奈良時代の女医さん

「日本書紀」に続くわが国2番目の正史(青史)である「続日本紀」(しょくにほんぎ)を、1年ほどかけて丁寧に読んでみた。

文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)までの95年間の記録である。

「日本書紀」が神話を含めて文学的なにおいがするのに比べ、「続日本紀」は、例外はあるものの、おおむね事実のみを淡々と書いてある歴史書である。いわば大和朝廷の行政日誌ともいうべきもので、この時代に興味を持つ人以外には、かならずしも面白い書物とは言えない。

ただ、それゆえに昔から「日本書紀」に比べ「続日本紀」の歴史書としての信頼性ははるかに高い。「事実のみが記載されている」との定評がある。

もともと私は、神社についての興味からこの書物を読み始めたのだが、ヘッドハンターの立場からも興味深い記述をいくつか発見したので、何回かに分けてこのブログでご紹介したい。


元正天皇の養老6年(722)11月7日の記述に次のようにある。

「冬十一月七日、初めて女医の博士を置いた」

わが国最古の貨幣「和同開珎」が鋳造された14年後である。
この時代にすでに、女性のメディカル・ドクターがいたことに驚いたものの、ただこれだけの記述であり、女性の名前や経歴や、その背景も理由も書かれていない。
どのような女医さんだったか、想像をめぐらす以外にない。


近代日本における最初の女医は、荻野吟子(おぎのぎんこ)という人である。
嘉永4年(1851)-大正2年(1913)
この人が「女医第1号」の医師免許を取得して、湯島に「産婦人科荻野医院」を開業したのは明治18年(1885)、本人が34歳の時である。

荻野吟子は武蔵の国、現在の埼玉県熊谷市、に代々苗字帯刀を許された裕福な名主の末娘として生まれた。
慶応3年、16歳の時、望まれて近郊の豊かな名主の長男と結婚する。
ただ、旦那さんは相当な遊び人だったらしい。明治3年、夫からうつされた淋病がもとで離婚し、上京して順天堂医院に入院する。順天堂というのはずいぶん歴史のある病院だと今回知った。

幸いにも病気は完治するが、その時治療にあたった医師の全員が男性で、男性医師に下半身を晒して診察されるという体験から、女医となって女性たちを救いたい、と決意する。

当時、医学校はたくさんあったものの、女性の入学は前例がない、ということですべての医学校から入学を断られる。
明治8年、女性教育者の育成を目的とした、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が開校される。「将来医学校に入るために一般教養を身につけたい」との思いで、荻野はこの学校の1期生として入学し、明治12年、首席で卒業する。

同学校の永井教授は、荻野の女医になりたいとの強い熱意を知り、陸軍軍医の実力者である石黒軍医総監を介して、私立の医学校への入学をあっせんしてくれる。
荻野は男子学生に混じり、ハカマをはいてこの医学校に通い、3年後に優秀な成績で卒業する。
しかし、医学校を卒業しただけでは医師にはなれない。

医師になるための国家試験の願書を提出するが、東京府からも郷里の埼玉県からも拒否される。
総元締めの内務省衛生局におもむき懇願するも、結果は同じであった。
「過去に女性が受験した前例が無い」というのがその理由であった。

本当に前例はないのであろうか?荻野は必死で前例探しに没頭する。
そしてついに、その前例を発見するのである。


「吟子ちゃん、前例があるわよ!」
と教えてくれたのは、お茶の水師範学校時代の文科系の女子学生だったのではあるまいか。
荻野は医師になるための準備段階としてこの学校に入学したのだから、おそらく理科系の勉強に力を入れており、「続日本紀」は深くは読んでいなかったような気がする。


「養老六年、冬十一月七日、初めて女医の博士を置いた」

この一文を書き写し、彼女は当局に突きつけた。
「前例があるではございませんか!」と役人を相手に啖呵を切った。
「この印籠が目に入らぬか!」の格さん・助さんと同じである。

平安時代の初期、桓武天皇の御世に編纂された、「事実のみが記載されている」との定評のある
「勅撰史書」である。役人たちはぐうの音も出ない。
「ははー、参りました」と、東京府や内務省の役人たちが頭を下げたかどうかは知らない。
ただ、すぐさま医師試験の受験を許され、あっぱれ荻野吟子はこれに合格する。


「続日本紀」に記載されて1000年以上も経って、この短い一文は、ずいぶん大きな役割を果たしたといえる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?