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自分の中の「老害の芽」に気づくとき

以下、旧ブログより転記


「趣味は?」と聞かれたときは、「アニメ・マンガ・ゲームです」と答えることが続いている。ここ3年くらいはずっとそうだ。

とはいっても、これは精確ではない。これら3つが好きで毎日どれかには触っているけれど、「そのジャンルそのもの」を好んでいるかと言うと微妙に違う気がする。

例えばゲーム。ここ2年半ほど、スプラトゥーン2にドハマりして夥しい時間を費やしてきた一方で、他のゲームをそれほどやった記憶がない。

もちろん数タイトルは触っているけれど、スプラをやった時間の10分の1にも及ばない(スプラのプレイ時間が尋常でないという理由もあるが)。これは他のジャンルでも同じで、そのジャンルというよりは「特定のタイトル」を好んでいるというのが正しい。


その理由を自分なりに分析してみると、新しいものを摂取することに無意識の拒否反応が出てきているのだと思う。

今までたくさんのものを好きになって拾い集めてきて、両腕で抱いてもいっぱいいっぱいだ。

何も抱えていない頃は、「好きになるかもしれない」ものに対してコストを払うことに抵抗がなかったんだ。両腕を大きく振って走って行って、拾い上げたものが気に入ればコレクションに加えればいいし、そうでなければ捨て置けばいい。

今では、「もう好きになっているもの」を抱えておくだけでへとへとになってしまう。そこに「好きになれるかわからないもの」を追うだけの余力はない。その場に座り込んで、抱えたものを愛でるようになっていく。


ここまで書いたことは、心当たりがある人も多いのではないかと感じている。ある程度成長して「好きなもの」に割ける精神的なリソースはほぼ固定されているのに、生きた年数だけ「好きなもの」は増えてしまう。

年を追うごとに新しいものに手を伸ばしにくくなるのは必定だ。


では、その極致には何があるのだろうか?

年老いて新しいものを摂取しなくなったとき、私たちの心はどうなるのか?


私は、「合理化」がそこにあると思う。一般的な意味ではなく、すっぱいぶどうの寓話にも著されている、防衛機制の一種としての合理化だ。

関節も筋も縮こまって、新しいものをもう全く取り入れられなくなったときに、私はきっと「あれはどうせつまらないから」と言う。

そうやって、自分の手が届かない場所にあることの全てを拒絶し、否定し、侮蔑するようになってしまうんだろう。立派な「老害」の完成だ。


老害」というと、「自分の思考を他者に強要する老人」といったニュアンスを感じるが、私にとってはそうではない。

肉体ではなく精神が老いてしまい、その結果として害を撒き散らす人こそが「老害」なのだ。


老害」には必然的に肉体も老いている人が多くはなるが、精神の老化が進行する速度は肉体のそれよりも個人差が大きい。

新しいものに手を伸ばせなくなったとき、そのときに「老害の芽」がぬるりと成長して自分を縛る鎖になる。問題は、その芽に自力で気づいて引きちぎれるかということだ。


私は元来かなりの面倒くさがりなので、新しいものを摂取したがらない人間だと自認している。それは即ち、精神の老化が速い人間だ。

それでも、他者をとにかく否定するような人間にはなりたくないし、すっぱいかもしれないぶどうに全力で手を伸ばしていきたい、と心持ちを整えている。


ひとまず、積んであるゲームをもう少しプレイするところから始めてみようか。

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