晴明のときは、冒頭で酒呑童子と戦う場面で式神ちゃんと一緒に舞うの、あの場面も好き。
男鬼に「お前に何が分かる!」と掴みかかられた博雅が「何もできぬ、何も分からぬ、だが聞かせてほしい!」と訴えかける場面。サンスケ博雅は、ここで男鬼の手をグッと握ったんです。来世では報われるように願ってからトドメを刺す場面も、斬ったあとに晴明と博雅で手を合わせる場面も。サンスケ晴明のときは、黄泉との狭間で語る場面で「2人は夫婦となり……」と、今は亡き両親のことを優しく微笑みながら話していたのも印象的。
別の回では道満さまはダエさん。ある場面で、トラザさんのときは一歩一歩にじり寄ってグッと刺してもう一回差し込むところ、ダエさんはスタスタスタって真っ直ぐ歩いてサクッと刺しちゃうの。こういうところでも配役変更の面白さが観れました。
一幕の晴明と博雅が共に戦うと決めた場面。晴明と博雅と玉藻前さまが微笑み合うあの雰囲気大好き。それが二幕ラスト、笛に名を与えられて微笑み合う場面に繋がる気がして、ここでも泣けてしまった。
どうしよう、ただただ好きな場面の羅列になってしまう。
そして、改編後。(現在はチャンネルのメンバーシップ会員限定の可能性あり)

2021.9.29 ナゴヤカブキ「SEIMEI-平安陰陽譚-」

改編後は、よりそれぞれの心情が解りやすく言葉で表現される場面が増えました。表情や「間」から感じ取るものも大好きだけど、ある一つの解釈として言葉にして提示してくれることで自分の解釈の裏付けにもなるし、捉え方の幅が広がる。

玉藻前さまの心情もより深く観えた場面がたくさんありました。かつて愛した人(敢えて人と書きます)とは結ばれなかったけれど、その愛した人からの必死の願いを叶えてあげたことが、葛の葉への深い愛情の証。改編後は、黄泉の狭間で晴明に語りかける場面で台詞が加えられ、晴明の父は強く優しい男だった、この男になら葛の葉を託しても良いと。本心でもあり、根にある想いはどんな色をしていたのか……。晴明は幼き時に一度命を落としていたが、葛の葉の必死の懇願に玉藻前さまは愛した人の命と引き換えになったとしても、その人の一番の願いを叶えたのでした。それが、晴明の命に繋がっている。愛する人の忘れ形見である晴明を必死に守り、慈愛の眼差しを向ける玉藻前さまが美しくも儚く。「もう迷いは晴れました」という晴明に「では行け」と後押しする場面。ここではトラザさんが演じる玉藻前さまは、「我が愛した、葛の葉の忘れ形見」と言うのです。「わらわ」ではなく。他の場面では玉藻前さまの一人称は「わらわ」だけど、ここだけ「我」になるの、この使い分けも心情が見えてきて色々考えてしまいました。葛の葉への想いは「我」の意志であり、葛の葉の前では「我」と言っていたのかな、等……。葛の葉へ直接愛していると伝えたことはないだろうけど、きっと伝わっている深い想い。
一幕で博雅に正体を明かす前、「2人はどういう関係だ?」と問われ、晴明にそっと寄り添って腕を組んで揶揄っていた様子がとても微笑ましかった。でも、関係性を思うとこの寄り添う姿にも少し切なさが残る。考察を経て捉え方が変わった場面でした。

晴明が半妖であることを道満に知らされる場面では、知られたくなかった晴明、そんな晴明を守りたい玉藻前さま、ショックを受ける博雅……ここの心情トライアングルたまらん……!一幕で博雅が「お前に力があるから言えるのだ」と言う場面があり、でもそのあとに「お前にもできないことがあるのだな」と続くのですが、「むしろ、できぬことばかりです」と悲しげに微笑みながら言う晴明も切ない。
あと、一条戻橋で「お前が何者でも関係ない!」と晴明に向かって叫んだ博雅の台詞は、かつて安倍益材(晴明の父)が葛の葉に言った言葉にも思えました。これはトラスケさん演じる玉藻前さまの「(益材は、葛の葉が)妖怪と知った上でも深く愛した」という追加台詞を受けて解釈が広がった場面。

このお話を繰り返し観て、道満が救われる結末はないのだろうかと考えてしまったんです。全てを支配する力を手に入れたかった、最期まで自分の信じる理を手放さなかった、だからこそ晴明の手を取ることができなかった、哀しき悪。縋るように自らも贄となり全てを支配する力を望んだ鬼神・酒呑道満。晴明に「その甘さがこの国を滅ぼすことになる」と言い放っていたけれど、博雅を殺めなかった自身の甘さで最終的に身を滅ぼすことになる……でも!改編後、ここで大きな変化があり、道満は博雅までも斬り捨てたのです……!え!!!って、配信を観ながら声を上げてしまうほど驚いた。改編前は「晴明さえ倒せばお前の命などどうでもいい」とトドメを刺さなかったのに……これはマルチエンディングの違う選択肢を選んだかのような、まさにそんな印象でした。博雅が刺され、玉藻前さまも刺され、バッドエンド感ヤバかった。
前後しますが、ここでの玉藻前さまの選択肢めちゃくちゃ大事。あの場面ですぐ晴明の後を追っていたら博雅は助からず、後に道満を倒せなかった。きっと玉藻前さまは晴明の願い(博雅の命を救う)=葛の葉の願いをここでも叶えたのだと。あのとき、葛の葉の願いを受け入れたように。改編前は、道満と博雅を残して晴明を追っていく場面なので、ここも大きな変化でした。

それぞれの役の立場になって感情移入してしまうと、何を信じ、何を守り、何を手に入れ、何を望んでいるのか。全部違うから交わうことができないまま共に生きる選択肢がそこにはなく。孤独な鬼だと突きつけられた道満の最期、怨念という執着と、どんな形であれ想いを残したかった、自分が居た証を残したかったのではないかと、後から思います。哀しき悪が救われる結末はないのかも。それぞれ信じているものが違うだけで、どちらが正解か決められない。自分がどちらの視点に立っているか。正しい、正しくない、は正直解らなくなることばかりだから、信じられる、信じられないという判断ならできる。という着地です。終盤で客席も協力して道満にお札を掲げる場面がありますが、心情的に道満を救いたくてお札を出すのを躊躇ってしまう気持ちもありました。と思っていたらここでも改編があり、今までの『道満を倒すために』ではなく、『博雅を助けるために』と視点を変えてくれたのです。ここの改編、私は大好き。

サンスケ晴明を観ていると、晴明を救いたいという想いがとても伝わってきます。二幕ラスト、暗転する直前にサンスケ晴明が手を合わせていたのを観て、嗚呼、これは道満へ向けて……と解釈しました。泣いた。道満は酒呑の力に縋るしか残された方法がなくて、人であることに未練などないと言っていたけど、でも止めてほしかったという想いもどこかにあったのではないか……それを救いたかった晴明、応じないと解っていながらも繰り返し正そうとする晴明……。きっとこの物語では、この結末で良かったのだと思います。
何を守りたいか、という点で追記したいのは、玉藻前さまにとって最優先とするのは晴明の想い(=葛の葉の想い)と捉えているので、終盤で晴明を必死に庇いながら「晴明、酒呑童子は、わらわが討つ!」「手助け無用!」と自ら道満に向かっていく姿を観て、道満に手を下したくない晴明の想いを守りたいからなのでは、という捉え方が自分の中で一番しっくりきました。

博雅と晴明の関係性も記しておきたいのですが、晴明が黄泉の狭間へ飛ばされたあと、「お前がいなくても、世の中が当たり前を演じるように動いている。このことが俺には無性に悔しいのだ」という博雅の言葉。残酷な世界の中、たった一人でも忘れずにいてくれる人がいれば、また変わる世界があるんだな……。ということは、道満も救えるのではないかと、ここで思わされて。道満を封じた後、博雅に「笛を聴かせてはくれませんか」と願う晴明。道満を弔う想いがここでも表れていて、『生きとし生けるもの、そして怨念でさえも、すべてが正しきを願う声』、博雅の笛の音に乗せてそれを届けたかったと。

サンエー晴明、サンスケ博雅のときの一場面。改編後、晴明が半妖と知ったあと「お前の手を離してしまった……」と悔やんでいた博雅。晴明が一条戻橋に現れて、驚く博雅に手を差し伸べる晴明。その手をグッと掴む博雅。この場面とても良かった……。演目の中に何度か手を差し伸べる場面があるけど、心情と共にその手の掴み方が違う。そして、晴明が博雅に伝えた「遅くなりました」という一言。初めて2人が出会ったとき、博雅の笛の音を聴いていて「遅くなりました」と晴明が登場した、はじまりの場面が浮かびました。一度手を離してしまっても、この場面でまた2人は出会い直せたということになる。

ここまで想いを羅列してしまいましたが、ナゴヤ座はこんなにも語りたくなるほど、常に良いものを、進化したものを、一番を更新してくれる場所。どんなに場数を踏んでいても、役者同士が常に刺激し合える場所。本当に素敵だと思います。

道満を倒した後、「今際の言葉、道満の怨念はありとあらゆる禍へと姿を変えこの国に降りかかるということでしょう。しかし、今を生きる者は後の世の者に禍と戦うための知恵と想いを残すことができる。それこそが陰陽の道なのです」という晴明の言葉。令和の世にも沁みる……。

まとまらないまま書き連ねてしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。発信されたものは、観た時点で受け手のものになるという感覚があります。そこからそれぞれの捉え方があり、物語が始まっていて、幾通りも続いていく。きっとこれからまた解釈の幅が広がり、新しい印象を受け、考察が変わることもあるはず。伝え方も捉え方も一人一人違うけれど、演劇のある生活はあなたのすぐ側にあります。是非、自分の目で観て、耳で聴いて、心を動かしてください。

そのとき、あなたはどんな物語を紡ぎますか?

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是非好みの回を見つけてください。
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