イマーシブシアターAnimaを見て感じたことをできるだけ素直に残しておくnote

Animaを見て感じたことを素直に残す。(きっと何度か書き直すだろうから迷ったら立ち戻れるようにするための一文)

今回、イマーシブシアターAnimaのイベント全体の体験設計とオペレーション部分をつくらせていただいた。それとは気持ちを切り離して、作品をみて感じたことを書いていきたい。

Animaを、、、と書き始めた途端に、この後につづける言葉がむずかしいことに気がついた。Animaを「観た」とも「体験した」ともちがう。今のところしっくりきているのは、

Animaを「浴びた」。

観るとか体験するというのは、どこか違う場所にいる感じで、浴びるというのはその場にいる感じを帯びているからしっくりきている。

浴びると言うのは、複数の表現(アート、ダンス、演劇、歌)をランダムに、連続的に、考える間もなく体験する90分間というイメージ。どんな物語なのか、どんなキャラクターなのか、どんなシーンなのか、どう繋がっているのか、それらを考えながら体験していくものの、目の前にある圧倒的な表現を見逃したくないから、そんなことをしている暇はなくなるような、とても能動的で主体的な心と体の状態だなと、どこかでずっと感じていた。

目の前でと言うのは、決して比喩的な表現ではなくて、実際に触れようと思えば触れられる距離、人の動きで風を感じられる距離、意味を見出すくらいの視線を感じられる距離、自然と指の一本一本の動きがわかる距離、息遣いが伝わる距離、呼吸のタイミングすらもわかる距離のこと。

その全てを捉えたいと思っていたけれど、頭も目も、何もかもが足りないことにも同時に気がついてしまい、ただ感じる、ということだけを決めてAnimaに向き合っていた。

ここからは、感じたことを取り止めもなく。

普段どれだけの情報を勝手に遮断して生きているんだろうか?普段どれだけ受動的に世界を感じているんだろうか?という問いが頭に浮かぶ。

登場人物たちと話すことはできないし、基本的には観ている側と演じている側に言葉のやりとりはない。でも同じ空間にいて、そこに表現があって、目を凝らせば、意味というか価値というか、、、たくさんの情報が間には流れている。

言葉がなくとも伝わることはたくさんある。というのはきっと間違いで、言葉がないから伝わることもある。もちろん言葉があるから伝わることもある。ごっちゃにしてはいけないし、二項対立でもないのだけれど。

ダンスに詳しかったり、見慣れているわけでもない(なんなら見慣れていない方なのだ)が、美しい線を描ける人たちをダンサーと呼びたくなった。

人が動くと線が生まれる。

という初めての気づき。はじめは自分にはできない動きとか、速さとか遅さとか、一体感みたいなものに凄みを感じていたのだけど、いつしか「線の美しさ」が印象的に心に残った。

ラストシーンを見ていたら涙が流れてきた。作品の集大成的なシーンなので、音も光も空間も豪華だったからその勢い、、、みたいなものも影響しているんだけど、思い返すとツーっと涙が流れた瞬間は、台の上にユングと浦島が乗り、その周りに感情たちがうずくまっていたシーンだった。

かなり静的なシーンだったので、これまで浴びてきたものが自分の中で一気に消化されはじめた時間だったのかもしれない。

日頃、僕の感情は割と凪いでいる。(ようにきっと見えるし、そうしてもいる。)波が起きたらその感情は一度小瓶に詰めて蓋をして、海にぷかぷか浮かべてる。だから感情がないというよりは、感情を眺めている時間をつくっている。もちろん必要に応じて、蓋の開け閉めはするけれど。そして自分のもってる小瓶に入りきらない波がおきたら、そのときは感情的になっていると思う。

みたいなことが光速で頭を駆けめぐっていた。

感情たちのパフォーマンスが再開した。縦横無尽に動いていた。めちゃくちゃかっこよくて美しかった。(語彙、、、)

実は動き回りたい感情や、動いた時に想像以上の美しさを持ってる感情があるんじゃないかなって思ったら、なんかたくさん泣いてた。

小瓶を捨てて荒波たてていこうぜという話ではなくて、感情的に生きようぜって話でも、感情を表に出していこうぜって話でもなくて、

自分の中に生まれた感情だけど、その感情たちにも知らない一面があって、醜くも美しいかもしれんよね、ってことを残しておきたい。自分の中にも、いや自分の中だからこそ気がつけないことはたくさんある。

新しい試みというものは、大小問わず容易に、自分たちの想像をこえた事態を引き起こす。そしてそれらはなぜか連続的に続く(ことが多い)。

そうした時、ひとつひとつの感情には向き合えないときがやってくる。もちろん、スピードを遅めて向き合うという判断もできるけれど、それは難しかったりする。そうした時は大概、感情を小瓶というか、正確にはその辺に穴を掘って埋めておく(ような感覚)。ポイっとする。本当はできるだけあるべき場所に置いておきたいけれどポイってする。「その気持ちはわかる。だけど一度現実をみよう。」「やるしかねーな、うおお。」なんて言い訳しながら。

と書きながらも、目の前で起きる事と、同じくらいその時生まれた気持ちや感情も、大切だと思っているので、それらを取り扱うこともできるようになった。(多少はね)意図的に気持ちと感情を扱う時間を設けたり、日常的にシェアできる時間をとったりしながら。

それでも溢れて、それでも埋もれて、いくものがある。

アートは(と急にアートという大きな主語で語りたくなった)、そんな溢れて埋もれた感情を、掬い上げる問いなんじゃないかと思う。アートに出会うとメキメキと地面から感情の芽がでる。だからアートがセカイに投げかけた問いによって出てくる芽は変わる。今回は奥底に眠る感情の認識と再生みたいなものがテーマだったと思うから感情という全体感が掘り起こされたのだと思う。つまりはAnimaはアートだったということを書きたかった。

スタッフの子が見終わったあとで感想をシェアしてくれた時の光景がずっと残っている。嘘がなくて正しくて美しいシェアだった。

その子はとにかく楽しそうな空気をまとって「すごかった」「楽しかった」「今まで体験したことがなかった」と表現していた。言葉よりも体で、声の震えで、潤んだ目でそれらをシェアしていた。それが全てだったし、それが全てでいいよな、無理に言葉にできなくたって。とその時は受け入れた。

のだけど同時に、

より多くの人に知ってもらうにはあまりにわかりにくいかもしれないとも思った。あのシェアは、あの場だからこそ伝わった。こんなに素晴らしいのに場に存在しないと伝わらない価値。これがこれから向き合っていくべき問いだなとも思った。

Animaの話から脱線してしまったので少しだけ元に戻すと、表現の裏側にある緻密さについても凄まじいものを感じた。誘導型と言われていたけど、ルートを辿っている感じがなく、、、むしろ偶発的な出来事に巻き込まれていく感じの方が強い。それが没入感へと繋がっていた。過去にイベントや体験をつくった経験がある人なら、その凄さや裏側にリスペクトが止まらなそう。

今回はホテルという場所だったので部屋の移動、階段の移動の設計だったけれど、場所が違っていたら?行動の設計が時間と音の変わり目ではなく、参加者の行動によって分岐していくものだったら?とか考えていくと、なんだかテンションがあがった。

その一端(というか一端にして最高峰)があったのは、助手にヒアリングをうけて思い出を書き、それを即興で演じてくれるシーン、、、これは体験できなかったけれど、イマーシブならではだったんじゃないかと思う。

あとはあとは、、、
書き進めていくと書きたいことがたくさん出てくる。(書き始めは何を書いたらいいかわからなかったのにねw)なので最後に感想として書いておきたいのは

もっとキャストの表現をみたいなと思ったこと。

これは作品という大きなもののためのキャラクターという前提を崩してしまう感想なんだけど、きっと多くの人が思うことなんじゃないかとも思っている。それくらい凄さが伝わってきたから。緻密な設計と、その場のテンション、それらが合わさる未来があるとしたら、イマーシブがもっともっと唯一無二になる気がした。

2023.12.26
TK1


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