他力本願

「京都浪漫」というテレビで西本願寺の特集を見ていたら、「他力本願」という言葉をみんな誤解しているという話が出てきました。

 自力で自分を救うのを諦めて他人の力に頼って救われようとすることと思われていますが、本来はそんな意味ではないと。

 本願とは民衆の側の救われたいという願いではなく、阿弥陀仏の人々を救いたいという願いのことで、他力本願とはその仏の願いにすべてを委ねて救われようとすることだと、そんな内容でした。

「救い」の意味を苦痛からの解放などではなく霊的成長と捉えるなら、これはシルバーバーチの説いていることとそんなに離れていないと思います。

「救い」とは一人ひとりの利己的願望の達成ではなく、霊的成長という神の願いの成就であり、その本願にすがって救われるというのは、すなわち進化成長のために神の用意された摂理に沿って生きるということなのです。

 本願にすがるのも摂理に沿うのも自分の努力が必要です。その努力あってこそ救いの道が開かれるのであり、同時に必ずや背後霊団からの援助も受けられるのです。

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