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緊張感→疲労感→幸福感のはなし。

ひさしぶりに感じた緊張感について、書き残しておこうと思う。感情と肉体の疲労、かろうじて解読できそうなiphonのメモが残っているうちに。

今年の6月くらいからdaisydoze(以下dd)というイマーシブ作品をつくるチームで体験設計とイベントオペレーションを担わせてもらっており、半年間(作品自体は1年以上)の準備期間を経て、先週の土曜日(12月9日)に初回公演日を迎えた。

1日4公演、初回は11:00開場。

前日の仕込み日には、それぞれの持ち場を、それぞれが作り上げていく。ただ、当日はこの時間が近づくにつれてAnima(今回の作品名)に向けて意識が一つになっていく。

出演するキャストのみんな、プロデューサー陣、音響さん、照明さん、オペレーションスタッフ、会場の担当者、すべての人が11:00の開場にむかっていく。

この時、コップに注がれていく水の映像が頭に流れ込んできた。

今にも溢れ出しそうな水を、水の形を保つためにそれぞれの角度から支え合っていく映像。形を保つことのできない水、、、でもこぼれ落ちることのない水。これが緊張感と僕らが呼んでいるもののような気がした。

1回目の公演がおわると、水は表面張力のような不思議な力のおかげで形を保ちつつある。そして2回目からは、溢れているけれど零れ落ちない水を効率よく支えていく。

初回に比べれば2回目、3回目、4回目と緊張感なるものは感じにくくなっていて、初回にしか味わえない緊張感が確かにあった。しかし同時にあたらしい「感」が自分たちに溜まっていくことにも気がついた。

疲労感。

回を重ねるごとに感じにくくなっていた緊張感は、疲労感に形を変えていて、感じ方は反比例していった。一度生まれた何かは、なくなることはなくて、何かに姿を変えて配分されていく。

2日目の初回もまた、1日目のような緊張感はなく(なかったわけではないが少しだけ違っていた)、「あの感覚はなんなんだろうねぇ、でも気を緩めずにね」なんて話をしながら、さあやるぞ!って2日間、計8回の公演を終えた。

まずは半分やりきった。そんな空気が全員から感じられて、もちろん疲れてはいたけど、そこには幸福感みたいなものを感じた。

緊張感から姿を変えた疲労感は、なにかの区切りで幸福感に姿を変えていた。

緊張した分だけ疲れるのはなんとなくわかるし、緊張したから疲れるし、それだけ頑張ったってことは、それだけやり切ったってことだから幸福感を得られるってこともわかる。ここで残しておきたかったのは、その「感」というものがシームレスに流れていた感覚が、この土日ではあったということ。そしてそれは、緊張と疲労と幸福の話ではなく、緊張感であり疲労感であり幸福感の話であるということ(多分何書いてるかわからないけど、未来の自分へ)

緊張と緊張感、疲労と疲労感、幸福と幸福感。感がつくだけで全然ちがってくる。緊張に感がつくと、それはひとりのものではなくなった気がする。疲労に感がつくと、疲労が回復だけではなく何かに変換される可能性を感じられる。幸福に感がつくと、深さの中に広さを感じられる気がする。

しかし、時間が経つにつれて水は蒸発していく。

溢れていながらも零れ落ちない水は、時間が経てば蒸発して、その場からはなくなる。だから注ぎつづけないといけない。そうしないと緊張感は生まれない。じゃないとあのとき感じた幸福感も生まれない。

水を注ぎつづけて今週の土日に臨もう。ということを、きっと先週末に感じていた。ということを忘れないために残しておこう。

あともう一つ。まだ理解はできてないんだけどメモに残っていた言葉も。

「好きなことほど、やめる理由がたくさんある。嫌いなことの方が少なかったりする。だから好きなことを続けていくことは難しい。だから続けていくやつは強くて美しい。」


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