無理

 死にたいって思うときがよくある。死ぬ、よりも消えたいなのかもしれないけれど。頻度は変わらないけれども、時々訪れる。

 西野空男さんのことをよく思い出す。よく考えると会っていたのは2,3年の短い期間にすぎないのだ。そんなものなのだろう。彼が断筆というかフェードアウトした理由はわからないけれども、よくわかる。

 もう作品は描けないんじゃないかとも自分で思う。なんというかすべてが耐え難く、責任を果たせない気がする。それが人生だと言われれればそうなのだろうけれども、それと俺が耐え難い思いをしているのは別問題である。いや、理由がどうこうよりも漠然とつらい。

 ツイてなかった気がする。時代がよくない。本を読むのもあまり勧められたことじゃない。悪い意味でのニヒリズムが身体を蝕んでいる。

 永美太郎さんに、最近の川勝のマンガはメソついていると言われた。昔のマンガ(龍神・徳富重耕)のころのようなアッパーなのを読みたいとのこと。俺も書きたいですが、実際に自分自身がメソついており、アッパーになるにもなりきれぬ気持ちです。屈折は多い。

 作家としての責任みたいなことを考えてしまう。俺は人のマンガを読むときに面白い面白くない以前にイデオロギーとその作品が世の中に問われることの現実社会に対する責任を考える。だからどれを読んでも面白く読めない。生理的に面白いと思うのはヒドイマンガばかりだが、俺のイデオロギーがその快楽を抑制する。もちろんそれは自分のマンガにも当てはめてしまう。すると自分のマンガが全部クソに見えるし、そもそも面白くない。大体無責任すぎる。存在がよくない。

 あるものを積極的に評価するときに否定形でしか語れない。これは人を不幸にする。  

 人と話したいと思うときもあるし、一生人と関わらないで生きてゆきたいと思うこともある。最近は後者が割と頻繁に頭に浮かぶ。

 先日、パリでいろいろな美術館に行った。ピカソもゴーギャンも、何でもいいんですが帝国主義/植民地主義が彼らを生み出したんだな、と頭じゃなくて本当に理解した気になった。水木しげるも伊福部昭も戦前のアジア主義が生み出した作家ですが、そういうのは現在の日本の作家でいうと誰にあたるんだろう。我々の意識せざるところに、そういうことがあるはずだ。どんな作品でも経済・歴史がそれに先行する。

 むかしは表現論が大事だと思ってマンガを読んでました。十代のころ「社会反映論」と言って看過したものたことのツケを、二十代は払い続けているような気もします。

 ガロでもフォーク・ロックでも、あの時代の抵抗文化は好きですけれどあれが商売として成り立ったのは購買者がたくさんいたからです。少子高齢社会じゃムリ。あの時代の作家も歌手もみんな若かった。俺は27。彼らより年上になってしまった。

 「作品」という発想がそもそも嫌いだ。便利だから自分でも使っちゃうけど。一番キライな言葉は「表現者」。これは自分で絶対使わない。

 人生一度だけと言うけれど、一度だけなら、じゃあ、もう仕方ない、諦めよう、という気持ちになる。「一度だけなんだから思いっきり楽しもう!」という発想にどうしてもならない。楽しむことに罪悪感がある。

 なんにせよ希望があったらいいな、と思います。自分の人生の展望に希望が。ただあったらいいな、という程度で強い希求ではないのが問題です。われわれは「さとり世代」とか言われてるそうですが、好んでさとっているわけじゃない。



  

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