死生観は肌に表れる

肌荒れに悩まされて10年ほどがたった。高校生の頃からニキビが出来やすく、今もまだまだ悩まされている。

原因はいまだにはっきりしない。

だけど高い治療費を払いクリニックに通い続け、スキンケアは保湿に保湿を重ねて、私生活に気を使い、職業まで変えたところ、なんとか「普通」レベルまでに戻ってきた。綺麗とはいえないのだけど。

私はこの肌に悩みつづけてきた。一説によると顔の肌荒れは鬱病に匹敵するほど精神的ダメージが大きいらしい。だから私はうつっぽいのかもしれない。

肌荒れのせいなのかなんなのか、私はとにかく自尊心が低い。

自分のことが愛せない。こんなこと書きたくないけど、ブスだと思う。

だけどそう、ブスだと認めたくない。そりゃそうだ、高い治療費を払ってクリニックに行く=綺麗になりたい。のだから。認めたくないに決まっている。ブスだと認めると行動が矛盾する。

また、自尊心が低いのと、ブスであることがコンプレックスなので、美醜に関してすごく敏感になってしまった。人の外見をものすごく観察するようになっている。

そして、「あぁこの人は美人だな」「肌が綺麗だな」「息してるだけで美しいな」、そして「あぁそれに比べて私は。」「肌も汚くてブスで」

「なんのために生きてるんだ」と感じるのがお決まりのループになった。

人は外見じゃない。そんなことは頭では十分理解している。顔の造形が美しくなくとも、人を惹きつける素敵な人はたくさんいる。太っていても魅力的な人もたくさんいる。わかっている。私以外の人はみんな自分を認めて生きていてほしいと思う。悩まなくていい。あるがまま生きていてと思う。みんな素晴らしいと思う。

だけど自分に関しては。生きてる価値ないと思ってしまう。

鏡を見るたび。写真を見るたび。クリニックで痛い施術を受けているとき。美人の友人と横に並んだとき。

死にたくてしょうがない。

もう30歳になったら消えてしまおうと思っていた。そのために計画すら立てていた。家族に迷惑がかからない方法。できれば痛くない方法。お葬式はしなくていいと遺書にしたためたい。最期までこの顔をさらすなんて絶対にいやだから。

みんな私のことは忘れてほしい。

去年の10月頃、あることをきっかけにずっとこの事を考えていた。愛想だけはいいので家でも会社でも友人の前でもにこにこ笑いながら、普通に生活しながら、消えることばかりを考えていた。疲れていたのか、不安定に不安定を重ねてこの思想に歯止めが効かなくなっていた。どうぜわたし消えるんだし、と思うとなんだか楽になれた。

すると、なんと落ち着いていた肌に大きな大きなニキビができた。

白い肌にぽっかり黒い点。

原因をいろいろ考えたけど、この死についての感情しか思い当たらなかった。

この自傷行為のようなこの思想が体が毒だと認識し肌に表れたのか。ストレスになっていたのか。そうするとわたしは死にたくないことになる。こころの根底ではわたしは死を拒否しているのだ。そういうことになる。

そう思い出してみると、わたしはずっとこうだ。うつなのかもしれないけど、人並みに生活ができてる。正社員で働き、友達を遊びに誘ったり、旅行の計画たてたり、人にプレゼントを選んだりできる。人生を謳歌し、幸せそうに見えるだろう。実際に幸せだと感じることもたくさんある。

でもずっと死がまとわりついている。

私の中では、幸せ=死にたくない ではないのです。

幸せだよ、とても。ごはんは美味しいし、両親はなんだかんだ優しいし、友人にも恵まれた。音楽も好きだし洋服も好きだし。

だけど、それがなんだというのだろう。私が生きてていい理由になるのだろうか。

こんな感じなので私の肌はずっと荒れているのかもしれない。

体は拒否しているのだな。私の体は私の思わぬところで自殺防止機能が付いているのだ。警告なのだろう。「その思想を辞めないと、もっと肌が荒れることになるぞ」と。私の脳が指令をだしている。

変わらないといけないんだと思う。綺麗になりたいよ。だから死にたいと思うのをやめればいいのだ。わかっている。でも、あまりにも過酷で疲れてしまったんだよ。逃げ道くらい、自分で用意していいじゃないの。

そうやって私は保湿クリームを丁寧に丁寧に顔にぬりたくるだけ。