ゴッホとトマトスープ
これ関係はもう報道すんな!と不愉快に思ってらっしゃる方も多そうですが、例の、名画にスープをかけたりする抗議活動について、しっかりした分析がそこそこ出てきた。
「ゴッホを汚すのが気候によいのか?」L’Obs, 10/29, 2022.
なんらかの社会的な抗議活動の目的で美術品を攻撃するのは昔からあるやり方で、いや芸術作品を傷つけてどうするんだ、悪い企業とかを直接批判したらどうなのか、という反発が当然出てくる。しかし、実際に悪い企業に対して行動してもかえって普通だと思われて報道されないし、そこで暴力的な方向にエスカレートすると今時は穏健な支持者が離れていくだけ、ということになる。これがたとえば独裁者を倒せみたいな話だったら直接的かつときには暴力的なプロテストにも支持が集まりうるけれど、環境保護運動みたいなのだとそうもいかない。
なので間接的に、関係ないはずの美術品を狙うほうが、まさに「いや関係ないだろう!」という反発を巻き起こして、それが目覚めにつながるということもある、かもしれない。とはいっても、1914年のベラスケスの「鏡のヴィーナス」切り裂き事件が女性の権利運動にとってどうだったかというと、あれほどになると反発のほうが強くなりすぎてうまくいかなかった。この一連の活動がガラス越しにスープをかけるとか、接着剤で頭や手をくっつけるとかやってるのは、作品を決して傷つけないようにかなり調べてのことのようだけど、それがかえって何をやってるのかわからない、じっとりとした気持ち悪さにつながっている。よい悪いはともかくというか、悪いんだけれども、まあとにかくそういうラインを攻める種類の運動みたい。
これにどう反応するのがよいかというのも難しく、怒らせたり不安にさせたりするのを狙ってやってることにそのまま怒ってもあれだし、一方で New York Times のコラムの称賛気味の反応もどうも勇み足だったので、まあどうすればいいのかというところ。
思想的なことをいうと、エクスティンクション・リベリオンの非暴力的な市民的不服従とか、エコロジカル・レーニン主義とか、いろいろなものが流れ込んでいるようだけど、階級闘争としての意味合いがだいぶ意識されている雰囲気ではある。そのときゴッホというのは複雑な存在で、アウトサイダーアートとしての面も持ちつつ、しかし実際にはもはや体制側に取り込まれた権威でもあり、またブルジョワたちの投機の対象でもある一方、一般に広く消費される大衆芸術ともなっている。今回の一連の活動でいくつかの作品が被害にあったわけだが、おそらくゴッホのインパクトが最も強かったのはそういった多面性ゆえに、いろいろな方面を一度にぞわっとさせたということだろう。