【日記】売ってしまった本と、熊のパディントン

 先日、1970年ごろから活躍したソヴィエトの作曲家・シュニトケの話をしたが、先ほどイヴァシキン『シュニトケとの対話』、ドミートリー・シューリギン『シュニトケの無名時代』の二冊が揃った。日本語の評伝はこの二冊のみ。英語だとディクソン『シュニトケ・スタディーズ』なる本もあるらしい。

 『シュニトケとの対話』は、親に「本が多すぎる」とめちゃくちゃ怒られ、20歳のときに泣く泣く池袋の八勝堂に売り払った。店員の清水さんに「好きだった本は絶対に売らない方がいいよ」と言われたが、「また…買えばいいですから…」と負け惜しみ。しかし本当に買い戻すとは思わなかった。
 店員の清水さんは、拙作「龍神抄」に登場する。八勝堂がなくなったあとに、ジュンク堂池袋の建築コーナーの担当になったと伺い、ときどき探しにいったがついに見つけることはできなかった。怪奇小説家アーサー・マッケンは、彼から教わった。古書店の偉大な先輩方からの薫陶を受けて、いまの自分がいる。
 
 展覧会のカタログを売ったのはどうでもいいが、クラシック関係の本はいまでも思い出す。『フルトヴェングラーの手紙』、カレートニコフ『モスクワの前衛音楽家――芸術と権力をめぐる52の断章』などなど。亀山郁夫のソヴィエト関連の本も売ったかもしれない。

 当時は読んでもよくわからないことが沢山あったはずなので、再読したい。カレートニコフなんて作曲家は、今こそネットでなんでも聞けるし、Wikipediaの項目まであるが、当時は情報がなかった。シュニトケですら、ちょっとマイナーな曲になると秋葉原の石丸電気のクラシック輸入CD販売所に行かなかったら買えなかったし、値段も高かった。3000円近くした。それならば、1000円の廉価CDをガキは買うだろう。それで、コンチェルト・グロッソのいくつかや後期の交響曲は、最近はじめて聴いたのだ。
 北欧のエイナル・エングルンドの交響曲全集を揃えたときは、池袋のHMVに輸入してもらったが、一年かかった。中学生にとって一年は長い。
 こういうことを言うと「昔は情報にアクセスできるまでに時間がかかった。これこそが豊かな時間だった」なんて言う愚か者がいる。普通に面倒で手間なだけだ。コスパ・タイパをバカにする愚か者もいる。オタク道を楽しむのでなく、極めるためには、コスパとタイパはいつだって重要だ。要領が 良くないと、おれのもとに押し寄せてくる大量の情報をさばききれない。若田部くんという東大でロボット工学をやっていた同級生がいたが、彼はアニメを複数タブに同時に開いて鑑賞していた。当時私は、それを愚かな行為だと思ったが、愚かはおれである。彼は当時、なぜか絵も頑張っていて(多分ノヴェル・ゲームを作りたかったんじゃないか)1000枚イラストを描くといって、コピー用紙の右上に数字を振りながら本当にコツコツと続けていて偉かった。最初は下手だったが、どんどん上手くなった。おれにもそういう辛抱強さがあればと、羨むばかりである。
 情報だけが耳入り、その「音」が聴こえないほど愚かなものはない。ソルモン・ヴォルコフ『ショスタコーヴィチとの対話』の文庫本を、おれはいつも学ランのポケットに忍ばせていたが、いくら読んでも音がわからないものがあった。そのいくつかを最近思い出してYouTubeに検索をかけると、なんと楽譜も、作曲家の自作自演の演奏さえ出てくるのである。
 「昔は情報にアクセスできるまでに時間がかかった。これこそが豊かな時間だった」「あれこれと妄想する時間が楽しんだよね笑」なんて言説はただの負け惜しみである。『解体新書』の翻訳者、杉田玄白と前野良沢に「君たちの本、めっちゃ間違ってるけど、情報少ない中であれこれ妄想して翻訳したの、貴重な時間だったよね笑」なんて言う人は、バカである。杉田と前野はきっと憤怒、憤怒、憤怒である。
 実際わたしは、あれこれと、15年以上妄想してきたブツを目の当たりにして、胸中にこれまでにない感情が嵐のように吹き上がっている。寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいである。愚かである。シュニトケがどうのこうのなんていうのは、単なるノスタルジーでどうでもいいのである。

 パディントン(A Bear Called Paddington)という深ツバ帽子を被った、汚い熊が街で暴れる小説を読んでいる。読みやすいし、挿絵も可愛い。ペルーの奥深いところ(つまりアマゾンの方)でおばに育てられた熊が英語を学び、イギリスに密入国して、中産階級の家族に匿われる話である。パディントンのおばはリタイアしてペルーの首都・リマにいるなど、ようするに都市生活者としての教育を受けていない不法移民が都市にやってきて失敗をしながらもどうにか上手くやっていく話である。いい話なのだが、マーマレードが好きな可愛い熊という表象で「移民」をメタることによって、どうにか読ませるという力技の産物なので、緊張感のある読書を強いられている。作者自身もかなりその点には意識的であり、ポジティヴにそれを描くのは現実を隠蔽するものという考え方もあるけれど、少年少女の読み物としては結構いいのではないかと思う。ただパディントンは飯の食い方の汚さに関する描写が妙に多い。変な実感がこめられており、やはり緊張感がある。
 パディントンは、当初、名前がない。だからロンドンのブラウン夫妻に名付けてもらうわけ。この「パディントン」とは彼らがいた駅の名前である。熊はちょっと長いけれど個性的な名前だと喜ぶわけだ。動物が人間から名前を授かり、人間社会の一員として認められるのは、1930年代の児童向け漫画でよくみられる現象。名前の次は服であり、靴であり、都市生活のマナーを授かる。そして人間さまの仲間入りというわけ。田河水泡『蛸の八ちゃん』にそれが良く表れている。
 パディントンの場合は、人間とはつまりアングロサクソン家庭であり、動物は16世紀以降スペインに徹底的にいじめられ続けたペルー人のことである。なんで、こうも、構造が似かよるのだろうか。とはいえ、パディントンは悪くない。蛸の八ちゃんはいい漫画だ。だから、通俗物語は困りものなのだ。

 以上。
 


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