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悪い石は川に流そう


Truie condamnée à mort, dauphins exorcisés... les étranges procès d'animaux au Moyen Âge という記事で、ヨーロッパ中世の「動物裁判」の紹介です。中身は、動物の歌がうるさいみたいなほのぼのしたものから、豚が人間の子どもを食べてしまったみたいなえぐいものまでいろいろ。

裁判にかけられる動物の90%は豚で、これは当時、豚がたくさんそのへんをうろついていて人間に害を及ぼすことが多かったからだそうな。豚を悪い動物にするような創作が多少はありそうな気もするけれど、まあ、今でも豚はけっこう怖い動物ではある。

中世の人々はなぜこんなわけのわからない裁判をしていたのか。動物を罰することに何の意味があるのか。というか単に罰するだけでなく、裁判という手続きのもとで行うのはどういうことか。この記事では、デカルトの機械論以前の人々は動物にも道徳的能力を認めていたからだと説明されている。責任をめぐるコミュニケーションが動物ともなされていたというわけですね。

さて、本当だろうか。私はそれは疑わしいと思う。というのも、人をつまづかせた悪い石を裁判にかけて罰として川に流すとかやってたんだから、被告の道徳的能力は関係ないのではないか。さすがに石と意思疎通できるとは当時の人も考えなかったでしょう。だじゃれですよ。

どちらかというと、責任の帰属先が多様だったという説明のほうがしっくりくる。悪がなされればとにかく「何か」が罰されなければならない。その対象が人間に限定されている時代のほうがむしろ特殊だった、なんてことはたとえば、AI やロボットの責任論なんてことが議論されていることからも言えそうに思います。なんか突飛に聞こえるかもしれませんが。

こういう話をもっと知りたい方は、池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書、1990年)などをご覧になってみてください。


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