受験について

instagramで以下の文章を投稿しようとしたら文字数制限を大幅にオーバーしてしまったので、こちらに投稿する。今年3回目の投稿になる。

【2024.4/8(月)】
いやー、大変だった。昨日は、新しい携帯電話にデータを移行していたのだが、捨てる情報と捨てない情報を選別する作業で何時間もかかってしまった。なんでも潔く捨てられないのが、どうも私の悪い癖らしい。

受験について少し書いてみたいと思う。ただ思ったことを書き散らすだけなのだが、書いたことに責任は持つようにしたい。ネットを飛び交う言語空間には、他者を落としいてることにインセンティブを支配されているのではと言いたくなるようなものがマジョリティになりつつある。それらの言葉が文字に起こされ、目に触れられ、口にされて皮膚に染み込むと「生命力が萎える」ような呪いの言葉を気軽に見ることができるようになって長い時間が経ったので、もうそのことにはもう驚きはしない。しかし、この現実が持続する限り、次世代を担うものがネットを利用し始めてそれらの言論空間をスタンダードなものと見なす危険性は依然として存在する。構造的にも教育的にも、次世代を担う子どもたちや若者たちは大事なものを奪われているようにしか見えない。私は1997年生まれなので、もし私よりも早く生まれた人がこの文章を読んでいるのなら、何人かは同じように思っているのではないだろうか?
さて、脱線する前に受験の話に戻ろう。受験とはとてもシンプルなものである。個人の努力が成果に結びつきやすく、それは数学的に言えば「右上がりの直線に回帰する」といってもいいだろう。(つまり、正の相関があるということ。)受験勉強の合格のための勉強をすればするほど、そこに属する母集団内での相対的な優劣の争いの中で「私ひとりだけ」がベネフィットを得ることができる。私が通っていた学校では、よく「受験は団体戦」なんて言われたが、それは正しくない。集団でチームを組み、「誰一人として置いては行かない」と集団が一致団結しても、最終的な合格あるいは不合格は個人番号(受験番号)で管理され、受験生全員が同じ「記号」として扱われる。「君は普段、困っている人がいたらいつも親切にしているから、試験監督である私が他の生徒よりも(こっそり)得点を多く換算してあげよう」というようなことは、絶対に起こらない。最終的には各人が合格最低点以上かそうでないかで篩にかけられ、網に残ったものが合格となる。この基本原理(ここではそう呼ぶことにする)さえ、理解しておけば受験対策はシンプルなものになる。
受験ではあまりにも簡単な問題を出題すると、みんなできてしまうので(最近はそうでもないと思うが)、その試験科目の得点ばらつきは小さくなる。同じように、あまりにも難しすぎる問題(いわゆる「難問」と呼ばれるもの)を出すと解けない人が続出するため、やはりその母集団の得点の分散は小さくなる。そこで、各大学あるいは高校入試の出題者は、「勉強していればできるが、解ける人と解けない人に分かれる」問題、すなわち「差がつく問題」を中心に出題することになる。受験する志望校にもよるが、経験的に言って合格最低点の七、八割はそのような問題である。残りの問題は「どの受験生でも(余程のことがなければ)誰でも解ける」ものと「難問」で均等に分かれる。だから、もしこの文章を読んでいる諸君のうち、受験を控えている者がいて、「志望校に合格したいんですけどどうすればいいですか?」と聞かれたら、私は「誰でもできる『サービス問題』と『差がつく問題』を得点できるような勉強をしなさい」とアドバイスするだろう。長い前置きを説明して、そのように伝えると、初めてそのことを耳にする受験生、あるいはかつて他の指導者に教えを乞うていた者は、「どの単元をやればいいんですか」「どの問題集をやればいいんですか」「どんな勉強法で勉強すればいいんですか」というようなことを話を遮って短絡的に聞いてくる。「全然言っていることが伝わっていないな」と困惑しながら、よくこんな説明をする。
「さっき言った基本原理は理解してくれたね。そう、最低点以上をとった人が受かるっていうやつ。ただ、ここでは『相対的な優劣を争った』上での最低点というのが重要なんだよ。相対的な優劣を争うなら、例えば『すごく勉強ができる』ような人が大多数だと頑張らないといけない量(勉強しないといけない量)がその分増える。しかし、逆に言えば『勉強を全くせず、学校のテストも全然できない』ような人がマジョリティだと、努力する量は少なくて済む。そこがポイントなんだよ。」
こう言われても、まだ話を聞いている子は口を開けたまま、ポカンとしている。よろしい。では、もっと具体的に説明しよう。学校生活を送っていると大抵はその集団内での「傾向」というものがある。例えば、授業を聞いていて、「この問題のこの部分がよくわからないなあ、困ったなあ」と言っている人、「お前、こんな問題もできないのかよ」と問題が解けていないにも関わらず堂々と言っているクラスメイト、「私は『自分がどこがわからないのか』がわからないんだけど、、」と呟いている人、これらメンバーを見ながら「え、みんななんでわからないの」と解けている(わかっている)人が教室にいる状況を想定するとわかりやすい。教室の中で誰も解けないような問題(難問)や初めは理解できない人が大多数を占めるような問題(差がつく問題)、そしてテストの問一のようなみんなできる問題(サービス問題)はその集団を観察して初めてわかるものである。それが相対的という言葉の意味である。
普段から「あ、こういう問題はみんな間違えるんだな」とか「あれ、自分だけじゃなくてみんなこの問題できているのか。なんか、がっかり」する状況に身を置いて、そこで起こっている状況を観察していれば、自然と「重点的に」勉強しないといけない問題やその「レベル」はわかるものである。自分で物事を考えようとしない人は、どのような勉強法・問題集・勉強場所がいいかといった「誰でも考えるようなこと」しか考えられず、結果としてまさにその相対的な優劣の中では「劣」に分類されやすい。そういうことは学校生活に慣れ親しんだ諸君が一番わかっているはずではないか。君たちは私たちと違って、その学びの場に身を置き、その現場で起こっていることの一次元的な情報(一次情報)を得ることができるのだから。その情報は、生で、新鮮なものである。そこによき指導者がいるのかはわからないけれども、もしそのようなものを望んでいる者がいるとしたら、そのような「師」を見つけるのは諸君の仕事である。「私はこの人から絶対に学ばなければならない」と感知する能力。それは消費者的なマインドで金銭を使っては、決して得られないものである。少なくとも、私はそう思う。「『師』を見つけ、学ばなければいけない」という使命感のようなものがどうも社会全体から剥離しているように感じる。ここで言っている「師」とは、ある段階から別のある段階へ導く(例えば「いい先生を紹介してくれた」とか「そのおじさんと一緒に遊んでいたらそのスポーツが得意になった」とか)といった、そういう些細だけれども「その人がいなければ階段を登ることができなかった」ような人も含んでいる。だから、「学校の授業をきちんと聞きなさい」、「姿勢を正しなさい」、「人に会ったら、挨拶をしなさい」、「人には親切にしなさい」というのは、案外正しいものなのである。それを根本的に、歴史的に理解するのは難しいけど。(詳しく知りたい子はマルセル・モースの書いた『贈与論』を読んでみてね。)

この前、受験生であるyくんにそのような話をしたら、その1週間後に

「今まで学校の授業が全然わからなかったんですけど、急にわかるようになりました!」

と報告してくれた。

それでよいのだよ。

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