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【短編小説】みちとの遭遇

~あらすじ~
 平凡な生活を送る高校生、平田道人。
 ある日、道人の元に自分と同じ姿をした人物が現れる。そして、彼は「3日だけ泊めてほしい」と言う。彼から非日常の予感を感じた道人は、その願いを了承する。
 彼の正体は? 目的は?
 これは、道人と彼の3日間の物語。
 

 [ONE SIDE]
 20xx年6月9日(日)。
 玄関の扉を開けると目の前に自分がいた。
 自分の通っている高校の制服を着ている。今日は日曜日で、学校は無いはずだ。いや、そもそも目の前に自分がいる事がおかしい。
 天気がとても悪かった。どしゃ降りの雨が大地をドラムのように叩きつける。視界が悪く、初めはそのせいで見間違えたのだと思った。しかし、彼を足から頭の先まで何度も確認するが、毎朝鏡で見る姿が目の前にはある。
 目の前の自分は傘も差さず、びしょ濡れになっている。息も絶え絶えで、尋常ならざる雰囲気があった。
「大丈夫ですか?」明らかに大丈夫では無いのは分かるが、そう聞くしかない。
「すみません、中に入れてもらってもいいですか?」雨で体温が奪われてしまったのか、か細い声が返ってきた。
 僕は自宅の前で困っている人を放置する程、冷徹な人間ではない。何より自分と同じの姿をした人が、僕のせいで死なれたら、たまったものじゃない。シャワーと着なくなった服をあげる事くらい造作もない。
 僕は自分と同じ姿をした彼を家に招き入れる事にした。

 突然現れた彼がシャワーを浴びている間に、僕の自己紹介をしようと思う。第4の壁を越えるというやつだ。
 僕の名前は平田道人。どこにでもいる普通の高校生だ。特別に勉強ができる訳でも、運動音痴な訳でもない。別に取り柄も無ければ、大層な夢もない。普通の高校生だ。
 兄弟はいないし、両親は仕事で殆ど家にいない。昔から1人で過ごす事が多く、漫画ばかり読んでいた。
 そんな僕にも、仲のいい友達が2人いる。名前は孫英二と新井福。
 英二は機械いじりが好きで、パソコンを改造したり、最近は市販のスタンガンの強化にはまっているらしい。将来は発明で飯を食っていくと豪語していた。
 新井はただのバカだ。噂好きで、あいつに聞けば校内の噂話は大体把握している。将来は実家のクリーニング屋を継ぐと言っていた。
 さて、何の取り柄も無い、夢も無い平凡な人生を送っている僕だが、人生で1度だけ非凡な出来事があった。こんな僕が少しだけヒーローになったのである。
 つい1ヶ月前の朝、通学の途中、電車を待っている僕の隣から、女子高生が線路に落下したのだ。電車はすぐ近くまで迫っていた。あまりの突然の出来事に驚き体勢を崩した僕は、一緒に落ちてしまった。何とか間一髪、僕達は線路横の空洞に滑り込み、難を逃れる事ができた。その後、僕は称賛され、女子高生にも感謝された。というのが、事の顛末だ。
 そして、そんなほとんど平凡な日常に降って湧いたような出来事が今だ。
 ある日突然、自分と同じ姿の人物が自分を訪ねてきた。この状況に期待感を抱いてしまうのは高校生の悪い癖なのかもしれない。
 とにかく、僕はこれから何かが巻き起こるような気がしていた。

「君は誰?」
 風呂に入り、綺麗さっぱりとした目の前の自分の姿に問いかける。体調も良くなったようで、顔に生気が戻っている。
「えっと…遠くから来たんだ。自分探しの旅的な感じで」彼の回答は要領が得なかったが、何か話したく無い事情があるのかもしれない。
 話を聞きながら、とりあえず冷蔵庫からお茶を取り出し、差し出す。姿が自分と同じでも彼は立派な訪客である。
「名前は?」
「ひら…平泉直樹」
「僕は平田道人。なんでここに来たの?」矢継ぎ早に質問をする。気になる事が多い。
「なんでかは分からない。けど、ここに来なくちゃいけない気がして。運命とかそんな感じかな」運命という言葉につい反応してしまう。これも高校生の悪い癖だ。
「あの、3日だけ泊めてくれないかな?」
「え?」何かの冗談かと思ったが、直樹の目は真剣だった。しかも、何か強い意志と使命が宿っているようにも思えた。
「い…いいよ」道人は直樹の真剣な訴えについ了承してしまう。
「ありがとう」まるで僕の性格なら断らないと分かっていたかのように、直樹は納得した顔をしていた。
 僕は一瞬、この決定を少し浅慮だったかと思ったが、一度決めてしまったものは仕方がない。男が二言を吐くわけにはいかない。
 正直にいうと、彼を家に招き入れる事で、僕の人生に何かが巻き起こるのではないかという期待の方が、トラブルを抱えるリスクより大きかった。

 直樹に家を案内する事にした。家は2階建の一軒家で、住んでいるのは両親と僕だけだ。とはいえ、両親はほとんど家にいないので、住人は僕だけと言っても過言ではない。
「ここがトイレで、あそこがリビングで…」
 不思議な事に、直樹は僕の家をスムーズに移動した。他人の家に行った時の、周りの物にあまり触らないようにする感じと緊張感。例えるなら、『イライラ棒』のような動きが彼には無かった。しかし、考えすぎかもしれない。そういう人もいるだろう。
 直樹の寝所は、応接間という事になった。テーブルや椅子を端に寄せて、布団を敷いた。簡易的ではあるが、我ながら急造の割には良くできた方だと思う。
 時計をみると、17時をまわっていた。
「直樹、お腹空いてない?」
「空いた。ずっと食べてなくて」お腹を手で擦り、空腹のアピールをしている。
「じゃあ、ピザでも頼もうか」道人はピザ屋のチラシを広げる。今朝、宅配ボックスに入っていたもので、最近オープンした店らしい。
「何かアレルギーとかある?」
「エビがダメなんだよね」
「マジ? 僕もダメなんだよ」姿が同じなら、体質まで同じみたいだ。
「じゃあ、この照り焼きチキンのピザにしよう。特売って書いてあるし、増量無料らしい」道人はチラシに載っているピザの写真を指差した。テカテカと光り、こちらの食欲をそそってくる。しかも、値段がかなり安かった。2人は満場一致でこのピザを注文する事に決定した。
 道人が電話をすると愛想の悪い男が対応してきたが、特に問題もなく、照り焼きチキンのピザ、チキン増量のオプション付きを注文した。
 その愛想の悪い男が言うには、ピザが家に届くまでは15分程かかるらしい。2人はリビングで待つ事にした。
 平田家のリビングは、ダイニング、キッチンと合体した造りになっていて、食事から片付けまで、全て1つの場所で完結している。つまり、食事にありつく準備は万端だ。
 しかし、ピザへの期待感と共に、2人の間には微妙な雰囲気が流れていた。お互いが何を話すべきか牽制しあっている。
「そういえば、直樹の故郷ってどんなとこ?」
「え? ごめん。あんまり答えたくないかな」
 直樹の苦虫を噛み潰したような顔を見て、道人は少し動揺してしまう。
「あ…じゃあ、家族は?」
「それも、あんまり…」
 他人と距離を縮めるのは難しい。何処に地雷が潜んでいるか分からないからだ。先程のピザを選んでいた時の、和気藹々とした雰囲気は微塵も無くなっていた。
「ごめん。嫌な事は話さなくていいよ」
 やってしまった。道人は、自分のコミュニケーション能力の低さを恨む。
 わざわざ遠くまで来ているのだから、故郷に居たくない理由があるのかもしれない。配慮が足りない。自分は愚かだ。
「こっちこそ、ごめん。空気が悪くなった」
 直樹の方も同じ様な事を考えていたらしい。互いに自分を責めた結果、そこからしばらく無言が続く事となった。
 ピンポーン。2人の沈黙を破るように玄関のチャイムが鳴った。
「あ、ピザが来たみたい」
 道人は玄関へ行き、扉を開ける。扉の前には、20歳くらいの男が、白い円盤のような箱を持って立っていた。
「お待たせしました。照り焼きチキンのピザ、チキン増量で、800円です。」その声は先程、電話から聞こえてきた愛想の無い声と同じだった。
 道人はお金を払い、白い円盤を受け取る。箱からの温度が手に伝わり、匂いが食欲をそそる。
「ありがとうございました」愛想の無い形式ばった声が聞こえた。顔を上げると、既に男は立ち去っていた。
 リビングに戻った道人は「さぁ、晩御飯だ!」とあからさまに元気を出して、ピザをテーブルの上に置く。
「おー、待ってました!」直樹も同じ様にあからさまに喜ぶ。
 期待感の高まった2人は「オープン!」と、宝箱でも開けるかのようなテンションでピザの箱を開ける。
「あれ?」
 2人の頭に『?』の文字が浮かぶ。
 届いたピザには明らかにチキンが少なかった。面積で表すなら、チキンの面積は全体の10%といったところか。これで、照り焼きチキンのピザ、チキン増量とは笑わせる。
「チキン、これだけ?」道人は、あまりの衝撃に上ずった声が出てしまう。
「俺達、具材増量したよな。それでこれ?」
 ふっふっふっふっ。はっはっはっはっ。
 2人に笑いが込上げてくる。
「はっはっ。マジか! これで増量?」
「だから、安かったんだ! 写真と全然違うし! これ詐欺じゃん!」
 2人はしばらく笑い転げた。もし今、この部屋に誰かが入ってきたら、きっと驚くだろう。なぜなら、同じ見た目の2人が腹を抱えて笑い転がっているのだから。
 どれだけ2人は笑っていたのかは分からないが、やっと互いの笑いは収まり、落ち着きを取り戻た。
「あー、笑ったな」直樹は、まるで自分が笑えるとは思ってなかったと言わんばかりに満ち足りた表情をしていた。
「確かに。こんなに笑ったのは久しぶりかも」
 2人の間にあった微妙な雰囲気は既に跡形も無くなっていた。
「道人、ピザ来た時、あからさまにテンション上げただろ?」
「直樹もわざとらしく喜んでたじゃん」
「ばれてたか」
「お互いな」
 2人の間に気恥ずかしさが漂う。道人は思わず、口元に手をあてる。恥ずかしい時にしてしまう癖だ。自覚しているが、特に矯正しようとは思っていない。ふと直樹を見ると、彼も同じポーズをしていた。
「じゃあ、折角頼んだんだし、食べようか」
「そうだね」

 その日の夜、道人は目が冴えて、なかなか寝付けなかった。
「寝れないな」そう独り言をこぼし、時計を確認すると、1時16分を示していた。
 直樹の事を考えていた。彼は1階の応接間で寝ている。道人は2階にある自室のベッドに横たわりながら、思案に暮れている。
 不思議な出来事である。こんな漫画みたいな事が起こるのだと未だに興奮が覚めやらない。と同時に少しばかりの恐怖心があった。直樹の事を疑っているわけでは無いが、今日会ったばかりの人物を全面的に信用する訳にはいかない。
 もしかしたら、僕の睡眠中に襲ってきて、僕は殺されるかもしれない。そして、彼が明日から何食わぬ顔で学校に行くのだ。見た目が一緒なのだから、誰も気付かない。あとは死体をうまく処理すればいい。それは、完璧な僕との成り代わりとなる。
 もしかしたら、見た目だけでなく内臓とかの中身まで一緒で、彼は臓器移植のためのドナーを探しているのかもしれない。
 そもそも彼は僕のクローンだったりして。どこかで遺伝子情報を取られたんだ。
 あらぬ疑いが直樹にかかっていく。何の根拠も現実味も無い、ただの妄想だ。しかし、1人で物事を考えると、どんどん思考が飛躍していく。今朝の自分の判断を疑い始めた。本当に良かったのだろうか。
 その時、1階から何か音が聞こえてきた。ウェッ、ウェッと何度も聞こえる。道人が恐る恐る1階に降りてみると、洗面所に明かりがついていた。行ってみると、洗面台の前で何度もえづく直樹の姿があった。
「大丈夫?」
 直樹はビクッと驚いたが、こちらを向きはしなかった。
「大丈夫。嫌な夢を見ただけだから」
 直樹はこちらを向かず、鏡を見ているので、鏡越しに会話をする形になる。
 直樹はひどい顔をしていた。今朝初めて会った時のように、尋常ではない。まるで、僕では想像もつかないような絶望を体験したようだ。
「どんな夢?」
 道人の問いに、直樹は少しの間を置いて答える。
「自分が死ぬ夢」
 その声からは異常なまでのリアリティを感じた。
 僕は言葉が出なかった。
「いや、ただの夢だから。明日学校でしょ? ちゃんと寝ないと」怯んだ僕を思ってか、直樹は無理矢理な笑顔をつくっていた。
「そうだね、お休み。直樹もお大事に」
 そういって、道人は洗面所を後にした。
 自室に戻った道人は、先程と同じようにベッドに横たわり、さらに思案を深める事となった。眠れない。刻々と時間だけが過ぎていく。

 20xx年6月10日(月)。
 ジリリリリ。目覚まし時計が騒ぎ立てる。うるさい。道人は騒ぎを収める。といっても目覚まし時計のスイッチを押しただけだが。
「はぁ~」頭がぼーっとする。時刻は7時45分。眠い。昨日あまり寝られなかったからだ。
 8時15分には家を出る必要がある。つまり、猶予はあと30分しかない。しかし、毎日の事なので焦ったりはしない。
 1階のリビングに行くと、既に直樹は起きていて、椅子に座っていた。
「おはよう。ちゃんと寝れた?」直樹の言葉には、母親が息子に聞くような温かさがこもっていた。
「あんまりかな」道人は目を擦りながら答える。
「そうか」そう言う直樹の顔を見ると、彼もあまりよく寝られなかったのが分かった。
「朝食はパンでいい?」道人は菓子パンを戸棚から取り出し、直樹に渡した。
 パンを食べ、歯を磨き、寝癖を直して…。つまり、毎朝恒例の身支度をした。それが終わる頃には、時刻は8時10分になっていた。
 2人は玄関を出て、家の鍵をしめた。
 太陽の光が眩しい。前日の大雨が嘘のように太陽がはしゃいでいる。しかし、夕方からまた雨が振り出し、明日まで続くらしい。朝のニュース番組で天気予報士の美人なお姉さんが言っていた。
 直樹との取り決めとして、僕が学校に行っている間は、彼には外で時間を潰してもらう事になっていた。さすがに、昨日会ったばかりの人に留守番は任せられない。直樹が、その間に買い物をしたいと言っていたので、鞄を1つ貸した。
「帰ってくるのは多分18時ぐらいだと思う」道人は時間割と帰宅時間から算出した結果を言う。
「分かった。じゃあ、それ以降に帰ってくるよ」直樹はそう言うと、鞄を背負って歩いていった。
 道人は直樹の背中を見送って、逆方向へ歩き出した。

 道人は駅で電車を待っている。通勤時間と重なるのでホームには、いつも人が多い。学生やサラリーマンが殆どだが、どんな仕事をしているのか想像しづらい人や、ちゃんと生活出来ているのか心配になる人もいる。
 周りの人を見ていると、彼らは日常をつまらないと感じているのか、謳歌しているのか。唯々、日々をこなしているだけではないのか。そんな事が気になる。思春期とは、そういうものだ。と誰が言っていたような気がする。
 すると、「線路への落下に大変ご注意下さい」というアナウンスが聞こえてきた。
 どうやら、僕がちょっとしたヒーローになった例の件以降、駅ではホームから人が落ちないように呼び掛けを強化しているらしい。今後、柵のような設備を導入する予定だと駅内にいくつかポスターが貼られていた。
 アナウンスを耳にしたり、ポスターを目にする度、社会を動かす事件の当事者になっている事に興奮を覚える。誰かに自慢したくもなるが、流石にダサい気がするので自重している。
 そんな事を考えていると、電車がホームに入ってきた。
 プシューっと扉を開け、様々な人間をその身体に取り込み、扉を閉め、走り去る。要は、電車も日々の業務を唯々こなしていく。

 道人は教室で自分の席に座っていた。窓際の席で、校庭がよく見える。特に名のある訳でもない平凡な高校だが、歴史は相当古いらしく、校長が入学式の時に自慢していたのをやけに覚えている。平凡な自分には、お似合いだと思う。
 教室にはいつもの日常が広がっている。いつもの面子が、いつものように話している。僕はと云うと、窓際の自分の席にいつものように座り、いつものようにつまらなさそうな顔をしている。
「よっ。ヒーロー!」いつもの野次が飛んできた。新井だ。大体、朝は新井の野次から始まる。モーニングコーヒーみたいなものだ。
「いつまで言ってんだよ。もう1ヶ月だぞ」
「いつまででも言ってやるよ。道人がヒーローになったんだからな。俺は分かってた。お前は優しい奴で、他人のために身を呈する事の出来る奴だ」
 やめろと言葉では言いつつも、奴の言葉に喜んでいる自分もいる。
「んで、助けた女子高生とはどうなんだ?」新井は下衆な笑い方をしながら聞いてくる。
「何もないよ」
「マジ!? 命の恩人に対して何もしないとは、最近の若者はどうなってんのかね」
「お前も若者だろ」
 実際、事故があった日から、その女子高生の事は見ていない。使う路線を変えたのかもしれないし、登校手段を変えたのかもしれない。
 チャイムが鳴った。HRが始まる合図だ。新井は、「俺は普通の若者とは違うんだよ」とか何とか言いながら、廊下側にある自分の席に戻っていく。同じクラスなので、教室を出ていく事はない。
 担任の先生が勢いよく入ってきた。「席着けよ。HR始めるぞ-」いつもの日常が始まる。

 教室の中が忙しなくなっていた。つい先程まで凪のようだった室内に、今では嵐でも来たのかと思う。何かハプニングが起きたのではない。ただ、昼休みの時間になっただけだ。学校のカリキュラムにアメとムチを与えられた学生達が歓喜の舞を踊っている。と、言っても過言ではないと思う。
 かくいう僕も、昼休みの到来に心踊っていた。
「よっ」と言いつつ新井がパンを片手にやって来て、僕の前の席に座った。前の席の生徒はいつも昼休みが始まると、どこかへ行くので、空席になっていた。
 その後、英二が弁当を持ってやって来て、右隣の席に座った。彼は隣のクラスなので、いつも少し到着が遅れる。昼休みになると道人の席の周りで昼食を食べる事が恒例となっていた。
 3人は顔を合わせるや否や、険しい面持ちになる。そして、右手に力を込める。
「ジャンケンほい!」
 グー。グー。チョキ。新井が負けた。
 昼休みに集まるとまず、3人分の牛乳を買いに行く人を、ジャンケンで決める事も恒例となっていた。牛乳が売っている売店までは今いる教室からは遠いので、いつからか誰か1人が買いに行かされる事となっていた。
「今日も俺か-」新井は肩を落として残念がっている。彼はジャンケンが弱かった。
「んじゃ、今日もよろしく!」英二は『今日も』の部分を強調して言う。
「はいはい」新井はそう言って、とぼとぼと教室を出ていった。
「あいつはあんなにジャンケンで負けているのに、勝負の方法を変えようと提案してこないところが凄いよな」
「あいつはバカだからな。ダサいとか思ってんだろうな」
「バカだな」
 この世の中には愛すべきバカという者がいるだろう。彼がそれだ。
 すると、英二がガチャガチャと鞄から円柱状の黒い物体を取り出した。底の直径は10cm程、高さは30cm程ある。一瞬、子猫か何かが出てきたのかと思い、びっくりする。
「何それ?」
「ついに出来たぞ! 超強力スタンガンだ」
 英二が最近、スタンガンの強化に勤しんでいる事は知っていたが、思っていた以上に頑張っていたようだ。
「でかいな…」
「とことんまで強化したら、こうなった。人体に当てると確実に動けなくなる。当てる場所を選べば、死に至らしめるパワーだ」
「マジかよ」死という言葉に萎縮する。
「ほらよ」英二がスタンガンを僕に渡してきた。ずっしりと重い。この物体に他人の命を支配できる力があると思うと、手に緊張感が走る。
「こんな物作って逮捕とかされないのか?」
「知らね。けど、これは俺とお前だけの秘密な。新井にも内緒だ。あいつ口軽いから」
「分かった」高校生特有のヤンチャというか、若気の至りなのだと思う事にした。よく大人が『若い頃は無茶をしたもんだよ』と言っているので、多分皆が通る道なのだろう。
「んじゃ、エイジア7返して」
「エイジア7?」
「その名前だよ」英二がスタンガンを指差す。
「名前なんてつけてんの?」
「当たり前。俺の息子みたいなもんだし」
「イタいな」
「うるせ」
 道人はエイジア7を英二に返した。不思議と名前があるという事だけで、殺傷能力のある凶器が、少しだけ可愛く思えた。
 英二は鞄の中に、丁寧に息子のようなスタンガンをしまった。
 すると、「お待たせ!」と言いながら、新井が帰ってきた。
「牛乳2個しか無かったから、1個はコーヒー牛乳買ってきた。2人が要らなかったら、俺飲むよ」新井はバカだが、こういう気配りはできる。
「ありがとう」
 道人と英二は牛乳を貰い、新井がコーヒー牛乳を飲む事になった。
「何話してたの?」
「別に大した話じゃねーよ」
「気になるじゃん」新井は仲間外れにされるのを極端に嫌う。
「まぁまぁ。あ! もしさ、もし自分と同じ姿の人間と出会ったら、2人ならどうする?」道人は話を変える。
「自分と同じ姿? それってドッペルゲンガー?」新井が興味を示した。
「ドッペルゲンガー?」英二は興味が無さそうに聞く。
「都市伝説なんだけど、自分と同じ姿をした奴の事だよ。霊なのか幻覚なのか分からないけど、会ったら死ぬって言われてる」新井は怨めしそうに言う。
「マジで!?」道人は思わず乗り出してしまう。
「急にどうした? もしかしてドッペルゲンガー見たのか?」
「見てない。そんな訳ないじゃん。都市伝説でしょ」道人はゆっくり席に座る。
「そうだよな。道人、生きてるし」
「そうだよ。他の話しようよ。そんな眉唾な話よりさ」道人の声からは明らかに元気が無くなっていた。
「道人がこの話題始めたんだけどな」英二がぼそっと言う。
 そこからは何気ない会話をしたが、何を話したのかは、よく覚えていない。

 溜め息が出る。道人は駅のホームにいた。丁度今、電車から降りた所だ。学校が終わり、帰宅部なので、特に何処にも寄り道をせず、帰路についていた。
 6月の夕方はまだ明るい。電車から降りると車内と外の気温差、湿度差のダブルパンチがとんでくる。
「蒸し暑いな」
 道人はホームにあるベンチに座った。特に理由があるわけではないが、僕はホームのベンチに座るのが好きだった。多分、人間の往来を見るのが好きなんだと思う。
「ドッペルゲンガーと出会うと死んじゃうのか」ぽつりと呟く。新井に話を聞いた後、自分なりに調べてみたところ、ネットにはドッペルゲンガーとの遭遇は死の予兆のような事が書かれていた。
 道人は思わず項垂れてしまう。
「あの…」前から声がした。
 頭を上げ、声のする方を見てみると女子高生が立っていた。誰だっけ。記憶を巡る。思い出した。1ヶ月前に僕と一緒に線路へ転落した女子高生だ。
「あ、1ヶ月前の」
「そうです。あの時はありがとうございました」女子高生は深々と頭を下げる。身なりや所作からも、気品が窺える。
「いえ。あれから見なくなったので、もうこの駅使ってないんだと思ってました」
「はい。もうほとんど使ってません。それより、何か変わった事とかないですか?」彼女は真剣な面持ちで聞いてくる。
「変わった事ですか…」直樹の事が頭に浮かぶ。
「誰かに付きまとわれたり…とか」
 直樹には、付きまとわれている訳ではない。
「そんな事は特に無いですね」
「そうですか。それなら良かったです」言葉とは裏腹に彼女の表情は暗かった。
「何かあったんですか?」
「いえ。何も無いのであれば、気にしないで下さい」彼女は精一杯の明るさを捻り出したような笑顔をする。
「それでは」そういって彼女は小走りでホームを出ていってしまった。
「何だったんだよ」
 彼女の嵐のような登場と退場に面食らってしまったが、悪い気はしなかった。昼間に新井に言われた事もあって、心の内ではもう一度会いたいと思っていたので、此度の再開は道人にとって嬉しいハプニングとなった。
 道人はベンチから腰を上げ、軽い足取りでホームを出ていった。
 しかし、改札を出た辺りで、道人の頭に後悔の光が差した。
「あ、連絡先聞けば良かった」

 実家が見える。道人は、家に着くまであと5分程という所まで歩いて帰ってきていた。時計を見ると、19時を回っていた。申し訳ない気持ちが沸いてくる。直樹には18時頃に帰ると言っており、鍵の持っていない彼が玄関で待ち呆けていると思ったからだ。
 しかし、家に着いても彼の姿は無かった。
「あれ、まだ帰ってないんだ…」
 道人は新井の言葉を思い出していた。ドッペルゲンガーの話だ。もしかして、実は直樹は存在していなくて、僕が見ていた幻で…。
 思考が巡る。昨日、彼と会った時から今朝別れるまでの時間を走馬灯のように思い返す。そして、恐怖が沸き起こり出したその時、「おいっ」という声が後ろから聞こえた。
「わっ」振り向くと直樹がいた。
 安心とも恐怖とも驚きとも、何ともいえない気持ちが沸き起こる。
「お、おかえり」道人は声を絞り出した。
 直樹は今朝別れた時と同じ服に同じ鞄を着用している。何か買い物でもしたようで、鞄は膨らんでいた。特におかしい部分は見当たらない。とりあえず、幻ではなさそうだ。
「ただいま。何回も声かけたけど気付かなかったね」
「ごめん。考え事してた」
「それより何? ジロジロ見て」
「え?」僕は思っていた以上に直樹を訝しく観察していたらしい。そんな視線を向けられて、快く思う人はいない。
「何でもない。家に入ろう」道人は、誤魔化しながら玄関の鍵をあける。
 
 道人は、帰宅するとまずシャワーを浴びるのが習慣となっていた。特に気温が上がる時期になると、すぐにでも汗を流したくなる。驚く事に、直樹にも同じ習慣があった。なので、2人は順番にシャワーを浴びた。そして今は、リビングでテレビを見ている。
 チャンネルはニュース番組に合わせてあったが、2人とも内容は聞き流していた。
「今日は何してたの?」道人は、探偵や刑事がする質問のように、攻撃的な雰囲気を持たせないように注意をはらう。
「買い物とか色々と」
 『色々』の部分が気になったが、前日に気まずい雰囲気になった事を思い出し、強く詮索出来ない。
「道人は、学校楽しかった?」直樹が次は俺のターンだと云わんばかりに聞いてくる。
「普通かな。いつも通り」
「そっか。良い事だね」直樹は達観したような目で窓の外を見ていた。
 道人はもう少し踏み込んだ質問がしたかった。
「あのさ」と道人は言ったつもりだったが、殆ど声になっていなかった。
「あ、雨だ」直樹が呟く。
 ポツポツと雨が振り出した。天気予報士の美人なお姉さんの言葉は正しかった。まるでバラードのイントロのような雨は、2人の間に流れる繊細な空気感を表現しているみたいであった。
「降ってきたね」直樹は何を思っているのか、ずっと雨を見ていた。
「そうだね」
 道人の意識は、雨ではなく自分の頭の中にいた。逡巡した思いがある。直樹は詮索されるのを嫌がっている様に感じる。そんな相手に、自分が気になるからという利己的な理由で、問い質す事はできない。
 そんな、心ここにあらずな状態の道人に直樹は「大切にした方がいいよ。今を」と優しい声を掛けてきた。
「え? あ、うん」
「じゃあ、僕は休むね」そういって、直樹は僕の意識が、まだ頭の中から外に移り切っていない内に、リビングを出ていってしまった。
 その時の彼の姿からは、消え行くような儚さを感じた。もう2度と会えなくなってしまうような、そんな雰囲気を。

 20xx年6月11日(火)。
 ジリリリリ。今日も昨日と同じく、目覚まし時計が騒ぎ立てる。そして、昨日と同じように騒ぎを収める。時刻は7時45分。
 前日の夕方から雨が続いていた。雨の日は身体も気持ちもダルくなる。しかし、今日は何故か頭が冴えていた。何でも出来るような全能感さえある。
「今日は何か調子いいな」そんな独り言を言いながら、リビングに行くと、テーブルの上に手紙が置いてあった。
『道人へ。 
 少しの間だったけど、お世話になりました。ありがとう』
 直樹の置き手紙だった。簡潔に丁寧な字で書かれている。
「直樹帰ったんだ。一声くらい掛けてくれてもよかったのにな」
 道人は喪失感を感じた。
 結局、彼の事は殆ど何も分からないままになってしまった事が悔やまれる。連絡先でも聞いておけば良かった。いや、もしかしたら彼は僕と一緒にいる時間が楽しくなかったのかもしれない。彼はこの数日間をどう思っていたのだろう。考えても、ここに答えはない。
 ふと時計を見ると、8時7分を示していた。
「やばっ。遅刻する」道人はとりあえず、支度をする事にした。
 支度を済ませ、いつもの要領で玄関に鍵を掛ける。傘を差し、通学路を歩いていく。いつもの日常がまた戻ってきた。

 道人はいつものように電車を待っている。勿論、今日もホームには沢山の人がいる。
「線路への落下に大変ご注意下さい」いつものアナウンスが鳴る。道人はいつもと同じ日常を感じていた。同時に、直樹という自分と同じ姿をした人間が、自分を訪ねてくるというハプニングがあったにも関わらず、特に環境に変化が無かった事に落胆していた。
 人生なんて、そうそう変わるものではない。20年も生きていない道人であっても実感できる絶望である。
「はぁ。何か面白い事起きないかな」思わず、口に出てしまう。
「きゃ-!」
 道人の後ろから女性の悲鳴が上がる。近い。振り向くと、道人から3メートルほど先の所で、男が倒れていた。中年のおっさんで、身なりは綺麗とはいえない。側には男が立っており、こちらは全身が黒尽くめで、顔は帽子とマスクでよく見えない。周りの人達は非常事態を察知し、その男達から4メートル程離れた場所で、一部始終を見逃すまいと固唾を呑んで傍観している。
 カランッ。金属が落ちる音がした。道人の目の前にはナイフが転がっていた。近くには、倒れているおっさんの手。状況から察するに、おっさんが今ナイフを落とした訳だ。何故、ナイフを所持しているのか。そんな疑問が浮かぶより先に、道人に僅かな恐怖が沸き起こる。ナイフとおっさんの手が自分の方を向いていた。勿論、偶然かもしれない。
 周りがざわつき始め、「警察! いや、駅員に知らせないと!」誰かが叫び、誰かがそれに応えるように騒ぎ立てる。ホームはパニックとなった。
 道人は自分でも驚く程に冷静だった。周りの騒音が遠くなっていく感覚がする。まるで、目の前で倒れているおっさんと自分だけが世界から隔絶されているような感じだ。
 その感覚の中で、おっさんと目があった。何か言っている。聞こえない。「…ル。…テヤル」何だ?「コロシテヤル」
 殺してやる? 言葉の意味を理解すると同時に感覚が戻る。ざわざわざわ。周りの喧騒が自分の耳に入ってくる。
 倒れて地に伏していたおっさんが急に動き出す。猫のような俊敏な動きで、ナイフを拾い上げ、道人を目掛けて勢いよく立ち上がった。
 殺意を向けられた道人は金縛りにでもあったかのように動けない。自分はこのまま刺されるのか。もしかして死ぬかもしれない。頭の中だけが激しく運動する。
 バリッ。雷でも落ちたような音がした。自分に向かっていたおっさんは勢いを無くし、また地面に倒れこんだ。
 視線を上げると、黒尽くめの男が何か黒い物体を持って立っていた。道人はその物体に見覚えがあった。
「エイジア7…」
 その黒い物体の名前を口に出した瞬間、バリッ。黒尽くめの男が、地に伏しているおっさんの首元にエイジア7を押し付けていた。おっさんは酷く痙攣し、動かなくなってしまった。
 道人は黒尽くめの男と目があった。しかし、不思議と彼に敵意は感じなかった。
「君は誰?」
 何か既視感を感じた。
 その時、「動かないで下さい!」駅員が騒然としたホームに駆けつけてきた。その声に反応したのか、黒尽くめの男はギャラリーの合間を縫って走り去ってしまった。
 駅員がホームにいる人達に声を掛けている。「落ち着いて下さい!」
 その後、警察が来て、現場近くにいた人達は事情聴取を受ける事となった。
 あまりにも急な展開が続いたからか、理解が追いつかない。事情聴取の時にも、正常な判断力を持っているとは云えなかったと思うが、見た事をそのまま伝えた。ただし、エイジア7の事は言わなかった。
 少し落ち着き、気持ちに余裕ができた頃には14時を回っていた。このまま学校を休む事も考えたが、こういう時こそ友達と会うべきだと思い、学校に行くことにした。

 学校では既に駅での事件を皆が知っていた。このご時世、SNSにより情報が回るのが早い。ただ、僕が当事者だという事はまだ知られていないらしい。
 しかし、先生方にだけは連絡が入っていたようなので、「大丈夫か?」「無理するなよ」など色々な言葉をかけられた。
 学校に着いた時は、その日の最後の授業の最中だった。なので、放課後に軽く教室に寄っていく事にした。
 教室に入るとまず、新井が話しかけてきた。
「道人~。社長出勤か?」こういうバカと一緒にいると気が楽になる。
「ちがうよ。事件に出会したんだよ」
「事件? 何それ!」新井の噂好きのセンサーが反応する。
「また後でゆっくり話すよ。それより、英二は学校来てる?」事件の現場にエイジア7があったことが引っ掛かっていた。
「英二? 普通に来てるぞ」
「そうか。ありがとう」
 道人は英二に会うために隣のクラスへ行く。彼は帰り支度を済ませ、席を立つところだった。
「英二。エイジア7って今どこにある?」
「は?」
「だから、エイジア7だよ。強力なスタンガン。殺傷能力もあるっていうさ。昨日見せてくれたじゃん」ジェスチャーで形も再現する。
「何言ってんだよ。昨日の夕方、お前が貸してくれって言ったんだろ?」
「え?」英二の言葉に耳を疑う。僕は貸してなんて言ってないし、昨日の夕方に英二と会ってもいない。
「大丈夫か? 昨日のお前、何か必死だったし。悩みがあるんなら言えよ」
 英二の言葉は道人の耳には届かない。情報の処理が完結しない。何がどうなっているのか分からない。気分が悪くなってきた。
 道人はブラックアウトした。

 気が付くと、保健室のベッドの上にいた。
「大丈夫?」養護教諭が心配そうにこっちを見ている。
「大丈夫です」
「親御さん呼んでおいたから、家でゆっくり休みなさい」
「はい…」
 そこからは、体調はどうだとか、吐き気はあるかとか話したが、あまり記憶にない。
 暫くすると、母親が迎えに来てくれたので、車に乗って帰宅した。

 家に着くと、僕はえも言われぬ安心感を感じた。玄関の扉に鍵を差し込む。聞きなれたカチッという音が鳴る。当たり前の日常に感謝を感じる。ここ数日間の怒涛の出来事を全て忘れ去り、これまでの日常を謳歌したいとも思っていた。
「とりあえず、休んどきな」母親にリビングへ促された。リビングに入るや否や、この場所で、ここ数日間の直樹との思い出がフラッシュバックした。頭が痛い。休みたい。道人は横になって目を瞑った。
 どれくらい経ったのか分からないが、母親の声で目が覚めた。「道人。あんた宛に手紙が来てるわよ」そんな事で起こさないで欲しい。
「そこに置いといて」今は何も情報を入れたくない。この世の全てに、僕に構わないでくれと言いたい。
「平泉直樹君って子からね」
 え、今何て? 道人は情報のシャッターを殆ど閉めていたが、これは話が違う。今、唯一といっていい、僕が欲している情報だ。
 すぐに手紙を手に取り、差出人の名前を確認する。平泉直樹。確かに彼の名前だ。僕と同じ姿で、2日前に突然現れ、今朝急にいなくなった彼だ。
 手紙は封筒に入っており、道人は丁寧に開け、中身を取り出す。期待と不安が綯交ぜになっている。文章は紙三枚に渡って書かれていた。道人は順に文字を追っていく。
『道人へ。 
 この手紙が君に届く頃には、僕は使命を全うしているはず。そして、もう二度と君と会う事もない。
 手紙を書いている今は、6月10日の深夜。君の元には11日に届くようにする。ここに、僕の全てを記しておく。
 まず、僕と君の関係を整理しようと思う。僕と君は同一人物だ。君から見ると僕は、未来の平田道人ということになる。
 なぜ僕が過去に来たのか。手段は分からない。気が付いたら過去にいたんだ。でも、理由なら分かる。それは、君が殺されるのを防ぐためだ。これが僕の使命。
 6月11日。僕は登校中に駅で見知らぬ男にナイフで刺されて死んだんだ。その時の事はよく覚えている。周りの悲鳴は耳に残っているし、僕の血の色も鮮明に脳裏に焼き付いている。
 徐々に身体に力が入らなくなって、意識が遠退いていった。次に目を覚ました時は、過去に来ていたんだ。
 過去に来た事を自覚した後、君を守ろうと思った。自分を刺した男を探そうと思ったけど、手掛かりが無くて、猶予が2日しか無かったから、直接君に会いに行ったんだ。
 君との時間は楽しかった。自分と一緒にいて楽しいってのは変な感じだけど。だから、時間が経つ程、使命を強く感じた。
 今日、英二にエイジア7を借りに行った。君も知っているように、これには殺傷能力がある。僕を刺した男は僕を恨んでいる様子だった。だから、僕は君を守るため、奴を殺す。
 おそらく僕はこの使命を全うすれば、この世からいなくなると思う。そんな気がするんだ。だから、僕から僕へ伝えるべき事を伝える。
 もっとお父さんとお母さんと沢山話しておく事。新井や英二に感謝を伝えておく事。
 これは、僕が死の間際に後悔した事。君にいつ死がやってくるかは分からない。でも、僕と同じ後悔はしてほしくない。
 死んだ自分からアドバイス貰えるなんて経験、そうはないからさ。
 平田道人、幸せにな。
 平田道人より』
 今まで霧がかかっていた脳内に陽の光が射し込むような感覚がある。これまでの出来事の辻褄が合ってくる。点と点が線を結び、線が面となり、立体となっていく。
 手紙を持つ道人の指に力が入る。直樹の、いや、僕自身の思いが心を熱くする。
 何度読み返したかは分からない。この手紙から読み取れる情報は余す事無く読み取りたかった。
 すると、「あんた、この制服どうしたの?」と母親の声が聞こえた。顔を上げると、リビングのドアの所に制服を持った母親がいた。道人の通っている高校指定の制服だ。
 制服は今、僕が着ているし、替えは持っていないはず。母親の不思議そうな顔を見ながら、記憶を遡る。2日前の朝まで遡った所で理解する。直樹が着ていたものだ。
 理解したのと同時に、道人は母親から制服を奪っていた。怪訝そうな顔をした母親を尻目に道人は制服をまさぐる。何か情報が欲しかった。
 シャツを広げると、左脇腹にあたる部分が赤く染め上がっていた。道人は思わず息を飲む。そのままブレザーに目を落とす。同じく左脇腹のあたりに、破られたような穴があった。手紙に書かれていた『刺された』場所なのだろうと推察する。道人はその時の様子をイメージしてしまう。自分に訪れるはずであった未来を。そして考えてしまう。実際に体験した直樹の事を。
「大丈夫?」母親の声でハッとする。僕は気付かない内に涙を流していた。
「大丈夫」
「そう。落ち着いたら説明してね」
「うん」とは言ったものの、信じてもらえるかは分からない。未来の自分が、死の危機から僕を救ってくれたなんて。
 
 20xx年6月12日(水)。
 ジリリリリ。今日も今日とて、目覚まし時計の騒ぎを収める。そして、身支度を始める。
 リビングに行くと、母親が朝御飯を作って待ってくれていた。
「もう学校に行って大丈夫なの?」母親は心配そうに聞いてきたが、「全然大丈夫」そう答えた。
 もう頭はスッキリしているし、何より直樹のためにも自分は青春を謳歌しなければならないと思った。
「母さん。ありがとう」
「何? いきなり」
「もっと家族と沢山話さないとなって思って」
 母さんは照れくさそうな顔をしていた。それを見て、僕も照れくさくなった。
 手早く朝食を済ませ、鞄を持って玄関まで小走りで行く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 学校に着くと、僕が事件の渦中にいた事は周知の事実となっていた。
「大丈夫か?」「犯人ってどんな奴だった?」「平田が犯人をボコボコにしたんだって?」野次馬根性満載の質問から、どこから沸いたのか分からない根も葉もない噂とか、兎に角、道人は自分の教室に着くまでに面倒くさい質問責めにあった。
 やっとの思いで教室にたどり着くと、新井が待ち構えていた。噂好きなコイツの事だ。面倒な詮索が始まるのだろう。そう覚悟した。
「おはよう。新井、君も僕に質問攻めをするんだろう」
「道人。お前は俺を見くびり過ぎだ」
 得意気な顔をした新井は道人を席に座らせ、綽々と話し出す。
「俺は皆が欲しいような情報は既に持ってる。寧ろ、道人に教えてやろうと思ってな」
「はぁ」当事者に何を教えようというのか。
「まず、殺された男だが、なんと1ヵ月前に道人が助けた女子高生のストーカーだった男らしい」
 いきなり自分の知らない情報が出てきて驚く。
「1ヵ月前の事件は、その男が女子高生と一緒に電車に飛び込んで無理心中しようとして、失敗し、女子高生の方だけが投げ出される形になったんだと。それで彼女を助けたお前を逆恨みしてたんじゃないかと」
「どこでそんな情報手に入れたんだよ」
「まぁ、俺様だからな」回答になっていないと思ったが、これ以上聞いても満足いく回答が得られるとは思えない。
「それで最大の謎が、犯人は忽然と姿を消したらしいんだ」
「その話詳しく聞かせて」今、最も気になっている情報は直樹がどうなったのかだ。
「駅員が逃げ場のない袋小路に追い込んだらしいんだ。そして、いざ捕まえようとした時にパッと消えてしまったらしい」
「じゃあ、捕まってはないんだな?」
「俺が聞いたところではそうだな」
「そうか」
「何嬉しそうにしてんだよ」
「え?」僕は無意識に、にやついていたみたいだ。
「お前、本当は犯人に心当たりあるんじゃないのか?」
「知らないよ」
「道人。俺に嘘つくと恐ろしい事になるぞ」新井は大したことない凄みを出してくる。
「だから、知らないって」
 道人と新井は鬼ごっこのように教室を走り回る。
 すると、キーコーンカーンコーン。朝のチャイムが鳴り、担任の先生が勢いよく入ってきた。
「席に着けよ。ホームルーム始めるぞ-」
 僕の平凡な、でも何よりも有難い、いつもの日常が始まった。


  [ANOTHER SIDE]
 20xx年6月11日(火)。
 道人はいつものように電車を待っていた。駅には沢山の人がいて、皆が各々の世界に没頭している。携帯を見ている人もいれば、本を呼んでいる人もいる。朝からイチャイチャしているカップルだっている。
「線路への落下に大変ご注意下さい」このアナウンスも毎日聞いている。このアナウンスを聞くたびに、僕は非日常を期待してしまう。何でもいい、何か僕の世界がひっくり返るような、何かが起きないものだろうか。
 ドスッ。これまでの人生でおよそ聞いた事のない鈍い音が下から聞こえた。
 音の発生源は自分の左脇腹の辺りだと特定する。と同時に、暖かみを感じる。その暖かさが腹の辺りをどんどん侵食していく。これは血だ。気付いたときには、身体は急激に温度を無くしていった。身体に力が入らない。道人は崩れ落ちた。
 うつ伏せ状態となった道人は、力を振り絞り、後ろを確認する。そこには、見知らぬ男が血のついたナイフを持って、息を荒げていた。何か言っている様だが、よく聞こえない。周りの声がうるさいせいだ。顔を上げる力も無くなってきた。地面が赤い。あぁ、僕の血か。
 徐々に周りの音全てが、消えていく。これが死か。なんて事はない。人間、死ぬ時は呆気ないものだ。
 今までの記憶が湯水のように溢れてくる。これが走馬灯というやつか。後悔ばかりが浮かんでくる。もっと親と話しておけば良かった。親と仲良くするのがダサいと思っていた。今となっては、その考えがダサい。新井や英二にも言いたい事はいっぱいある。こんな事なら、気になる人に告白しておけば良かった。そういえば、楽しみにしていたゲームがそろそろ発売するんだっけ。僕って今何してるんだっけ。僕って何だっけ。僕って…。


 顔が冷たい。そして、何かが僕の顔に強く打ち付けている。
 道人は、はっと目が覚める。頭が割れる様に痛い。現状の把握に努めるが、痛みがそれを邪魔する。
 しばらくすると、頭痛は収まり、周りの様子を観察できるようになった。まず分かった事は今、強い雨が降っているという事だ。そして、打ち付ける雨が記憶の扉をノックする。扉から顔を出したのは恐ろしい記憶だった。僕は死んだはずだ。
 自分が死に向かっていく感覚が思い起こされる。自分の身体が徐々に自分のものでは無くなっていくような感覚。つい数分前に感じた鮮明な感覚。
「俺、死んだんじゃなかったのか」
 順に少しずつ状況を整理していく。インストールしたゲームが、始めに長いロードを要するのも同じかもしれない。
 自分は制服を着ている。雨でグショグショだ。今いる場所は、どこかの路地裏のようだ。周りに人はいない。空の色を見る限り、夜が明ける直前といったところか。
「確か俺は誰かに刺されて…」そう思った瞬間、違和感に気付く。左脇腹に痛みがない。道人は急いで自分の身体を確認する。そこには、傷跡こそあるものの、傷は塞がっていた。しかし、制服には穴が開き、シャツは赤く染まっていた。まるで、誰かに急速に治してもらったようだ。バカな妄想だとも思ったが、現状を考えれば何があっても不思議じゃない。
 道人はポケットから携帯を取り出して起動してみる。問題なく使えた。とりあえず、何か情報が欲しい。ネットニュースを見ると、『有名俳優△△と有名女優○○が電撃結婚!』『✕✕動物園でパンダの赤ちゃんが生まれました』『20xx年6月9日。本日の星座占いは…』世の中は平和なものだ。高校生1人が殺されても、ニュースにもなっていない。と思った瞬間、異変に気付く。「20xx年6月9日?」
 確かに記事にはそう書かれている。そして、他の手段でどう調べても、今日は20xx年6月9日だった。
「もしかして僕、タイムスリップした?」なるほど。事件のことが何もニュースに載っていないわけだ。なぜなら、この世界で僕はまだ死んでいない。その思考にたどり着いた時、頭に1つの可能性が浮かび上がった。
 僕が殺されるのを防げるのではないか。
 そして、それは十分可能に思えた。事件までは2日という猶予があり、現場も状況も全ては既に分かっている。
 そこまで算段が付いたところで、僕は理解した。これは使命だ。僕は僕を突然の死から守るために過去の世界にやってきた。神様か誰かが僕に啓示したのかもしれない。
 気が付けば道人は走り出していた。とにかく自分に会いたかった。なぜ会いたいのか自分でも分からないが、会わないといけないような気がしていた。それも神様か誰かの啓示かもしれないが、そんな事はどうでもいい。今は自分の衝動に従う。

 どれくらい走っただろうか。1時間か2時間か、もしくはそれ以上かもしれない。道人は見慣れた街並みの中にいた。そして、目の前には自分の家がある。17年住んだ家も心なしか他人行儀に感じる。
 殆ど休まず走り続け、どしゃ降りの雨のせいもあって、道人は肩で息をするほど疲弊していた。
 インターホンを鳴らす。ピンボーンという音が鳴る。外で聞いたのは始めてかもしれない。
 10秒くらい経って、玄関の扉が開き、中から僕が出てきた。視界が悪く、よく見えないが驚いている事は分かる。それはそうだろう。
 道人は言葉に迷った。冷静に考えて、現状を説明して理解されるとは思えない。頭の中でいくつものシミュレーションを展開させるが、上手くいかない。
「大丈夫ですか?」目の前の僕から言葉が飛んできた。僕は、「すみません、中に入れてもらってもいいですか?」そう答えた。


 気付くと、道人は駅で電車を待っていた。しかし、いつまで待っても電車が来ることはない。不審に思い、ホームを出ようとする。
 しかし、今まで自分が立っていたホームは何処にも無く、足元には赤い液体が広がっていた。「なんだこれは?」そう思うと同時に、それが自分の血液だと気付く。
 道人は、その事実に息を呑んだ。その時、左の脇腹から何かが生えてきた。ナイフだ。
 そのナイフが道人の身体を一刀両断した。
「はっ」と目が覚める。
「夢か…」道人は動悸が治まらない。
 自分が今まで見ていた悪夢が頭を離れない。
「あながち間違った夢でもないな」
 吐き気がする。頭が痛い。気分が悪い。
 道人は、応接間から洗面所へ向かった。吐き気が押さえられない。ウェッと吐き出す。おそらく夕食に食べたピザだった物体が、無惨な姿で洗面台に叩きつけられた。
 ハァハァ。鏡を見ると、自分は酷い顔をしていた。
 死から復活した人間は、碌な思いをさせてくれないらしい。しかし、神様を恨むような事はない。寧ろ、道人は自分の使命を強く感じた。
「やってやる」


 20xx年6月10日(月)。
 時計を見ると17時49分を示している。道人は、自分の通う高校から少し離れたカフェにいた。この場所は学校を中心として、家とは反対の方向に位置する。なぜ、そのような場所にいるのかと云うと、学校帰りの英二に用があるからだ。
 窓際の席から、外の様子を確かめる。英二が、このカフェの向かいにあるコンビニを毎日のように利用するのは知っていた。
 暫くすると、大きな鞄を提げた英二が現れ、コンビニに入っていった。
「よしっ」道人は心の中でガッツポーズをした。英二が目的の物を携えて現れたからだ。学校に置いて帰る可能性も僅かにあったので、一安心する。
 英二はすぐにコンビニから出てきた。右手にエナジードリンクを持っていたから、今買ったのだろう。
「英二! ちょっといい?」道人は後ろから声をかけた。
「道人か。どうした?」英二は驚きもしない。
「ちょっと頼みがあってさ。僕にエイジア7貸してくれないかな」
「エイジア7を?」英二の表情が険しくなった。普段ポーカーフェイスである分、余計に凄みがある。
「何に使うんだ? 今日も言ったけど、これには人を殺める力があるんだぞ」
 英二は『殺める力』と口にした瞬間に、最悪の事態を想像した。
「まさか」
「違うよ。そんな、僕が人を殺すなんて」道人は、図星をつかれた動揺が隠しきれない。
「そういえば、道人、制服はどうした? さっきまで学校にいただろ?」
 道人は制服を着ていない。それはそうだ、学校へ行っていないのだから。英二が学校で会った道人は、もう一人の僕だ。
「どうした? 黙り込んで。よく見ると、顔色悪いぞ。昼に会った時は、そんなんじゃなかった」
 勘の鋭い英二に道人はどんどん追い込まれていく。
「いや、あの…」道人は言葉に詰まる。うまい言い訳が思いが浮かばない。自分の目論みが甘かった事を後悔した。だが、今更そんな事を考えても仕方がない。
「頼む! 何も言わずに貸してくれ!」
 もう道人に残された方法は、熱意で相手を説得するしかなかった。
 事実、道人にはエイジア7を使うしかなかった。刃物や鈍器などで相手を殺害する想定をした事は勿論ある。しかし、どうしても上手くいくイメージが湧かなかった。ナイフを持った相手が反撃してくる可能性が高かったからだ。なので、確実に相手の動きを封じることの出来るエイジア7が必要だった。加えて、刃物や鈍器で確実に殺害するのは意外と難しいと聞いたこともあった。
「いいぞ」英二はケロッと了承した。
「え?」英二のあまりに軽い返事に、道人は驚いてしまう。
「最初から貸すつもりだったよ。道人を疑ったりしてない」
 道人は、英二の言葉に涙が出そうになった。そして、この素晴らしい友人に、もう会えなくなるという事実に悲しみを覚えた。
「ありがとう」
「何に使うつもりか知らないけど、気を付けてな」
 英二は、エイジア7を貸してくれた。そして、使い方の説明やコツ、さらには製作秘話まで沢山話してくれた。もしかしたら、彼は僕の現状について何か感じ取っていたのかもしれない。
 一通り話した英二は、「また明日な」そう言って帰路に着いた。彼の背中を見送りながら、直接言えない「ごめんな」を心で伝えた。
 エイジア7の入った鞄が重かった。


 道人は天井を見ていた。応接間に広げられた布団に横たわりながら、翌朝に迫った計画のシミュレーションをしている。不思議と、興奮はしていなかった。ただ粛々と自らの使命を全うするだけだ。
 部屋の隅に置いてある鞄を見る。中には、黒い服と帽子、マスク、さらにエイジア7が入っている。
 1つ1つ、確かめるように頭の中を整理していく。自分が死んだ瞬間から、過去にタイムスリップして、自分に出会い、親交を深め、英二にエイジア7を借り、そして翌朝には僕は人を殺そうとしている。
 そこまでを頭の中で描いた道人は、徐にテーブルに着いた。そして、予め買っておいた手紙を取り出し、もう一人の僕に向けたメッセージを書き始めた。
 

 20xx年6月11日(火)
 電車が目の前を走っていく。駅内には相も変わらず、人が多い。相当な騒音の筈だが、道人の耳には入っていなかった。時計を見ると、8時24分を示していた。
 道人はホームのベンチに座っていた。自分が普段使う乗り場と、その周りがよく見える。
 この場所で僕は本来、8時29分発の電車に乗る筈だった。そして、いつもの日常を送る筈だった。今ここにいる筈では無かった。
 少し経った頃、自分が現れた。そのまま、いつものように電車を待つ。道人に緊張感が走った。奴がいるはずだ。僕を殺した奴が。
 周りを見渡したが、そんな奴はいない。どこだ? 自分の記憶を頼りに奴を探す。しかし、見つからない。
 時間が過ぎていく。8時26分…27分…。
 その時、綺麗に整った人の列から何かが飛び出した。その何かには見覚えがあった。奴だ。僕を殺した男だ。
 男は、電車を待つ僕を後ろから狙っている。距離は4メートル程といったところか。僕はさらに、その後ろから男を追う。
 人が多い。男は思うように進めていない。これなら追い付く。道人はエイジア7を構えた。
 男と電車を待っている方の僕との距離が2メートル程まで近付いた時、僕と男の距離はゼロにまで近付いていた。僕は男の背中にエイジア7をあてた。そして、ボタンを押した。
 その瞬間、バリッ。雷でも落ちたのかと思う程の轟音が鳴り響いた。男は背中からの衝撃で、弓のように反り、そのまま地面に倒れこんだ。身体中が痙攣し、満足に動かせない様だ。
 カランッという音が聞こえた。男の手からナイフが落ちた。これが僕を殺した凶器か。道人は茫然とそれを眺めていた。男に対する怒りも、自らの境遇に対する悲しみも何も無かった。ただ、自分が死んだ結果と原因。事実と真実が頭を巡っていた。
 その時、地に伏していた男が急に動き出した。しまった。道人は急いで意識を外に戻す。しかし、その刹那に男はナイフを持って、もう一人の僕へ襲いかかろうとしていた。
 道人は、流れるような動作で男にエイジア7をあてた。そして、先程と同じくスイッチを入れる。バリッ。またもや轟音が鳴り響く。
 男は倒れ、痙攣している。道人は、同じ轍を踏まない様に、今度は男の首元にエイジア7を押し付け、ボタンを押した。バリッ。そして、男の動きは完全に停止した。
 もう一人の僕は大丈夫か。道人が顔を上げると、僕と目があった。
「君は誰?」目の前の僕に聞かれる。
 答えに躊躇する。えっと…。
 その時、「動かないで下さい!」と駅員の声が聞こえた。道人は、はっと我に返る。そして、脳がフル回転する。現状を理解する。ここにいてはいけない。
 道人は、その場から逃げ出した。

 息が上がる。エイジア7が重い。
 道人はホームから駅内へ逃げていた。改札から逃げ出したかったが、駅員が改札を封鎖していて通れない。ホームから外に出ようにも、ホームに戻る事も出来ない。
 しかし、道人は焦っていなかった。男をエイジア7で動かなくした時、つまり、もう一人の僕の命を救った時から、自分の存在が希薄になっていく感覚がしていた。
 道人は、ひと気の無い場所を見つけ、腰をおろした。どんどんと自分の存在が薄くなっていく。ついには徐々に身体が透け始めてきた。
 自分の使命は全うした。道人は満足感に満たされていた。
「あっ、やばい。エイジア7どうしよう」
 道人は、もう一人の自分を助けた後のプランは考えていなかった。凶器が見つかれば、警察は英二に行き着くかもしれない。道人はあれこれ画策するが、消え行く自分に出来る事は無い。
 すると、なんとエイジア7も道人と同じように透け始めた。
「都合のいい神様だね」
 あとは存在が消え行くのを待つのみ。
 その時、「見つけたぞ!」と駅員が3人程こちらに走ってくるのが見えた。けど、もう遅い。僕は消えるんだ。
「もう一人の僕、幸せにね」
 道人は煙のように消えた。

Fin


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