とある犬と死生観の話

 子供の頃、親戚の家に犬がいました。可愛い柴犬で、なかなか名前が決まらず最初は単純にワンちゃんと呼んでいましたが、チョロチョロ走り回るからという理由でチョロと呼ばれるようになりました。


 僕の両親は働き者でした。会社勤めの共働きだったので朝から晩まで家には誰もいませんでした。だから小学生の頃、放課後はいつも自宅近くの親戚の家に行って親の迎えを待つようにしていました。その間毎日のようにチョロと遊んでいました。
 中学生になると部活が始まり、塾に通うようになり、何より一人で留守番するようになりました。だからチョロと遊ぶのは土日のどちらかに親に連れられて行った時の週1回になりました。
 中学3年生は受験シーズンです。自分の身の丈に合わない高校を志望したので勉強漬けになりました。チョロと遊ぶのは2週に1回になり、月に1回になり、ついには全然行かなくなりました。


 だから、入試の少し前にチョロが死んだ事に気付きませんでした。全部終わった後に親から黙っていた事を謝りながら伝えられました。
 この時、本心では悲しんでいたのかそれとも怒っていたのかはよく覚えていません。入試の前に知ったら勉強どころじゃなくなって不合格になっていただろうという理由に納得したのと、どうせ何を言ってももうチョロに会えないのだと諦めたのはよく覚えています。大切な存在が死んでしまってもそれを知らなければ日常は変わらないのが何だか不思議に思いました。


 そんなことがあってから僕は、もしもこうだったらという空想をよくするようになりました。時間を巻き戻して失敗をやり直す話が好きになりました。全てが報われる幸福な話が好きになりました。誰かと別れる時に「またね」とよく付けるようになりました。
 もしもあの時チョロが死ななかったら、僕は今とは全然違う人間になっていたのでしょうか、それとも案外別の要因でやっぱり今のような人間になっていたかもしれません。答えの出ない空想は楽しいものです。
 僕が影響を受けたように、人の趣味・嗜好・性格等に影響を与えるのは生者でも死者でも変わらないと思います。だから僕は、死んでしまっても覚えている人がいればその人の中で生き続ける、と考えています。
 「死に目に会えなかったけれど、僕の中の大切な一部分になって一緒に生きている」
 そんな慰めのような論理が僕の死生観です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?