対局日記#377 位取りを許さない

2022/6/22

急に暑くなりました。一日ごとの気温変化があまりに急激で驚きます。
季節感がまったくない私ですが、いよいよ長袖の服を畳みました。


さて、相掛かりで5筋の位をとってくる形。
これは非常に苦手としているのだが、そもそも戦法としてそこそこ優秀なのが癪なところ。安定してしまう前に崩しに行きたい。

▲5六歩と突っかけてしまうのが良い。
狙いは角交換。

角交換から▲4五銀まで進出。
あくまでも「△5五歩が伸びすぎ」と主張したいので、殴り合いで十分である。

中央の戦いになると、5筋が空いていることで▲5四歩があったり、「▲6八銀vs△2二銀」になったり、先手に良い要素が多い。

先手有利。


こちらは本譜で、陣形が整ってから中央を攻めた図。
結局こちらは囲いを崩しながら攻めるために大ダメージを負うのに、向こうは平気な顔をしている。すでに少し悪そうに感じる。

すぐにこちらが倒れるわけではないが、狙いが豊富すぎてどこを防げばよいか…。
粘るとすれば▲4七歩△2四角▲4六銀だったか。

攻めの中心となっている駒を押さえに行くのはセオリーだが、ここまでしっかり受けないといけないこともある。


 そうそう、最近の日記があまりにもつまらない内容になってきたので、原因を考えてみようと思う。

 まずは、先月あたりまで「将棋は心理戦」というモットーを掲げ、いかに相手を惑わせ、自分はどうして間違えたか。そういう内側を探りながら反省を考えてきたので、ありきたりな内容から離れていて面白かったと思う。
 ただ、最近になって「結局、最善手を指した方が勝つし、最善手の方が粘れるし、最善手を指せなかったのが悪い」という感じになってきた。この原因を「読みと大局観が戻ってきたこと」と定義しているが、多分その通りで、感じ取れてしまうがゆえに外れた手を指すことに抵抗を覚えているのだと思う。この数年、かなりソフト的な感覚を身に付けてきた自信はあるので、どうしても「相手を間違わせて勝つ」までの道中で自分を騙しきれない。

 そうなってくると、劣勢の終盤戦では「長く粘るための手」を探すようになるし、結局それでも悪いから「序中盤のミス」を探すようになる。
 ザァーっと解析をかけると、飛び出た釘のように悪手が簡単に見つかるので、それを淡々と均していく。自分の思考というよりは、その手の意味を「知らなかった/気付かなかった」ことを反省し、とりあえず頭に叩き込む。それを繰り返す。

 テスト勉強か?

 だんだん対人戦という要素が抜けてきて、「色々な手段を試してくる敵を最善手で倒す一人ゲーム」になっている。間違えたら自分を責める。覚える。
 
 つまらん。本当にこんな将棋はつまらない。そういうのが好きな人もいるだろうけど、自分には合ってないと思う。
 そして原因が明白なのに、どうしても直せない自分も情けないなと思う。

 「強い人は終盤の感想戦を好んでする」という話をどこかでしたはずだが、また「終盤のいざこざはソフトに聞くし、序中盤でどんなミスをしたか考えようよ。まぁ、それも帰ったらソフトに聞くけど。」という思考になってきている。
 もしかして思考放棄しているのではないか。「終盤の絶妙手とか、覚えてもどこで使うかわかんないよね~」と言ってる自分が情けない。自分でひねり出したならそのメカニズムはわかるはずなのに、考えたフリだけして、実際は覚えるだけで定着していない。


 ときどき将棋の楽しさを探して、彷徨うように次々に新しい戦法を試みることがある。でも結局あまり勝てないから面白くないし、そもそも目新しさで得られる楽しみの量は知れている。
 どうして十数年も将棋を続けられてきたかといえば、それは目新しさへの感動よりも、深い読みの海を探訪するという根源的な楽しさがあったからである。ソフトの普及によって、新しいものに出会う機会があまりに増えてしまったため、それが仮の姿と知らず面白さの本質だと思い込んだり、研究の競争に焦りを感じて自分も身を投じたりして、何が心を動かすのかを忘れてしまったのだ。
 正解を提示されるのは嬉しいが、やっぱり自分で探している時間の方がもっと面白い。昔は弱いソフトやプロ棋士の正解を聞いても「もしかしたら自分にも覆せるのかも」と砂場を掘り返している時間が一番楽しかったように思う。コンクリートジャングルみたいな世の中はやっぱり人間には合わない気がする。

 「モノ消費」と「コト消費」そんな言葉が世の中にあふれているが、将棋の中でもふつふつと湧き上がっている課題なのだろうかと感じた。

 
 要約、というか結論として、私はしばらくソフトから身を置きたいと思っている。
 

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