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癒しとアートの反対側で---畑と盆栽のこと

20歳頃から自然農法を学んで、農業高校でも教えて、
30歳手前で農をやめてしばらく後に盆栽を始め、
今はなりゆき任せな畑と盆栽をしている。

その2つの性質はたぶん相反する部分があって、
でも自分の植物に対する姿勢は変わりない気もして、
そのあたりの矛盾をちゃんとは言語化できないのだけれども、
頭で考えて答えを出すことを急がずに、ただ感覚にゆだねることに集中している。


植物を鉢の中で育てお世話すること、
花をつんで愛でたり、誰かに贈ること、
木を切り綿をつみ、道具や服をこしらえること、
野菜や作物を栽培し、収穫し食べること…、

何から何までが人のエゴなのかな?
という問いはいつも片隅にはあって、

植物の身になってみれば、
グラデーションはあれど、どれもこれもがエゴだと思う。

と同時に、人間も自然の一部なのだったら、心が赴いたこともまた自然の一部で、だから本来なら人も混じることでより豊かになれる、と想像してみるとどれもこれもに美しさを感じる。

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農をやめてしばらくして苔玉を始めた頃、
縁日で小さな盆栽を売っていたおじいに出会った。

盆栽を学びたいと申し出ると、おじいのお手伝いをしていたおじさんは直ちにお役御免になり、私が代わりに1人でおじいのお手伝いをするようになった。

どぎついセクハラにそれはもう辟易したけれど、でもおじいは高価な木も不恰好になった木も割と分け隔てなくて、「喉が渇いたら自分が水を飲む前に盆栽に水をやるのや」と言っていたように、盆栽たちに愛情を注いでいたのは間違いなかった。

私は正直お行儀が良すぎる盆栽は窮屈に感じるのだけれど、おじいの盆栽はほどほどに手入れが行き届いておらず 笑、のびのび健やかそうで好きだった。

妊娠、出産、感染症騒ぎで、おじいに会う頻度は低くなり、ここ1〜2年はたまに顔を見るたびにめっきり生気がなくなり、盆栽への意欲も失われてしまったようにうつろになっていった。

先日、半年ぶりに顔を見に行ったおじいは、仙人のようにボサボサになっていて度肝を抜かれた。奥さんが亡くなり、身内に車を取り上げられたそうで、おじい自身ももうかがめないぐらい体調が悪く「運転と盆栽ができんくなったら死ぬる」と常々言っていたので、もう最期が近いんだなと感じた。


人から注がれていた情熱が離れて荒れた畑や鉢植えを見ると淋しく物哀しいものがある。
おじいの盆栽もここ数年で多くが枯死してしまったけれど、それでも生き延びているタフな残りの盆栽たちは、植物そのものの生命力がモリモリに吹き返していた。

盆栽の魅力とは、人の熱量と植物の生命力が渾然一体となって爆発しているところだと個人的に思うのだけれど、
アスファルトを突き破り、土という土の表面を緑で覆う植物そのものの生命力にはもっと萌える。

それは癒しとはむしろ真逆のもの。
もっと生きろ! と心が共鳴するような激しさ。

だから、自分の植物の取り組みをアートと表現するのに強い違和感があるのは、自分自身も植物と同じだけ爆発して生きているのか問われているように感じるので、自分はまだまだでおこがましい気持ちになるからでもある。

植物に対する姿勢の根底には、そんな思いだけはずっとある。

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おじいの家から連れて帰ってきた
枯れかかっていたセッコクが咲いた。

おじいが注いだ愛情は、ここに生きているなと感じている。

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