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わからないものは、わからない

 人の命は大切。一人の命は地球よりも重い。と言いつつ、事故でなくなった障害者遺族への賠償額は健常者の場合の6割だか8割だかとのこと。これは何なんでしょう。答えはどちらも命を捉えそこねているのが原因です。

 命が大切なのは百も承知。しかしそれは地上限りのものではなく永遠であり、誰も神様も消し去ることはできないものです。地上から無理やり退場させることはできてしまいますが。

 人の命を地上限定にしすぎているのです。地上人生の価値しか考えられなさすぎなのです。それは死後どうなるかわからないために死を恐れることにつながります。

 昔の人にメンタル不調はなかったそうですが、死が怖いと思わなかったわけではないでしょう。ただ、これは個人的意見に過ぎませんが、おそらく死後のことはわからなくてもそれ以上追求せずに受け入れていたから、不安が増すことはなかったのではないでしょうか。目に見える世界とそうでない世界が自然と地続きだったわけです。

 ところが今は科学の時代、何もかも地上世界と同じように可視化し説明できるはずだと思い込み、そうでなければ不満が募ります。わからないことをそのままにしておけない気持ちがじわじわと生活を侵食します。それは防衛本能が本来の生命維持ではなく社会生活の維持に過剰適応した結果であるのかもしれませんが。

 勿論科学的思考は大事ですし死後のことを考え知ろうとすることは自然なことであり、その思いに応えるためにも霊的真理がもたらされていますが、今の地上の価値観で何もかも割り切れるはずだとする意気込みはちょっと意識して脇に置いたほうがいいのです。

「恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識をたずさえて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。」(「シルバーバーチの霊訓12」203頁)






 


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