自由とは自ら選択すること

 森羅万象、あらゆる物が神の摂理の支配下にあり、これを覆すことは誰にも神ご自身にさえもできません。ということは何もかもが法則によって決まることなので、私たちが改めて自由意志を働かせて選択し判断する余地は残されていないのではないでしょうか。摂理を完全には理解できない人間が、自由に選んだと勘違いしているだけではないでしょうか。

(交霊会の参加者が意見を述べ、自由意志の存在は法則の存在と矛盾する、もしすべてが法則によって支配されているとなると選択まで法則によって決められてしまうのでそこには自由はないことになるはずだと。すると・・・)

「あなたが自由意志を行使できる範囲はあなたがこれまでに到達した進化の程度によって決まるということです。言いかえれば、あなたが選択した行為以外のことをしたかもしれないという可能性はない・・・魂の進化の程度によって決まることだから、ということです。」(「シルバーバーチ愛の摂理」156頁)

 この答えをさらに身も蓋もなく言いかえると、選択したこと以外いろいろと選べるようであっても、実際は選べないということ、つまりやっぱり自由意志はない(まやかしにすぎない)ということになりそうですが、いかがでしょうか。

もっとも、AかBかどちらかしか選べないというほど進化の程度には融通性がないものなのかという気もしますが、ここでの風景を想像するに自分は自由だワイワイと喜ぶことが重要なのではなく、選択する、心を決めるということ(たとえそれが既定路線であったとしても)に、魂が向上していく上で意義があることなのではないかと思います。同じ行為をしていくにしても成り行きではなく自分が選択し自ら取り組もうとすることで結果は(法則に従って)明らかに違ったものとなるでしょう。

 神を試みるわけではないですが、Aにしようと直前まで思いつつ、最後のところでBをすることにした場合、それは二つの選択かもしれません。もしBのほうがより困難である場合、2つの選択の間でほんの少しだけ進化もしくはそのためのきっかけが生じているのかもしれません。















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