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科学的なアプローチと教育現場から経験的・身体的に導き出された結論の比較

著書『管理しない子育て』(鈴木久夫著)を読了。この本は家庭教師を担当している生徒の保護者から紹介されたものである。
この本を読んで一番興味が湧いたのは、「欠乏に対する欲求」というキーワードだった。本書ではあまり詳しく述べられていないが、ヒトは「欠乏状態」にあるとき、心が占拠されやすい。このことは”Scarcity: Why Having Too Little Means So Much”(Sendhil Mullainathan and Eldar Shafir, 2013)に詳しく書かれているが、端的に言えば以下のようになる。

・欠乏感、すなわち(それが時間であれ、お金であれ、食べ物であれ、本の冊数であれ、人間関係であれ、充実感であれ)主観的に「足りない」という感覚が生じると、その不足をどうにかしようと集中して他のことをシャットアウトする(トンネリング)。
・欠乏は意識的から無意識的なレベルの行動にまで影響し、その影響を受けた人は仕事でミスが生じやすくなったり子どもに八つ当たりしやすくなる。これは単なるストレスからではなく、欠乏によって生じる認知能力や実行制御力という脳の処理能力が低下することで誘発される。(例えば、年収が高い人でも欠乏(ここではお金以外の欠乏)が生じると処理能力が低下しやすくなるようだ。)
・欠乏が欠乏を生み出す。

ページ数は僅かであったが、本書『管理しない子育て』ではそのScarcityという概念と近い内容が「足りないものを補おうとする『欠乏欲求』である」と説明されていた。

(ここから本題)
本書では、子どもが親離れするときのパターンとして以下の3つが紹介されている。

・子どもが自立せざるを得ない出来事が起こり、子供が自立する
・親が子どものことを信頼する姿勢を取っていた結果、子供が自立していく
・親が過干渉であることに危機感を覚え、子どもが自立していく

3つ目の項目は、本書によれば「親が先回りして子どもに干渉するために、『このままでは何もできない大人になってしまう』という危機感を子どものほうが抱いて、自分から距離を取るようにして自立していく例である」と説明されているが、今となって振り返ると自分はこの3番目のパターンだった。小学4年生の時から「母親の言うことは聞かない」と頑なであったため、それぐらいの時期からはもう親からは何も言われなくなっていたが、その代わりに自分で塾を選んだり、中学の部活のメンバーと勉強や部活の成績で激しく競争していた。その結果として、学校のテストの成績は親に堂々と見せても両親からは(高額な)お小遣いがもらえるぐらいにはなっていたが、この小学校高学年から高校卒業に至るまでの実家での生活期間で自立するために自分なりに動いていたのだと思う。

また、本書では子供が自立している家庭の特徴として、

・親が「自分の人生」と「子どもの人生」とを切り離して考えている
・親が学ぶ(、学び続ける)姿勢を持つ

の2つが主に挙げられている。
本書のP90〜の「無意識で行う教育こそが本当の教育」でも述べられているが、意識的かつマニュアル的に伝達された言葉と無意識に出る言葉に齟齬がある場合、子どもは敏感にその非言語的な雰囲気までを察知する。「親の姿は子どもに影響を与える」というのはよく言われることだが、数年前のコロナ騒動やそれに伴う日常のオンライン化によってそれがさらに加速したように感じる。私が家庭教師として対面で担当していたほとんどのご家庭は2020年からオンライン指導に切り替わったが、リモートで行うやり取りは担当していた全てのご家庭でスムーズにいった訳ではなかった。オンラインでのコミュニケーションでの基本姿勢は対面のときと変わらないのだが、オンラインでは「楽」をした分だけ刺激が少なく、脳の一部しか働かない。これは『オンライン脳』(川島隆太著)でも言及されていることだが、スクリーンやモニターが小さいほど、脳は同期しにくくなっている。言い換えれば、オンラインで情報は伝達できるが、心が動かず、共感が生じにくい。
意識的に行う作用、言い換えれば表面的な声掛けでは子供はもう反応しない。無意識からにじみ出るもの、主観的に言えば「子供のことを考え続けることでようやく成就されるような小さな言葉」が情報の受け手(子ども)に認知されて初めてメッセージとして伝わるようになる。
私の尊敬する人もそう言っていたが、「親にできることはそんなにない。できることと言えば、子どもの環境を整えることやその子が通う学校、学びに対する経済的支援ぐらい」である。哲学者である鷲田清一さんの著書名(タイトル)を使わせてもらえば、最後は『「待つ」ということ』しかできない。
本書の中では、自立した子どもの特徴として「当事者意識を持っていること」と「精神的に大人であること」が述べられている。外発的要因でなく内発的要因、すなわち本書の言葉を使えば自主性や当事者意識を備えることが重要であるという。この主張は、スタンフォード・オンラインハイスクールの星校長先生の著書『全米トップ校が親に教える57のこと』で説明されている「心の三大欲求」と重なる部分が多いと感じた。具体的な取り組みとして、本書の著者が経営している塾では中学生に森鴎外や志賀直哉などの文学作品を題材とした「答えが1つに決まらないテーマ」について考えさせたりディベートを行ったりせているそうで、この取り組みは海外と比べて議論をしない傾向にある日本人にとっては「自分で考えるきっかけ作り」としても有用であると感じた。
全体として、本書からは1つ1つの事例を科学的なアプローチから細かく説明しているようには感じなかった。しかし、今回この本を読んでみて「生身の人間が長年(本書の著者は30年ほど)生徒を指導し続けていると、その経験から導き出される教育論は科学的なアプローチをとったものと似たような結論にたどり着いている」ように感じた。説明されている語彙は異なっていても、そのように感じる箇所がかなり見られたのが個人的には面白く、「科学的なアプローチよるものとプロフェッショナルの教育者が経験的・身体的に導き出した帰結が似たようなクラスターに分類されている」と感じた。
(興味のある方は、ぜひ読んでみてください!)

(以下、関係ないメモ)
【「書く」ことについて】大抵の場合、とりわけ何かについて書こうとするとき、私は最初の一文が書けさえすれば残りの文章を最後までサーッと書き上げることができる。最初の一文とは、同文脈のややこしい範疇を提示するならば「書く内容、キーワード、単語、思考、文体など」と言い換えてもよい。出来のよい体が第一文を書き始めると、まるで編み物に熱中しだしたかのように没頭し、遅かれ早かれ着心地のよい衣類を仕立てることができる。万一途中で道を誤ったとしても長い道のりを経てやはり最後の一文まで辿り着く。もし出来の悪い体が第一文を書いたとしたら、歪な帰結的形態をとるからなのか妙な違和感を感じずにはいられない。これは身体感覚である。立派な第一文を書いたと思い込んでその文字列を読み直すと確かに言語的な論理は正しく見えるし、言葉やその内容も的を得ているように思われる。しかし、どこか妙な感がする。この「妙な」というニュアンスは言語的な要素の集合ではなく、その補集合によって導かれることが多い。この場合は頭や手ではなく体を動かすのが得策である。

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