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ワンステップ・フェスティバルのゴールデン・カップスを聴いた

 1974(昭和49)年夏、暴力団の抗争が絶えず「東北のシカゴ」と呼ばれていた福島県郡山にロックが轟いた。ヘッドライナーとしてアメリカからヨーコ・オノを招き、日本からもはちみつぱい、外道、サディスティック・ミカ・バンド、かまやつひろしなどなど、70年代日本ロックの主だったグループのほとんどが集結したワンステップ・フェスティバルである。ちなみに「東北のシカゴ」という仇名はいかにも昭和ふうの垢抜けない形容に思えるが、同地が舞台の体制的音楽映画『百万人の大合唱』('72)も治安の悪さを山本直純率いる合唱でなんとかしようという話だったので本当のことだったのだろう。

 その模様をまとめた4枚組のコンピレーションCDを聴き直していた(去年21枚組というすさまじいボリュームのボックスセットも出たらしいが)。前述した有名ミュージシャンから神無月、宿屋の飯盛、Vsopといったなかなかそれ単体では耳にする機会のないバンドまで、とにかく本邦におけるロックというものがまだそれ自体手探りで、音響システムからイベントの開催からろくにノウハウのないような時代の、だからこそ初期衝動と熱気溢れる演奏のてんこ盛りで聴き応えがある。21世紀のネットユーザーには「ネタ」でしかない内田裕也という人物が確実にこの時代の音楽シーンに寄与していたこともわかる。
 
 さて、そんな中で私の耳を惹きつけて放さなかったのは実は、そういった要素から奇妙に外れているとしか言いようのないとあるグループであった。デイヴ平尾&ゴールデン・カップス。言わずと知れた本牧出身のR&Bバンド、単体でドキュメンタリー映画が作られてしまうような、GSというよりは横浜ロックシーンの大御所として崇め奉られるバンドである。

 このときの編成は京都を拠点に活動していたデイヴ平尾にルイズルイス加部、柳ジョージが加わったものらしい。3曲収録されているうち最初の2曲は”Jesus Is Just Alright”と”Long Train Runnin’”、当時飛ぶ鳥落とす勢いだったドゥービー・ブラザーズのレパートリーである。GS時代、他のバンドの追随を許さない先進性を誇っただけあって本家に見劣りしない、見事な演奏である。しかし何かが決定的にズレている。それはこれが1968年でなく1974年であるということだ。

 前述のドキュメンタリーでも強調されていたとおりカップスは確かにR&Bバンドである。しかしそれは海外と日本との情報差が大きい時代ゆえの成立した、奇妙でなおかつ魅力的なR&Bだった。ヤードバーズの影響下にあるルイズルイス加部のせわしないベースライン、エディ播のトレモロ、ファズを駆使した独特のギター・フレージング、デイヴ平尾の粘っこい、演歌的とも言える唄い回し。彼らは本牧時代に得た米軍関係の情報網から海外のヒット曲をいち早くキャッチし、「本物」を知らない日本人の前で演奏して見せた。そのどこかじめっとした、まとわりつくような音像が「本物」とは随分異なるものだとは知らない若者たちはただひたすらに圧倒され、熱狂した。カップスはその方法論をレコード会社に押し付けられた歌謡曲にも持ち込み、ヒット曲を量産し続けた。それが通用したデビューからの2年間、彼らは他のバンドを寄せ付けない最強のGSだった。現在のカップスに対する評価というのは殆どこの時期を基軸になされているのではないか。

 ところが69年に差し掛かる頃から様相は変わり始める。米英では白人によるブルース・ロック、スーパー・セッションが大いに流行り、情報格差も縮まり始めた。これからはこういう音楽もやっていかなければならない、と思った彼らはそれなりに「きちんと」コピーすることにしたのだろう。しかし、そうやって出来た3rdアルバム『ブルース・メッセージ』はそれまでのアルバムと較べ奔放な面が抑えられひどく習作めいたものとなっている。なぜか。横浜の不良は「きちんと」してはいけなかったのである。音楽どころか人生に対する不真面目で奔放な態度、それがR&Bを演奏する時に高いテクニックと相俟って怪物めいた音世界を築く、それがカップスの本来の素晴らしさだったからだ。しかし彼らはそのジレンマに気づかず、ますます複雑化していく海外ロックのコピーに没頭していく。

 同じ頃、真面目というか厄介な自意識を抱えた連中が黎明期の日本ロックシーンに登場してくる。例えばドアーズに憧れたところで、カップスだったら単純に”Touch Me”をレパートリーとするところをその根本の精神性から自分たちの音楽性に落とし込もうとするジャックスというようなバンドが出てきた。その後ろにはバッファロー・スプリングフィールドの精神性を米国の実質植民地たる日本流に取り込もうという城南出身のインテリが率いる、恐ろしく厚かましいグループが控えていた。芸能と芸術、前近代と近代の変わり目だった。かくして、彼らの台頭と同時にカップスは急速にその存在感を喪失していった。

 と言ったわけで私はカップス現役時代最後のライブアルバムでスリー・ドッグ・ナイト”Joy To The World”などやっているのを聴くと殆ど泣いてしまうし、ましてや74年にドゥービー・ブラザーズをや…という感じなのだ。海外のロックに対していかに風土的制約をはね除けて自分たちの音楽を作るかというのは英国に渡ってノウハウを学んだ加藤和彦からアイズレー・ブラザーズのファンク・サウンドと格闘していた山下達郎という無名の青年に至るまで、ワンステップ・フェスに出ていた出演者は多かれ少なかれ意識していたはずだ(内田裕也は除く)。そこに登場して平然と流行りの洋楽をやって、さらに自分たちの昔のヒット曲までやって帰って行く。「えー、大変に、僕というかゴールデン・カップスを有名にしてくれた曲です。リクエストが相変わらず多い、『長い髪の少女』というのを軽く…」

 曲冒頭のデイヴ平尾のこのおどけたMCと嘲笑に近い拍手を聴く度に私はやりきれない気持ちになる。でも半面、これでいいのだと思う。こういうみっともない、時代錯誤で営業ノリで、かつての先進的イメージなどどうだっていいという定見のなさを愛せなければカップスを愛したことにはならないと心から思う。彼らはあくまで芸能が蔑まれた時代のいかがわしげな混血児であり、河原乞食だった。「アーティスト」ではもちろんなかったし芸能人というにはあまりに不器用すぎた。システム化した芸能界でアイドルに曲を提供したり事務所を構えたり、TVでタレントをやったりはしなかった。もちろん彼らを押しのけた誰かのように、古今東西の音楽を網羅的に聴いて大学の先生の如く「ポストモダン的見地」からそれを再構築し一財産儲けてみせるような小賢しい真似もしなかった。横浜の不良はそんなものハナから歯牙にもかけないのである。後世の人間が何と言おうと、彼らは激動の時代に咲いた徒花だった。だからこそ美しい。そこの本質が損なわれない限り、私はゴールデン・カップスとその音楽、そしてそんなどこにも属せないはぐれ者に居場所があった短い時代を愛し続けるだろう。

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